Episode 80. 利ではなく
冬の午後だった。
執務室の窓の外では、雪が絶え間なく降り続いている。
白い光は明るいはずなのに、厚い雲に押さえられて、部屋の中にはどこか薄い影が落ちていた。
暖炉は燃えている。
書類も整っている。
机の上には、湯気の立つ茶まで用意されている。
静かなはずの執務室は、ミュレットには少しだけ息苦しかった。
理由は、机の端にあった。
封蝋のついた正式な書状。
金の箔を押した、華やかな招待状。
香の残る、やけに厚手の便箋。
無造作に重ねられているそれらの中には、はっきりとは書かれていなくても、なお縁談の余地を探るようなものが混じっている。
舞踏会への招待。
晩餐への案内。
冬が明けたのちの訪問打診。
そして、まだ正式な婚約発表前だからこそ、動けると思っている者たちの気配。
城の中では、もう知っている者が多い。
ミュレットの左手には指輪もある。
それでも外から見れば、クレスティアの王太子はまだ完全には手の届かない存在ではないのだろう。
ミュレットも、それをもう知ってしまっていた。
ちらりと横目で見る。
すぐに視線を戻す。
見なければいいのに、目に入ってしまう。
アランは机の向こうで書類を読んでいた。
時おりペンを取り、短く何かを書き込み、また別の封書へ視線を移す。
その顔はいつも通り落ち着いている。
何の迷いもないように見える。
たぶん本当に、迷っていないのだろう。
それは分かっていた。
これだけ言葉をくれている。
これだけ触れてくれている。
エルニアまで追いかけてきてくれた人が、今さら他へ心を移すとは思えない。
不安というより、もっと別のものだった。
胸の奥に小さく刺さる、拗ねたような痛み。
分かっているのに、面白くない。
自分でも子どもじみていると思う。
それでも、嫌なものは嫌だった。
アランがようやく顔を上げる。
「どうした」
いつも通り低い声だった。
それだけで、見られていたのだと分かる。
ミュレットは少しだけ背筋を伸ばした。
「いえ」
「……」
「何でもありません」
答えると、アランはそれ以上追及しなかった。
機嫌が悪いとも、不安そうだとも、どうやら思っていないらしい。
ミュレットは小さく視線を落とした。
気づいていない。
あれほど言葉をくれているのだから、こんなことで自分が引っかかるとは、たぶん思ってもいないのだろう。
それはそうかもしれない。
自分でも、少し理不尽だと思う。
それでも、気づいてほしいと思ってしまう。
その日の用件は、春に向けた書状の整理だった。
サンダレインへの返書。
エルニアからの打診への確認。
クレスティア側から出す文面の言い回し。
ミュレットは補助として、読みやすいように書類を並べ替えたり、必要な封書を脇へ避けたりしていた。
その途中で、どうしてもまた、机の端の手紙が目に入る。
ひとつやふたつではない。
こんなに届くのだ。
まだ正式に発表していないとはいえ。
指輪が見えるようになっても。
少しだけ口元が固くなる。
アランは書類を一通閉じると、別の封書を手に取りかけて、ようやくミュレットの視線に気づいたらしい。
「それか」
さらりと言う。
「……はい」
アランは机の端へ積まれているそれらを一瞥した。
本当に、一瞥だけだった。
「気にする必要はない」
「……」
「返事は出していない」
「そう、ですか」
淡々とした声。
それは安心させるための言葉のはずだった。
なのに、なぜだろう。
余計に拗ねたくなる。
気にする必要はない。
それはつまり、気にするほどのことではない、ということだ。
たしかにその通りなのだろう。
でも、そうではなくて――と、言いたくなる。
「何か問題があるか」
アランが問う。
本当に分かっていない顔だった。
ミュレットは少しだけ笑いそうになって、やめた。
こんな時に笑ったら、きっと変になる。
「……問題は、ありません」
「そうか」
「はい」
それで会話は終わった。
終わってしまった。
ミュレットは書類をそっと揃え直し、胸の奥がじわじわと重くなるのを感じていた。
不安ではない。
信じていないわけでもない。
ただ、面白くないのだ。
あんな手紙がまだ届くことも。
それをアランがあまりに当然のように片づけてしまうことも。
自分がそれに引っかかっていると、少しも気づいてもらえないことも。
やがて、その日の整理はひと区切りついた。
アランは最後の一通へ署名を入れ、侍従へ回すよう脇へ置く。
「今日はここまででいい」
「……はい」
ミュレットは立ち上がった。
礼をして、机の上を整える。
いつも通りに終わるはずだった。
だが、今日は少しだけ違った。
気持ちが沈んだままなのに、うまく言えない。
言えばいいのかも分からない。
こんなことで、と自分でも思う。
だから、もう出ようとした。
「ミュレット」
扉へ向かいかけたところで、アランが名を呼ぶ。
振り返る。
「夕食は俺の部屋で食べよう」
いつもの、静かな言い方だった。
当然のようで、少しやさしい。
たぶんそれは、彼なりの気遣いでもある。
普段なら、それだけで嬉しかっただろう。
だが今日は、胸の奥に引っかかっている棘のほうが先に動いた。
「今日はいいです」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
アランがわずかに目を止める。
「何かあるのか」
「……いいえ」
「では」
「今日は、いいです」
繰り返した声は、思ったより固かった。
ミュレットは自分でそれに気づいていた。
少し怒っているみたいだ、と思う。
実際、怒っているのかもしれない。
いや、怒るというより、拗ねているのだろう。
それでも、もう引けなかった。
「ミュレット」
もう一度、名を呼ばれる。
だが、その声にもまだ、理由をまったく掴めていない気配があった。
それが、最後のひと押しになった。
「失礼します」
ぺこりと頭を下げて、そのまま扉へ向かう。
少しだけ早足になる。
自分でも、子どもみたいだと思う。
でも、止まれなかった。
扉を開けて、外へ出る。
閉まる直前まで、アランは何も言わなかった。
執務室に残された静けさが、扉一枚ぶん隔てて急に遠くなる。
そして――。
部屋の中で、アランは固まった。
机の前に座ったまま、しばらく一歩も動かない。
今日はいい。
二度も繰り返した。
あんなふうにはっきり断られたことは、一度もなかった。
怒っている。
いや、怒るというより――。
そこでようやく、机の端の手紙へ視線が落ちる。
封蝋付きの書状。
招待状。
香の残る便箋。
無造作に積まれていたそれら。
その隣で、さっきまでミュレットが何度も視線を落としていたことを、遅れて思い出す。
「……まさか」
低く漏れた声は、呆れ半分、驚き半分だった。
あれか。
ようやく意味が繋がった瞬間、アランは片手で目元を覆った。
「……そういうことか」
初めて見た反応だった。
はっきり拗ねて、怒って、夕食まで断って出ていくなど。
それが少しだけ、いや、かなり――。
「……可愛いな」
ぽつりと零れて、アランは自分で眉を寄せた。
違う。
まずそこではない。
アランは立ち上がった。
そして机の端にあった招待状と、香の強い便箋だけをまとめて取り上げると、部屋の隅の小卓へ無造作に置いた。
視界に入りにくい場所だった。
それから執務室を出る。
廊下を進む足取りは早かった。
放っておけば、きっと今夜まで引きずる。
何より、自分が落ち着かない。
ミュレットの部屋の前で一度だけ息を整え、扉を叩く。
返事はない。
もう一度叩く。
「ミュレット」
少し間を置いてから、「……はい」と小さな声が返った。
「入るぞ」
扉を開けると、ミュレットは長椅子の上にいた。
靴を脱ぎ、片側へ身体を寄せるように座って、折り曲げた膝に顔を埋めている。
その姿を見た瞬間、アランは少しだけ黙った。
それから長椅子の前まで歩き、静かに膝をつく。
片手を椅子へつき、顔を上げないミュレットを見上げるようにした。
「……悪かった」
低く言う。
「気づかなかった」
ミュレットはすぐには顔を上げなかった。
膝へ頬を押しつけたまま、くぐもった声で言う。
「……アラン様は、縁談を放ったらかしにしすぎたの」
その言い方が、いかにも拗ねていて、なのに本気で嫌だったのだと分かる響きで、アランはまたひとつ沈黙した。
「……放ったらかし、か」
「……だって」
ようやく少しだけ顔が上がる。
膝を抱えたまま、ミュレットは少し不満そうに眉を寄せた。
「アラン様は、サンダレインのグレン王子が人気だと仰いますが」
「……」
「現に、封書はこんな時期になっても届き続けるし」
「……」
「女性はまず、口が上手い男性より、身分とお顔立ちで相手を見るということを分かっていないです」
アランは一瞬だけ目を止めた。
「……ずいぶんな言い方だな」
「事実です」
「全員がそうではない」
「でも、多いです」
「……」
「少なくとも、あの封書の山はそうでしょう?」
感情的な物言いだった。
いつもならもう少し遠慮するところを、今日は少しも隠していない。
「まだ正式発表前である以上、一定数の打診が残るのは避けられない」
「……」
「城の中で知られていても、外へ正式な形で出していなければ、向こうはまだ動けると判断する」
「……」
「招待状や書状が届く理由はそこだ」
理屈としては正しい。
いかにもアランらしい、無駄のない説明だった。
だが、ミュレットの表情は晴れなかった。
「分かっています」
「……」
「そんなこと、分かってます」
言いながら、ミュレットの顔が少しだけ歪む。
その瞬間、アランはようやく黙った。
ミュレットは膝を抱え直したまま、視線を逸らす。
「理屈は分かります」
「……」
「でも、あんなふうに机の端へ積まれているのを見て」
「……」
「アラン様が平然としていたら」
「……」
「わたしだけ、嫌だと思っているみたいで……」
その声は小さい。
だが、はっきりと拗ねていた。
アランはそれを見て、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「分かった」
「……」
「今後は目につくところへ積ませない」
「……」
「不要なものは先に下げる」
「……はい」
「正式発表前でも、できる処理はしておく」
その言葉に、ミュレットは少しだけ肩の力を抜きかけた。
だが、すぐには頷けなかった。
違う。
目に見えるところへ積まれなければ、それで済む話ではない。
あんなふうに封書が届き続けること自体が嫌なのだ。
それなのに、アランはまた、片づけ方の話をしている。
胸の中に残った曇りは、まだ晴れなかった。
ミュレットは視線を落としたまま、小さく唇を噛む。
それから、ほとんど膝へこぼすみたいに呟いた。
「……アラン様の、ばか……」
拗ねたような、弱ったような声だった。
アランの指先が、わずかに止まる。
ミュレットは顔を上げない。
「……女心が、全然わかっていない」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
言いすぎたかもしれない、とも思う。
でも、引っ込めたくはなかった。
アランはすぐには答えなかった。
何か言おうとして、やめる。
また少し考える。
理屈を並べても、たぶん今のミュレットには届かない。
いや、理屈はもう十分に言ったのだ。
それでも晴れないのなら、いま必要なのは別のものだ。
ようやく、そう気づいた。
アランは長椅子の前から立ち上がると、ミュレットの隣へ静かに腰を下ろした。
その気配に、ミュレットが少しだけ肩を強ばらせる。
次の瞬間、左手を引かれた。
「……っ」
そのまま、抱き寄せられる。
強くではない。
だが、逃がさないような腕だった。
ミュレットの身体が、自然とアランの肩へ預かる。
顔を上げなくても、その胸の熱がすぐ近くにあると分かった。
「すまない」
低い声が落ちる。
「俺が全部悪い」
その言い方があまりにもまっすぐで、ミュレットは思わず息を止めた。
アランの手が、背をゆっくり撫でる。
子どもをあやすような手つきではない。
落ち着くまでここにいると伝えるような、静かな触れ方だった。
「……」
「話せば片づくと思った」
「……」
「そうではなかったな」
ミュレットは、ようやく小さく息を吐く。
胸の奥で引っかかっていた棘が、少しだけ動く。
まだ完全には抜けない。
それでも、さっきまでよりはずっとやわらかい痛みになっていた。
「……嫌だったの」
かすれた声で、ぽつりと言う。
「……ああ」
「アラン様が、気づいてくれないのが……」
最後のほうは、アランの胸元へ少しだけ額を寄せるような声になった。
アランの手は止まらない。
背を、肩を、静かに撫で続ける。
「すまない」
「……公務と同じ片付け方をしないでください」
「そうだな」
あっさり認められて、ミュレットは少しだけ唇を尖らせた。
その小さな変化に気づいたのか、アランの腕にほんの少しだけ力がこもる。
「だが」
低い声が、すぐそばで落ちる。
「届いたものが何であれ、俺の答えは最初から変わらない」
「……」
「利があるかどうかで選んだわけではない」
「……」
「俺が選んだのは、ミュレットだ」
ミュレットは何も言えなかった。
疑っていたわけではない。
そこは、ちゃんと分かっている。
分かっているからこそ、こんなふうに拗ねてしまったのだ。
アランの胸元へ額を押しつけたまま、ミュレットは小さく呟く。
「……もっと、先に抱きしめてくださればよかったのに」
「……」
「そうしたら、たぶん」
「……」
「もう少し、早く機嫌が直りました」
その言葉に、アランはわずかに黙った。
それから、背を撫でる手つきが少しだけやわらぐ。
「覚えておく」
真面目な声だった。
ミュレットは、その返事が少しだけおかしくて、ようやく小さく笑った。
しばらくそのまま、二人のあいだに静かな時間が落ちる。
窓の外では雪が降っている。
部屋の中は暖かく、長椅子の上ではまだアランの腕がほどけない。
やがてアランが、低く言った。
「夕飯は一緒に食べてくれるか?」
ミュレットはすぐには答えなかった。
しばらく沈黙したあと、胸元へ額を寄せたまま小さく言う。
「……食べるって言うまで、離さないでしょう?」
アランの腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「そのつもりだ」
ミュレットは、その返事が少しだけおかしくて、また小さく笑った。




