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Episode 82. 雪見の茶会



雪の午後だった。


王城の北棟にある離れの談話室は、冬の客を迎えるためにあたたかく整えられていた。

大きな硝子窓の向こうには、白く埋もれた庭が広がっている。

低木も石畳も、枝先まで雪を載せて、輪郭をやわらかく曖昧にしていた。


室内には香りのよい茶と焼き菓子、薄く装丁された詩集や小品集が並べられている。

冬の社交らしく、声はみな控えめで、笑い声さえどこか薄い布に包まれたようだった。


名目は、雪見の茶会。

実際には、王都の有力貴族たちが王太子アラン・クレスティアの周囲をそれとなく探る場でもある。


ミュレットは、その場にいた。


だが、客としてではない。


正式な婚約発表前である以上、アランの婚約者として当然のように隣へ座ることはできない。

今日はあくまで、王城勤めの医務官として同席しているだけだった。


冬の客が集まる以上、体調を崩す者が出る可能性はある。

熱い茶の加減、室温、年配の客の顔色。

そうしたものへ気を配る立場として端に控え、必要があれば手伝う。


それは表向き、何ひとつ不自然ではない。

むしろ、立場としては綺麗だった。


だからこそ、少し苦しかった。


ミュレットは壁際の小卓のそばに控え、茶器の様子を見たり、侍女へ小さく指示を出したりしながら、できるだけ静かにその場へ溶け込んでいた。


その視界の先に、アランがいる。


窓際に近い席。

主催の伯爵夫人に勧められた、いちばん目立つ位置だ。


濃色の衣を崩さず、差し出された本にも短く目を通し、必要なだけ言葉を返す。

必要以上には笑わない。

それでも、その場にいる誰よりも目を引くのは仕方がないことだった。


女性客たちの視線が、自然と彼へ集まる。


露骨ではない。

さすがに皆、その程度の分別は持っている。


だが、こちらを一度見てからアランへ視線を戻す令嬢。

雪景色の感想を言いながら、わずかに距離を詰める夫人。

本を手渡すふりで、指先を近づけすぎる娘。


そんな空気の中で、ひとりの令嬢が、特に自然な顔で前へ出た。


歳はミュレットとそう変わらないだろう。

淡い水色の冬衣をまとい、言葉遣いは柔らかく、いかにもよく躾けられた貴族の娘という印象だった。


「殿下は、北方史もお読みになるのですね」


差し出された書物を見て、令嬢が微笑む。

アランは表紙に視線を落とし、短く答えた。


「一通りは」

「まあ」

令嬢は嬉しそうに目を細める。

「私も雪国の伝承には興味がございますの。とりわけ、冬の結界譚が――」


話題は上品で、知的で、無理がない。

しかも、割って入りにくい。


ミュレットはその様子を、少し離れた場所から見ていた。


自分は茶会の一員ではあっても、会話へ自然に入っていける立場ではない。

医務官としてそこにいる以上、客の輪へ混ざって話を取るわけにはいかない。


だからただ、見ているしかない。


令嬢は本を開き、頁を示すために少しだけ身を寄せる。

茶を勧める時も、あまりに自然に近い。

無礼ではない。

咎めるほどでもない。

だからこそ、面白くなかった。


ミュレットは、手元の茶器を持ち上げかけて、そっと置き直した。


胸の奥が、静かにざらつく。


あの人の隣へ行きたいわけではない。

いや、行きたい。

でも、今日は行けない。


婚約者としては立てない。

医務官として、端で様子を見ているだけ。


その立場の正しさが、今日はやけに痛かった。


「医務官殿、こちらの湯を少し」


年配の夫人に呼ばれ、ミュレットははっと我に返る。


「はい、ただいま」


微笑んで湯を注ぎ足す。

手は震えない。

声も乱れない。

医務官としての自分は、きちんとそこにいる。


それなのに、心だけがどこかうまくついてこなかった。


アランは会話を続けていた。

べつに楽しげなわけではない。

誰にでも同じように礼を尽くしているだけだ。


それが分かるから、なおさら苦しい。


嫌なわけではない。

信じていないわけでもない。

ただ、自分がそこへ入っていけない立場であることが、どうしようもなく寂しかった。


やがて、人々が窓辺へ寄り、雪の庭を眺める流れになった。


「今年は本当に深い雪ですこと」

「春の訪れも遅くなりそうですわね」

「けれど、こうして見る分には美しいものですわ」


令嬢がまた、アランのすぐそばへ立つ。

ミュレットは給仕の動線を邪魔しない位置へ、自然に一歩下がった。


隣に立ちたいのに、立てない。


たったそれだけのことが、胸の奥へひどく静かに刺さる。


その時だった。


「……ミュレット」


低い声が、まっすぐこちらへ落ちた。


思わず顔を上げると、アランがこちらを見ていた。

いつの間にか、令嬢の話ではなく、自分のほうへ意識を向けている。


「顔色が悪い」

「え」

「寒いのか」

「い、いえ」


令嬢が小さく笑う。


「殿下は、医務官殿にもお優しいのですね」


その言い方に、室内の空気がわずかに揺れた。


アランは令嬢を見た。

だが返事は短い。


「当然だ」


それだけだった。


その短さは、続きを許さない響きを持っていた。


令嬢は一瞬だけ言葉を失い、それから上品に微笑んで一歩下がった。


その場は、それで収まった。


だがミュレットの胸の内は、収まらなかった。


優しい。

ちゃんと見てくれている。

それも分かる。


なのに、やっぱり自分は端にいる。

“当然だ”の中身を、この場では誰も知らない。

自分も、言えない。


それが寂しかった。


茶会はそのまま、礼を崩さず終わった。


主催の伯爵夫人へ挨拶をし、客たちが少しずつ引き上げていく。

ミュレットも、最後に茶器の乱れがないかだけ確かめ、「失礼いたします」と小さく頭を下げ、そのまま自室へ戻ろうとした。


なのに、回廊へ出たところで、手首を掴まれた。


「……っ」


振り返る。


アランだった。


表情は穏やかだ。

けれど、掴んだ手は逃がす気がない。


「アラン様?」

「こっちだ」


低く言うと、そのまま近くの小さな談話室へ引き入れる。


談話室へ入ると、扉が静かに閉まった。


雪見の客用に開かれていた広間とは違い、こちらは火も小さく、静かな部屋だった。

外のざわめきが遠のく。


ようやく二人きりになって、アランはミュレットの手を放した。


「……何かございましたか」


先にそう言ったのはミュレットだった。

自分でも、少し固い声だと分かる。


アランはしばらく黙っていた。


それから、まっすぐこちらを見て言う。


「茶会の途中から、様子がおかしかった」


ミュレットは返事に詰まった。


「寒かったわけではないな」

「……はい」

「気分が悪いわけでもない」

「……はい」

「では、何だ」


その問い方は、以前のアランより少しだけやわらかかった。

理屈を言う前に、まず聞こうとしているのが分かる。


それでも、答えるのは難しい。


黙っていると、アランが一歩だけ近づいた。


「ミュレット」

「……」

「いま言え」


ミュレットは唇を噛んだ。

それから、観念したように小さく息を吐く。


「……アラン様は、無防備です」


アランの眉が、わずかに動く。


「そう、だったか……?」


その返事は、否定ではなかった。

同時に、まだ心当たりがないような顔でもあった。


その表情に、ミュレットは少しむっとする。


「そうです」

「……」

「皆、見ていました」

「……」

「素敵な方だと」

「……」

「目を輝かせて」


アランは黙ったまま、ようやく少しだけ考える顔になった。


ミュレットはその沈黙に、胸の奥がまたちくりとした。


「でも」

視線を逸らしたまま言う。

「こんなこと言っても、仕方がないでしょう?」


その声は、拗ねているようでいて、どこか諦めてもいた。


婚約の発表はまだない。

だから、あの場で自分はただの医務官だった。

アランの近くにいても、そこへ踏み込む資格はない。


それが正しい。

正しいのに。


ミュレットはそれ以上何も言えなくなって、くるりと背を向けた。


「……失礼します」


このまま話していたら、子どもじみたことまで言ってしまいそうだった。


扉へ向かう。

逃げるようではないつもりだった。

けれど、早足になっていたかもしれない。


あと一歩で手が届く、というところで。


「待て」


低い声と同時に、肩を掴まれた。


「……っ」


止められる。


強い力ではない。

だが、行かせない意思だけははっきり伝わる手だった。


ミュレットは振り返れなかった。


その背後で、アランがひとつ息を吐く気配がした。


「……仕方がないと諦めるのか」


今度の声は、さっきとは少し違っていた。


ようやく繋がった者の声だった。


ミュレットは黙ったまま、肩を掴まれた手の熱を感じていた。


アランはそのまま、すぐ後ろで低く言う。


「それでは、この城を出て行った時と同じだ」

「あの時とは、状況も違います」


再び出ようとするミュレットを、アランは逃がさなかった。

肩を引き、自分のほうへ振り向かせる。


「同じだ」


低く、はっきりした声だった。


「仕方がない」

「こうあるしかない」

「そう思って、ひとりで背を向ける」

「……」

「俺に何も言わずに、納得したふりでいなくなる」

「……」

「それは、同じだ」


その一言に、胸の奥のつかえが少しだけ崩れた。


アランはまっすぐにミュレットを見ていた。


「話してくれ」


真剣な眼差しだった。


言葉が少ない人だ。

でも今は、はっきりと求めている。


黙らずに。

飲み込まずに。

自分へ向けてくれ、と。


ミュレットは喉の奥が熱くなるのを感じながら、小さく口を開いた。


「私は」

「……」

「ただ」

息をひとつ吸う。

「……少し、寂しかっただけで」


肩を掴む手が、わずかにやわらぐ。


「エルニアから帰る時も、言いました」

「……」

「きっと、やきもちをやいてしまうと」


アランは、その言葉を受け止めるように静かに頷いた。


「……ああ」

低く言う。

「そうだったな」


そしてそのまま、逃がさないように静かに抱き寄せた。


ミュレットの額が、自然とその胸へ触れる。


「春になれば、婚約の正式発表へ進める」

「……」

「立場は、その時には嫌でもついてくる」


アランの声は低い。

けれど、どこか少しだけ苦くもあった。


「これは、俺のわがままなんだが」

「……」

「冬の間は、ミュレットと二人の時間を多くしたかった」

「……」

「雪で動けないことを言い訳にして、全部、春の発表へ向けて進めている」

「……」

「今は時間がある」

「……」

「だからこそ、急いで外へ出すより先に、ミュレットと静かに過ごしたかった」


ミュレットは目を閉じたまま、その言葉を聞いていた。


そういうことを、最初から言ってくれればいいのにと思う。

でも、こうして言葉にしてくれるだけで、胸のあたりがあたたかくほどけていく。


アランの手が、背へゆっくりと回る。


「仕方がないと」

「こうあってはならない」

「そう思って黙っていなくなるのは、やめてくれ」

「……」

「そうならないためなら、どんな努力も惜しまない」


その言葉に、ミュレットは思わず顔を上げた。


アランは体を少し離し、揺れる瞳でこちらを見る。

それから、頬にかかった髪を指先でそっと払った。

そのまま、頬へ手を添える。


いつもより近い眼差しだった。


ただ宥めているのではない。

ミュレットがひとりで感情を殺して背を向けたことに、アラン自身も確かな不安を抱いたのだと分かる眼差しだった。


ミュレットはその手のぬくもりへ、そっと頬を寄せる。


「……分かりました」

「……無理をしていないか」

「少しだけ、しています」

「正直だな」

「でも」

ミュレットは小さく笑った。

「前よりは、言えました」


その返事に、アランの目元がほんの少しだけやわらぐ。


外では雪が降り続いている。

白く、静かに。


その雪の午後、談話室の中で、ミュレットはようやく“寂しかった”をアランへ言葉にして渡した。

そしてアランは、それを取りこぼさずに受け止めていた。



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