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Episode 78. 雪のはじまり



本格的に雪が降りはじめてから、城の空気は少しずつ変わっていった。


朝、窓を開ければ白い光が差し込む。

石の回廊はいつもより静かで、外へ出る者の足音も減る。

城下へ通じる街道は雪に埋もれはじめ、使者や荷馬車の往来も目に見えて鈍くなった。


ミュレットの暮らしも、また少し変わっていた。


喉はまだ完全ではない。

長く話せば掠れるし、朝はひりつきが残る。

脚の火傷も、寒い日は鈍く痛んだ。

それでも医務長の許しを得て、要請があれば医務室で治癒の力を使うことはできるようになっていた。


もっとも、本格的に雪が降り出してからは、城内へ慌ただしく運び込まれる急患の数は減っていた。

大きな鍛錬は控えられ、兵たちの訓練も内向きになり、城の中で騒がしく人が行き交うことも少なくなった。


その代わり、アランはそうした薄く残る不調を思った以上に気にしていた。


朝、ミュレットが喉を押さえれば眉を寄せる。

ひとたび咳き込めば、すぐに湯を用意させる。

寒い日に歩く速度が落ちれば、脚が痛むのかと低い声で問う。


ミュレットは喉元へそっと触れてから、小さく笑った。


「もう平気です」


アランはその仕草を見て、わずかに眉を寄せる。

掠れた声も、無意識に庇う手つきも、彼には十分すぎるほどだった。


「……そう見えない」


ミュレットは困ったように目を細める。


「アラン様は過保護です」

「そうかもしれないな」

「否定なさらないのですか?」


アランはごく自然に答えた。


「婚約者だからな」


あまりにも当然のように言われて、ミュレットは返す言葉を失った。

叱られているようでいて、ひどく大事にされているのが分かってしまう。


そんなやり取りが、最近は増えていた。


ミュレットにしてみれば、少し大げさなくらいだった。

だがアランにとっては、エルニアで炎の中をくぐり抜けたあとに残った喉と脚の不調は、まだ終わっていないものらしい。

ミュレットが平気な顔をしていても、アランだけはそう思っていない。


だから最近のミュレットは、以前より長く、自室や図書室、あるいはアランの私室で静かな時間を過ごすことが多かった。


その日も、昼を少し過ぎたころだった。


ミュレットはアランの私室の窓辺に立ち、白く降り続く雪を見ていた。


空は低い。

細かな雪片が絶え間なく落ち、城下も城壁も、遠くの森の輪郭も、やわらかく滲ませている。

荒々しさはない。

ただ静かに、世界の音を少しずつ吸い取っていくような雪だった。


背後では、アランが書類に目を通している。

紙をめくる音だけが、部屋の静けさへ時おり細く差し込んだ。


「静かですね」


ミュレットがそう言うと、少し間を置いてから低い声が返る。


「ああ」


短い返事だった。


それでも、その一音だけでちゃんと聞いているのだと分かる。

ミュレットは窓の外を見たまま、小さく続けた。


「少し、安心します」

「雪がか?」

「はい。なんだか……外のことが、少し遠くなる気がして」


追われることも。

見つかることも。

誰かに見張られているような息苦しさも。


白い雪は、そういうものをひととき遠ざけてくれる気がした。


アランはそこでようやく顔を上げた。


「外の動きは鈍る」

「……」

「人も、馬も、荷も」

「はい」

「だが、完全に止まるわけではない」


その言い方に、ミュレットはそっと振り返る。


アランの顔は穏やかだった。

ただ、その目の奥にはわずかな警戒が残っている。

雪の静けさを見ても、ただ休んではいない人の目だった。


ミュレットは何も言わなかった。

言わなくても、その沈黙ごと受け取ってもらえると分かっていたからだ。


アランはそんなミュレットを見て、ほんの少しだけ目元をやわらげた。


「火傷に響く」

「……はい」

「窓辺に立つのは、そのくらいにしておけ」


そう言って、机の端に置いてあった湯気の立つ器を手に取る。


「温かいものを用意した」

「……わたしの、ですか?」

「ああ」


ミュレットが近づくと、アランは当然のようにその器を差し出した。

中には薄く琥珀色をした湯が入っている。

蜜の甘い香りが、ふわりと立ちのぼった。


「蜂蜜湯を作らせた」

「……ありがとうございます」


両手で受け取る。

温かい。


その時、アランの視線がふと手元へ落ちてきた。


器を持ち上げる左手の薬指には、婚約指輪がある。

それを隠す気は、もう今日はなかった。

それでも、見られていると分かると、やはり少し落ち着かない。


その一瞬だけで、ミュレットの頬は少し熱くなった。


「熱い。ゆっくり飲め」

「はい」


一口含むと、甘さと温かさが喉の奥へやさしく落ちていく。

薬ではない。

それなのに、薬よりずっと身体に沁みた。


「おいしいです」

「そうか」

「バスティアン料理長がお勧めしてくださったのですか?」


アランは一瞬だけ黙り、それからわずかに顔を逸らした。


「……いや」

「……」

「喉に効く薬の本で読んだ」


ミュレットは目を瞬いた。


忙しい執務の合間に、そんな本まで開いたのだろうか。

自分の喉のために。

蜂蜜湯まで用意させて。


――かわいい。


危うくそのまま口に出しかけて、ミュレットは慌てて飲み込んだ。

たぶん今それを言ったら、また少し面倒なことになる。


「……そうだったのですね」

「ああ」


かすかに笑うと、アランもごくわずかに目を細めた。


それだけで、さっきまで窓の外に感じていた冷たさが、少し遠のく。


アランの私室には、こういう静かな時間が増えていた。

ミュレットが本を読み、アランが書類を見る。

時々、短い言葉を交わす。

たまに蜂蜜湯や茶が出される。


何でもない時間のはずなのに、こんなに心がほどけるのは、前には知らなかったことだった。


その日も、蜂蜜湯を飲み終えたあと、ミュレットは窓辺から少し離れた長椅子へ腰を下ろし、本を開いた。


アランの机からは少し距離がある。

だが、同じ部屋の中だ。

紙をめくる音が聞こえる。

燃える暖炉の火の音もする。


途中で火がわずかに弱まると、ミュレットはそっと立ち上がって薪を足した。

そんな何でもない手つきにも、ときどきアランの視線が向く。


それが心地よかった。


本の文字を追う。

雪はまだ降っている。

部屋は暖かい。

遠くから聞こえる音も、今日はどこか鈍い。


知らないうちに、まぶたが少しずつ重くなっていた。


眠るつもりではなかった。

ただ、少しだけ目を休めようと思っただけだった。


次に意識が浮かび上がった時、肩にはやわらかな重みがあった。


毛布だった。


「……あ」


小さく声が漏れる。


いつの間にか、本は膝の上で閉じている。

毛布が肩まできれいに掛けられ、部屋の灯りは少しだけ傾いていた。

眠っていたのだと、そこでようやく分かる。


「起きたか」


低い声がした。


顔を上げると、机の向こうにいたはずのアランが、今は長椅子のすぐ近くに立っていた。


「アラン様……」

「まだ眠いか」

「少し……」


寝起きの声は、思った以上に掠れていた。

それを聞いたアランの目が、すぐにわずかに細くなる。


「喉が痛むのか」

「そこまででは」

「咳は」

「出ていません」

「ならいい」


そう言いながらも、よくないと思っている顔だった。


「お仕事は終えたのですか……?」

「いや、まだある」


ミュレットは目を擦る。


「わたし、まだ眠くて……部屋に」


戻る、と言いかけたところで、目元へ伸ばしかけた手をアランが取った。


「ここで好きなだけ寝ればいい」


ミュレットは少し目を瞬く。


「ここにいてくれたら、俺も安心する」


アランは本を取り上げて机の上へ置き、それから毛布の端を軽く整えた。


真冬に入ってからは、陽の光が城の奥まで届く日も減った。

ミュレットが窓辺でぼんやりしている時間が長くなったことに、アランはとっくに気づいている。

それでも最近、こうしてふとした拍子に眠ってしまうことがあるのは、単に身体が弱っているからだけではないのだと、アランは分かっていた。


ようやく手が届く場所で。

ようやく手に入れた、安心していい居場所の中で。

ミュレットは少しずつ、深く眠れるようになってきている。


それを思うと、無理に起こして部屋へ戻す気にはなれないのだろう。


その指先がふと、ミュレットの左手へ落ちる。


眠っているあいだ、毛布の外へ出ていたらしい。

薬指の指輪が、静かに光っていた。


アランは何も言わなかった。

ただ、その指輪へ向ける目だけが、ほんの少しやわらいだ。


その時、扉が二度、控えめに叩かれた。


ぬくもりの中へ、冷たい現実が指先を差し入れるような音だった。


「入れ」


入ってきたのはディルクだった。


「失礼いたします」


いつもの落ち着いた声だったが、ミュレットを見た瞬間、わずかに目礼を深くした。

眠っていたことを気づかってくれたのだろう。


「報告があります」

「……何だ」


アランの声が少しだけ硬くなる。

それだけで、部屋の空気が静かに変わった。


ディルクは一度、ミュレットをちらりと見た。

アランはその視線を受けて、ディルクのもとへ歩み寄る。


何事かと見守っていると、ディルクはわずかに身を寄せ、小声で耳打ちした。


アランは黙ってそれを聞き、少しだけ考える。

それからミュレットの顔を見て、低く言った。


「構わん。話せ」


ディルクは頷き、今度は声に出して告げた。


「レオルド・ファーレーンの領地を探らせていた件ですが」

「……」

「主要な屋敷は、もぬけの殻でした」

「……そうか」


ミュレットの指先が、毛布の下でわずかに強ばる。


レオルド。


あの名を聞くだけで、いまだに胸の奥が冷たくなる。


するとアランは、ディルクの横に立ったままではなく、いったんミュレットのそばへ戻ってきた。

長椅子の脇に立ち、ミュレットがその報告をひとりで正面から受け止めずに済む位置へ移る。


その小さな動きだけで、どうしても胸があたたかくなった。


「使用人も最低限しか残っておりません」

ディルクは続ける。

「金目のものも、書類も、整理された形跡があります」

「逃げた、ではないな」

「はい。雪が深くなる前に、意図して消えたと見るべきかと」

「東側は」

「帝国寄りの領主との繋がりを、なお洗っております」

「……続けろ」

「はっ」


短いやり取りだった。

それなのに、その短さがかえって不気味だった。


帝国は、まだ終わっていない。

クレスティアの外だけではなく、中にまで影を伸ばしているかもしれない。


そういう話なのだと、ミュレットにも分かる。


ディルクは最後に、ほんの少しだけ視線をやわらげた。


「本日は以上です」

「ああ」


一礼して、部屋を出ていく。


扉が閉まる。

雪の音も、部屋の中までは届かない。

ただ、さっきまでの穏やかさの底へ、冷たいものが一枚落ちた気がした。


しばらく黙っていたあと、ミュレットが小さく言う。


「……いつか、何か起きるのでしょうか……」

「……そうかもしれない」


アランは否定しなかった。


「だが、きっと乗り越えられる」

「……」

「雪が積もり続ける、この冬のように」


その声は静かだった。

強く言い切るわけではない。

それでも、揺らがないものがあった。


アランは少しだけ間を置いてから近づいてくる。

長椅子の前に立ち、毛布の上からミュレットの肩へ手を置いた。


「今は急がなくていい」

「……」

「雪は、敵の足も鈍らせる」

「……はい」

「眠い時は眠っていい」


その声音は静かだった。

命令であり、同時に守る約束のようでもあった。


ミュレットはこくりと頷く。


眠っていい。

アランの手が届く場所で、ゆっくり過ごす日々。

誰にも奪われず、警戒心をほどいて過ごしていい日々。


そう思った瞬間、胸の奥に残っていた強ばりが少しずつ溶けていく。


アランの手が肩から左手へ移る。

毛布の上に出ていたその手を取って、薬指の指輪へ親指がふれる。


さっき胸へ落ちた冷たさが、少しやわらいだ。


そのままアランは、長椅子の端に置かれていたクッションを取ると、ミュレットの頭の位置へそっと差し入れた。

体を横たえやすいように、毛布も静かに整える。


「……眠れそうか?」

「もう少しなら」

「なら、もう少し寝ていろ」

「今日の夕飯は、一緒に食べられそうですか?」

「ああ」

「……」

「仕事が終わったら起こす」


終わったら、二人で夕食をとることができる。

それは、深く降り積もる雪が運んでくれた小さな幸せだった。


ミュレットは毛布を胸元まで引き寄せる。

部屋は暖かい。

雪は静かに降り続いている。

外の世界は白く閉ざされ、遠くなっていく。


アランは一度立ち上がりかけて、ふと足を止めた。


「俺がいる」


そのひと言は、雪に閉ざされた部屋の静けさよりも深く、まっすぐ胸へ落ちた。


安心して眠っていい。

そう告げるように、アランはミュレットの唇へそっと口づける。


触れるだけの、やわらかな口づけだった。

それなのに、あまりにも静かで確かだったので、ミュレットの息は小さく揺れた。


離れたあと、アランは最後にまぶたへ唇を落とす。


そこにある緊張も不安も、ひとまず閉じてしまうような、やさしい触れ方だった。


「おやすみ」

低い声が、すぐ近くで落ちる。

「……はい」


返した声は、もう半分眠りの中にいた。


アランはようやく机へ戻る。

その前にもう一度だけこちらを振り返った。


眠る前のミュレットの左手。

そこに戻った指輪。

そして、その手がもう二度と遠くへ行かないようにと願うような目。


ミュレットはまぶたを閉じた。


雪の静けさ。

蜂蜜の残る甘さ。

紙をめくる音。

同じ部屋にいる気配。


やっと得た安らぎだった。


その安らぎが永遠ではないことも、もう知っている。

だからこそ、いまこの静かな時間がいっそう深く胸へ沁みるのかもしれなかった。


窓の外では、雪が絶え間なく降り続いている。


白く閉ざされていく冬のクレスティアで、

アランはまだ消えていない影を追い、

ミュレットはその同じ部屋の中で、ようやく少し深く眠る。


静かな蜜月の、はじまりだった。



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