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Episode 81. 女心とは



夕食を終え、ミュレットの部屋を出たあとも、アランの胸の内にはまだ小さな熱が残っていた。


回廊の窓は白く曇り、外灯の明かりさえ、降り積もる雪にやわらかく呑まれている。

城全体が静まり返っているようで、どこか遠くでは見張りの足音が規則正しく続いていた。


ミュレットは、最後には笑っていた。

拗ねたままではいなかったし、夕食も一緒に取った。


それでもアランは、自分がひとつ読み違えたことを、はっきり自覚していた。


あの封書の山を見て、ミュレットが何を思うか。

そこを考え損ねた。


気にする必要はない。

返事は出していない。


理屈としては間違っていない。

だが、あの時欲しかったのは、そういう説明ではなかったのだろう。


執務室へ戻ると、暖炉の火はまだ落ちていなかった。

机の上には昼からの書類が残っている。

部屋の隅の小卓には、さっき無造作に追いやった招待状と便箋が積まれたままだ。


アランはそれを一瞥してから、椅子へ腰を下ろした。


まだ少しだけ、納得できない。


あれらが届くこと自体に腹が立つわけではない。

届こうが届くまいが、自分の答えは変わらない。


だが、ミュレットがそれを横目で見て、ひとりで引っかかっていたこと。

それに対して誠実に答えたつもりが、かえって彼女の機嫌を損ねる結果になったこと。

それが、どうにも腑に落ちなかった。


あの時、もっと早く気づければよかった。

そうすれば、あんなふうに頬を膨らませたまま部屋を出ていかせずに済んだのに。


書類へ手を伸ばしかけたところで、扉が叩かれた。


「入れ」


入ってきたのはディルクだった。


夜の報告を持ってきたらしい。

外套の肩には細かな雪が残っている。

いつものように無駄のない足取りで机の前まで来ると、一礼した。


「東門側の巡回報告を――」


そこまで言って、ディルクはわずかに目を細めた。


主君の顔が、いつもと違う。

疲れているというより、何かを考え込みすぎている顔だ。

戦況でも、政治でも、書類でもない何かを。


「……殿下?」

「何だ」

「何かございましたか」


アランはすぐには答えなかった。


東の警戒線。

帝国側の動き。

西の貴族の調査。

そういう話なら、いくらでも答えられる。


だが、いま頭にあるのは別のことだった。


しばらく黙ったあと、アランは低く言った。


「……女心とはなんだ」


ディルクは固まった。


報告書を持ったまま、微動だにしない。

表情だけが、ゆっくりと崩れた。


「は」

「聞こえなかったか」

「聞こえましたが」

「そうか」


アランは真顔だった。

少しも冗談を言っている顔ではない。


つまり本気だった。


ディルクは天井を仰ぎたい衝動を、どうにか飲み込んだ。

代わりに、静かに問う。


「……何があったのです」


アランは机の端を一度だけ指先で叩いた。


「封書があった」

「はい」

「見ていた」

「……はい」

「俺は説明した」

「はい」

「だめだった」

「……」

「そのあと、夕食を断られた」

「なるほど」


ディルクはそこで大方を悟った。


詳しく聞かずとも分かる。

机の端の封書。

ミュレットが見ていた。

アランは説明した。

そして夕食を断られた。


それだけで十分だった。


「追いかけたのですか」

「ああ」

「謝られましたか?」

「……謝った」

「その後は?」

「……抱きしめた」


ディルクは小さく息を吐いた。


「では、最悪の結果は免れましたね」


アランはわずかに眉を寄せた。


「最悪の結果……」

「ええ」

ディルクは平然と言う。

「ただ、最初の順番を間違えたのでしょう」

「順番?」

「まずは話を聞く、それからです」


アランは黙る。


ディルクは報告書を机へ置いた。


「殿下は、引っかかっているものを見つけると、まず原因を片づけようとなさる」

「当然だ」

「ええ。公務では正しい」

「……」

「ですが、同じやり方がいつでも通るわけではありません」


暖炉の火が、小さく鳴る。


外の雪はまだやまない。


「理屈としては、正しかったのでしょう」

ディルクは続ける。

「返事は出していない、正式発表前だから届く、気にする必要はない……どれも間違ってはいない」


アランは少しだけ視線を落とした。


「だが、違った」

「ええ」

ディルクは頷く。

「たとえそれが正論であっても、飲み込まねばならない時がある」

「……」

「先に必要なのは、理屈ではなく“何を思ったのか”のほうです」


アランはしばらく考え込んだ。


「話を聞く」

「はい」

「そのあと、必要なら説明する」

「ええ」

「抱きしめるのは」

「有効でしょうが、それだけで解決ではありません」

ディルクは淡々と言う。

「ただ抱きしめて解決では、女性は満足しません」

「……」

「先に、気づいてもらえたかどうか」

「受け止めてもらえたかどうか」

「そこが大事です」


アランはさらに眉を寄せた。


「面倒だな」

「そうですね」

ディルクは即答した。

「ですが、そういうものです」


少しの沈黙が落ちた。


やがてアランは、ぽつりと言う。


「俺は、机の端にあるものを見て嫌だったのだと、そこへすぐに思い至らなかった」

「でしょうね」

「そう断定するな」

「殿下が“女心とはなんだ”と仰った時点で、だいたい察しました」

「……」

「それに」

ディルクは少しだけ目元をやわらげる。

「ミュレット様も、殿下へそういう顔を見せるようになられたのでしょう」


アランの目が、わずかに動いた。


「そうか」

「ええ」

「前なら、もっと飲み込んでおられたはずです」

「……」

「拗ねるのも、困らせるのも、甘えるのも」

「殿下なら見せてよいと、思われているからでしょう」


アランは答えなかった。


だが、否定もしなかった。


ミュレットの頬を膨らませた顔。

小さく拗ねた声。

“ばか”と零した時の、あの頼りない響き。

それらが、胸の内で静かに熱を持つ。


ディルクはそんな主君の顔を見て、半ば呆れ、半ば安堵したように続ける。


「ですから」

「……」

「次からは、机の端にああいうものを積まない」

「……ああ」

「そして、何か引っかかっている顔をしておられたら、まずは話を聞く」

「……」

「説明は、そのあと」

「……そうか」


アランは窓の外へ視線を向けた。


雪は深く、静かに降り続いている。

東の警戒も、春の同盟も、帝国の影も、まだ何も終わってはいない。


それでも今夜だけは、その白さが城を少しだけ遠い場所へ切り離しているように見えた。


ディルクは机の上の報告書へ目を落とし、主君の横顔をちらりと見る。


アランはしばらく雪を見たまま、低く呟いた。


「戦より難しいな……女心とは」


降り積もる雪だけが、静かにその言葉を受け止めていた。



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