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Episode 77. 差し出された指輪



建国記念祭の熱は、夜になってもまだ城の中に残っていた。


広場でのアランの演説は、城内でも城下でも、あちこちで語られている。

帝国は全土統一を諦めていないこと。

クレスティア、サンダレイン、エルニアの三国で手を結び、帝国へ経済圧力をかけること。

そして、二度とあのような戦争を起こさせないということ。


――クレスティアは、ありとあらゆる人、そして国のありかたを尊重する。


セレスティアから聞かされた時も胸を打たれた。

けれど、民の前に立ち、自分の声でそれを告げるアランの姿は、それ以上に強くミュレットの心へ残った。


あの人は、ただ強い人ではない。

ただ戦に勝つための剣でもない。


国のために。

平和のために。

未来のために。


そのすべてを背負ったうえで、それでも前へ立っている。


だからこそミュレットには、あの背が痛々しく見えてしまった。


クレスティアの剣。

戦を終わらせた王太子。

帝国でさえ容易には踏み込めぬ抑止そのもの。


そう呼ばれるたび、そう期待されるたび、静かな痛みが胸へ積もっていく。


強いのは知っている。

誰よりも頼れる人だと知っている。

それでも、その強さがあまりにも当然のように求められていることが、今のミュレットにはたまらなく苦しかった。


剣であることを、誰も疑わない。

支えることを、誰も疑わない。

背負うことを、誰も疑わない。


まるで、その人が疲れるはずも、傷つくはずもないように。


民の前にひとりで立つアランの姿を見た時、ミュレットは思ったのだ。


このままではいけない、と。


夜。

ミュレットは自室で長く黙っていた。


灯りは小さい。

窓の外には、帰ってきたばかりのクレスティアの夜が広がっている。

慣れたはずの景色なのに、今日はどこか新しく見えた。


そして首もとには、まだ指輪がある。


家出のあいだも外さなかった。

エルニアへ渡っても、炎の中を逃げても、眠れぬ夜を越えても、ずっとそこにあった。


守りの術を編んである。

手放すな。


そう言われた時の声音まで、指先が覚えている気がした。


ミュレットはそっとそれを撫でる。

次いで、ゆっくりと息を吸った。


怖い。

でも、言わなくてはならない。


静かな廊下を歩き、アランの私室の前へ立つ。

ノックをすると、すぐに低い声が返った。


「入れ」


扉を開ける。


中には、書類を前にしたアランがいた。

仕事着のまま、まだ終わっていないらしい。

机上には灯りと紙束、半ば冷めた茶器。


見慣れた光景なのに、今日はそれが少し痛かった。


アランは顔を上げる。


「……ミュレット」

「お仕事中に、すみません」

「構わない」


そう言った時点で、もう何かを察したのだろう。

アランの目がわずかに細くなる。


「何かあるな」

「……はい」


ミュレットは数歩進んで、机の前で立ち止まった。


鼓動が速い。

今すぐ逃げ出したくなる。

それでも、もう逃げたくないと思ったのも確かな本心だった。


ミュレットは首もとへ手をやる。

細紐を解き、そこに下げていた婚約指輪をそっと外した。


それを手のひらに載せ、アランへ差し出す。


空気が変わった。


アランの目が、はっきりと動く。

その視線は指輪に落ち、次いでミュレットの顔へ戻った。


「……私を、使ってください」


静まり返った部屋に、その声だけが落ちる。


アランはしばらく何も言わなかった。

いや、言えなかったのかもしれない。


沈黙がひどく長く感じられたあと、ようやく低い声が返る。


「……は?」


怒鳴り声ではなかった。

だが、凍るような一音だった。


ミュレットは逃げずに続ける。


「三国同盟の条件に、私も入れてください」

「……」

「有事の際は、私の力も使うと」

「……何を言っている」

「本気です」

「本気であってたまるか……!」


今度は、低く押し殺した怒りが滲んだ。


アランが立ち上がる。

机の向こうから、ゆっくりとこちらへ回り込んでくる。

静かなのに、それだけで部屋の空気が張りつめる。


「アラン様だけに、これ以上負担をかけるわけにはいきません」

ミュレットは言った。

「いまの同盟の要は、アラン様ひとりです」

「……」

「それでは、いずれ限界がきます」

「だから、ミュレットが背負うのか」

「はい」


即答だった。


アランの眉が、わずかに寄る。


「ふざけるな」

「ふざけていません」

「その力を同盟の条件に入れるなど――」

「必要です」

「認めない!」


はっきりと言い切られる。


それでも、ミュレットはもう引かなかった。


「認めてください……!」

「ミュレット」

「もう、逃げたくないの……!」

「……」

「アラン様に守られるだけで、後ろにいるだけで、平気な顔をしていたくない」

「……」

「私の力が争いを呼ぶなら、見ないふりをして隠れているのではなく」

「……」

「どう使うかを、私が決めたいから」


アランは黙っていた。


だがその沈黙は、ただ怒っているだけのものではなかった。

目を逸らし、表情が震えるほど、嫌そうだった。

本当に、心の底から嫌そうだった。


眉間に深く皺が寄る。

顎の線が固くなり、唇がわずかに歪む。

受け入れたくないものを、無理やり目の前に突きつけられた時の顔だった。


見ているこちらの胸が痛くなるほど、はっきりと拒絶しているのに、それでも怒鳴り散らさずに耐えている。

その苦しそうな沈黙の重さに押し潰されそうになりながらも、ミュレットは差し出した手を下ろさなかった。


掌の上で、指輪が灯りを受けて静かに光る。


ミュレットは小さく息を吸った。


「使ってほしいと言ったのは、道具になりたいからではありません」

「……」

「あなたと同じ責任を負いたいのです」

「……」

「隣に立ちたいから」


そのひと言のあと、ようやくアランの目が揺れた。


怒りだけではない。

悲しみでもない。

その奥にあるのは、どうしようもなく深い痛みだった。


「……それを言うために」

アランが低く言う。

「指輪を外したのか」

「……受け入れてくださらないなら」

ミュレットは、震えそうになる声をこらえた。

「わたしは、この指輪をお返しします」


その瞬間、アランの表情がはっきりと変わった。


怒ったのではない。

ただ、それより深く傷ついたような影が落ちた。


「その指輪を、そんなふうに差し出すな……!」


ミュレットの肩が震える。


「俺が、何のために……」


そこでアランは、額に片手を当てた。

ほんの一瞬、目を閉じる。

こめかみのあたりを押さえるその仕草は、怒りを抑えるためというより、刺さった痛みに耐えるように見えた。


「……分かっています」

「分かっていない」


アランの手が伸びる。


ミュレットは反射的に身を強ばらせたが、その手は乱暴には触れなかった。

ただ、差し出した掌ごと静かに包み込まれる。


熱い。

指輪ごと、手ごと、逃がさないように。


「こんな事に使わせるために渡したわけではない」

「……」

「守ると決めた相手に渡した」

「……はい」

「逃げないでほしいと願って渡した」


最後の言葉は低く静かだった。

その響きが胸に深く刺さる。


アランは、包んだ手をゆっくり開いた。

掌の上の指輪を見つめる。


「その力は、母君から受け継いだ大切なものだろう?」


ミュレットは息を呑んだ。


叱責ではなかった。

それでも、軽く扱わせないという強い意志が、その一言にはあった。


「……はい」


声が自然と小さくなる。


アランは視線を上げ、まっすぐにミュレットを見た。


「二度と、こんな使い方をするな」


静かな声音だった。

それなのに、どんな強い言葉より深く胸へ落ちる。


ミュレットは俯きそうになるのを、どうにか堪えた。


脅したかったわけではない。

困らせたかったわけでもない。

ただ、自分も背負いたかった。

そのために、どうしても言わなければならないと思っただけだった。


それでも、自分の力も、母から受け継いだものも、指輪と一緒に差し出すような形になってしまっていたのだと、今になって分かる。


「……ごめんなさい」


ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。


アランの目が、わずかにやわらぐ。


「責めているわけではない」

「……」

「ミュレットの覚悟を、軽いものだとも思っていない」


その言葉に、ミュレットの目からまた涙がこぼれた。


アランはゆっくりと指輪を取り上げる。


返されるのかと思った。

だが、違った。


アランはミュレットの左手を取り、その薬指へ、指輪をはめる。


「……条件がある」

「……」

「ミュレット個人を、同盟の取引材料にはしない」

「え……」

「記すなら、ミュレットの意思でのみ力を使うこと」

「……」

「クレスティアはそれを保護し、三国はそれを侵す者を共同の敵とみなす」

「……」


ミュレットは息を呑んだ。


それは“使う”ではない。

差し出したものを、そのまま道具にはしないという答えだった。


アランは続ける。


「ミュレットを駒にはしない」

「……」

「同盟に入るなら、ミュレットはクレスティアの一部だ」

「……」

「俺の隣に立つ者として」


そのひと言で、目の奥が熱くなる。


アランは指輪をはめた薬指の上に、自分の指先を重ねた。


「これは返させない」


低い声が、静かに胸へ落ちる。


ミュレットは泣きながら、小さく頷いた。


差し出した指輪は返ってきた。

だが、それは元に戻ったのではない。

もうひとつ先へ進んだのだと分かった。


守られるだけではない。

ひとりで立つのでもない。


この人となら、背負えるかもしれない。

自分の力も、罪悪感も、未来も。


アランの手が、頬へ触れる。

涙をぬぐうというより、そこにいることを確かめるような、やさしい手つきだった。


「泣かせてしまったな」

「……アラン様のせいです」


責めるつもりで言ったのではない。

ただ、胸がいっぱいで、そうとしか言えなかった。


アランはその顔を見て、ほんのわずかに目元をやわらげる。


「そうだな」


その認め方があまりにも真面目で、ミュレットはまた泣きそうになる。


「……すまない」


低く落ちたその一言に、今度は胸がきゅっと縮んだ。


ようやく言えたのだと分かる声音だった。


そして、アランはミュレットの左手を取り直す。


長い指が、ためらいなく自分の指に絡む。

そのまま、まっすぐに見つめられた。


「どれだけ苦しくても」

「泣いても」

「もう離さない」


低い声だった。

だが、その一言には、少しの迷いもなかった。


ミュレットの喉が小さく震える。


「……はい」


返した声は、かすかに掠れていた。


アランは絡めた指をゆっくりと持ち上げる。

薬指にはまった指輪が、机上の灯りを受けて静かに光った。


そのままアランは瞼を伏せ、誓いを刻むように、そっと指輪へ口づける。


ミュレットは息をのんだ。


唇が触れたのは指輪なのに、胸のいちばん奥を直接撫でられたような気がした。


守ると言った。

離さないと誓った。

その気持ちが、言葉より深く伝わってくる。


熱が、一気に頬までのぼる。


アランがゆっくり顔を上げる。


近い距離で目が合った瞬間、ミュレットは逃げずに、その眼差しを受け止めた。


「わたし、は……」


声が震える。

それでも、もう逸らしたくはなかった。


「アラン様を、お支えします」


アランの目が、わずかに揺れる。


ミュレットは指を絡められたまま、言葉を継いだ。


「この力を受け入れて」

「あなたの隣で」

「どんなことがあっても」


ひとつひとつ、確かめるように口にする。


「アラン様に何かあれば、わたしが癒します」

「傷ついたら、わたしが必ず」

「……全部、癒しますから」


言い切った途端、胸が強く鳴った。


こんなふうに言うのは、少しも慎ましくないのかもしれない。

それでも今は、これが自分の本心だった。


守られるだけではない。

ただ見送るだけでもない。


この人が背負うものへ、自分も手を伸ばしたい。


アランはしばらく何も言わなかった。


ただ、絡めた指にわずかに力をこめる。


それから、ひどく静かな声で言った。


「……ああ」


短いのに、そのひと言だけで十分だった。


受け取ってくれたのだと分かる。


ミュレットの目に、また涙がにじむ。


アランはそんな彼女を見つめ、今度は指輪ではなく、そのすぐ上の指先へ、もう一度だけ口づけた。


ミュレットの肩が小さく震える。


その反応まで見つめたあと、アランはゆっくり立ち上がり、絡めた手をほどかないまま、もう片方の手でミュレットの頬へ触れた。


熱を確かめるような、やわらかな手つきだった。

親指が、涙の跡をそっとなぞる。


近づいてくる気配に、ミュレットの息が浅くなる。


逃げたいわけではない。

むしろ、その逆だった。


胸の奥が苦しいほど熱くて、それでも、この瞬間を待っていたのだと思う。


アランの額が、触れそうなほど近づく。


その距離で、低い声が落ちた。


「愛している」


そのひと言だけで、胸の奥に抱えていた迷いも、恐れも、張りつめていた何もかもが、一瞬でほどけそうになる。


ミュレットは震える息をこぼした。


「……はい」


それが返事になっているのかも分からないまま、ただ、瞼を閉じる。


次の瞬間、唇へ、静かな口づけが落ちた。


激しさはない。

だが、少しも揺らがない。


誓いのように。

選び直すように。

もう二度と失わないと、言葉の代わりに刻みつけるような口づけだった。


触れて、離れて。

それでもすぐには距離がほどけない。


息の混じるほど近い場所で、アランはもう一度、ミュレットを見つめる。


その目にあるものを、今のミュレットはもう見間違えない。


「……わたしも」


かすれる声で、ようやく言う。


「愛しています」


言った途端、また涙がこぼれた。

泣きたくて泣いているわけではないのに、胸がいっぱいで、どうしても溢れてしまう。


アランはそんなミュレットを見て、今度こそ静かに抱き寄せた。


強すぎず、逃がさない腕だった。


机の灯りだけが落ちる私室の中で、ミュレットはアランの胸元へ額を押しつける。


差し出したのは、指輪だけではなかった。

自分の意思も、覚悟も、この先の責任もだ。


そしてアランは、それを拒まなかった。


ただ守るのではなく、

ただ守られるのでもなく、

同じ側で背負うと決めたのだ。


唇が離れたあとも、ミュレットはしばらく目を開けられなかった。


胸の奥が熱い。

息をするたび、その熱がどこまでも広がっていく。

指先まで落ち着かず、膝の力さえ少し抜けてしまいそうだった。


ようやく瞼を上げると、すぐ目の前にアランがいる。


近い。

近すぎる。


さっきまで触れていた距離を思い出してしまって、ミュレットはまた顔が熱くなった。


視線を逸らしたくて、でも逸らしたら負けるような気がして、結局、うまく動けないまま立ち尽くす。


そんなミュレットを見て、アランの目がほんの少しだけやわらいだ。


自分でも情けなくなるくらい、頭がふわふわしている。


アランは何も言わず、絡めていた手をほどかないまま、静かに長椅子のほうへ導いた。


促されるまま腰を下ろす。


だが、座っても落ち着かない。

むしろ、ちゃんと座ってしまったことで、さっき起きたことが余計に現実味を帯びてきた。


ミュレットは俯き、そっと自分の唇へ触れそうになって、途中で慌てて手を止めた。


その仕草を、アランは見逃さなかったらしい。


「……まだ、慣れないか」


からかう響きはなかった。

ただ、落ち着くまで待つつもりでいる声音だった。


ミュレットはますます顔を赤くする。


「近すぎて……」


言った途端、自分で何を言っているのか分からなくなって、ミュレットは膝の上でぎゅっと手を握った。


アランはしばらく黙っていた。

その沈黙にまた心臓が跳ねる。


やがて、すぐ隣へ腰を下ろす気配がした。


びくりとして顔を上げると、アランはほんのわずかに眉を寄せる。


「離れたほうがいいのか」


真面目に聞いている顔だった。


ミュレットは一瞬、言葉に詰まる。


離れてほしいわけではない。

むしろ、離れられたらそれはそれで困る。

でも近いと落ち着かない。


自分でも面倒だと思う。


「……離れないで、ください」


声はとても小さかった。


言ってしまったあとで、耳まで熱くなる。

だがアランは笑わなかった。


「分かった」


短く答えて、背もたれへ軽く体を預ける。

それでも視線は、ずっとミュレットから外れない。


まるで、ほんとうに落ち着くまで目を離すつもりがないみたいだった。


ミュレットはその視線に耐えきれず、また俯く。


「……そんなに見ないで」

「離れるなと言ったばかりだ」


即答だった。


思わず顔を上げると、アランはまったく迷いなく続けた。


「……やっと、ここにある」


そう言いながら、絡めた指のまま、ミュレットの薬指の指輪へそっと触れる。


その仕草で、何を指しているのかはっきり分かった。

指輪が。

この手が。

そしてミュレット自身が、ようやくここへ戻ってきたのだと。


せっかく少し落ち着きかけていた心臓が、また騒がしくなる。


ミュレットは何も言い返せず、ただ唇をきゅっと結んだ。


アランの手が、そっと伸びる。

今度は頬ではなく、膝の上で握りしめていたミュレットの手に触れた。


強く握るのではない。

指先をゆっくりほどいて、自分の手で包む。


「……ずっとミュレットのことを考えていた」

「え?」

「無事でいるか、無茶をしていないか……泣いていないか」


そこで一度だけ言葉が切れた。


アランらしくないためらいだった。


「俺のことなど、忘れていないか」


低く落ちたその一言に、ミュレットの胸がきゅっとなる。


真剣だからこそ、ずるい。


「わ、忘れていたとしたら……?」


おそるおそる尋ねると、アランは少しも冗談にせず答えた。


「どうにか振り向いてもらえないか、努力する」

「努力?」

「……まずは、菓子などを用意する」


あまりにも真面目な声音だった。


ミュレットはとうとう小さく吹き出してしまう。


「……ふふ」

「笑うな」


不服そうに言うのに、本気で怒ってはいない。

そのやり取りがおかしくて、ミュレットの頬からようやく少しだけ力が抜けた。


それを見て、アランの目元もわずかにやわらぐ。


「少しは戻ったな」

「……何がですか」

「顔色」


そう言って、アランはまたじっと見つめてくる。


やさしくて、まっすぐで、逃がさない眼差しだった。


その視線の熱に落ち着かなくなって、ミュレットがわずかに身じろぐと、アランの目がふと髪へ落ちた。


肩までになった髪が、灯りの下でやわらかく揺れる。


「その髪」


低い声に、ミュレットの肩が小さく跳ねる。


「……はい」


「ミュレットの顔が、よく見える」


飾るための言葉ではなかった。

思わずこぼれた本音だと分かる声だった。


そのうえ、アランはほんの少し――今までよりはっきりと、嬉しそうに微笑んでいた。


ミュレットは息をのむ。


また少し、この人の表情がほどけた。

自分の前でだけ見せるやわらかさが、さらに深くなった気がして、胸の奥が熱くなる。


「……そんなふうに、見ないでください」


声が情けないほど小さくなる。


「ミュレットがそうさせる」


即答だった。


ミュレットが言葉を失っていると、アランは視線を逸らさないまま、静かに続けた。


「……目が離せない」


そのひと言が落ちた瞬間、また心臓が大きく跳ねた。


次の瞬間、頬へ添えられた手に導かれるようにして、ミュレットは顔を上げる。


そして、口づけが落ちた。


今度のそれは、さっきよりも熱を帯びていた。

やわらかく触れて、離れる。

そう思ったのに、すぐまた重なる。


二度、三度と繰り返されるたび、触れられた場所から熱が広がっていく。


息がうまく続かない。

まぶたの裏がじんわりと熱い。


長く離れていた時間。

失いかけたものを取り戻した安堵。

ようやくここへ戻ってきたミュレットを、もう二度と離したくないという想い。


そんなものが、言葉より先に伝わってくる口づけだった。


「……アラン、さま」


かすれた声で呼ぶと、アランの指先が頬から耳の下へ、ゆっくりと滑る。


短くなった髪のせいで、そこは前より無防備だった。

触れられただけで、ぞくりとする。


アランの目がわずかに細められる。


その眼差しには、もう隠しきれない高揚があった。

独占したいと思う気持ちも、長く離れていたぶんを埋めるような切実さも、抑えようとして抑えきれていないのだと分かってしまう。


それが怖いわけではなかった。

むしろ、どうしようもなく嬉しい。


アランは何かを堪えるように一度だけ息をついたあと、また唇を重ねた。


今度はさっきより深く、それでも乱暴ではなく、ひどく大切に扱うくせに、離したくない気持ちだけは隠さない口づけだった。


触れて、離れて、また触れる。


唇が離れるたび、惜しむようにすぐ戻ってくる。

そのたびに、ミュレットの胸は甘く苦しく締めつけられた。


アランの手が頬から首すじへ下りる。

外套の襟にかかった指先が、短い髪をかすめる。


そこへ触れられるたび、息が震えた。


「……っ」


小さく漏れた声に、アランの動きがほんの一瞬だけ止まる。


だが、止まったのはためらいからではなかった。

むしろ、その声に、いっそう熱を深めたように見えた。


「……だめです」


自分でも何がだめなのか分からないまま、そんな言葉がこぼれる。


アランは唇が触れそうな距離で、低く問う。


「何が?」

「……その」

「……」

「何度も、は」


言い切れないまま、視線が揺れる。


するとアランの手が、そっと顎を支えた。


逃がさないためではない。

俯いてしまう顔を、ただ見たいだけのような手つきだった。


「触れたい」


また即答だった。


そして、わずかに懇願するような表情が滲む。


「ミュレット……」


低く落ちる声に、ミュレットの頬がいっそう熱くなる。


困っている。

困っているはずなのに、その言葉の端々ににじむ独占欲と安堵が嬉しくて、拒めない。


アランは赤くなったミュレットの顔を見つめ、今度は唇だけではなく、こめかみへ、頬へと、名残を惜しむように口づけを落とした。


短くなった髪の隙間から覗く耳飾りが、かすかに揺れる。

そのきらめきまで愛おしむように見つめたあと、アランはもう一度、ゆっくりと唇を重ねた。


今度は少し長く、触れ合うやわらかさを確かめるみたいに、静かに。


ミュレットはたまらず、アランの服をきゅっと掴んだ。


その反応に気づいたアランの目が、かすかにやわらぐ。

だが、甘やかすようでいて、離してはくれない。


ようやく少し距離ができた時には、ミュレットはもうまともに顔を上げられなかった。


頬も、耳も、たぶん首すじまで熱い。


アランはそんな様子さえ愛おしむように見つめて、包んだ手を離さないまま、低く言う。


「……やっと戻った」


そのひと言が、何度もの口づけより深く胸へ刺さる。


ミュレットは真っ赤になったまま、逃げるようにアランの肩口へ額を寄せた。


すると頭上で、小さく息を吐く気配がした。


笑ったのだと分かる。

それも、ひどく満たされたような、やわらかな笑いだった。


アランの腕が背へまわる。

今度は抱きしめる形で、しっかりと引き寄せられる。


その熱に包まれたまま、ミュレットは胸の奥からこぼれるように言った。


「アラン様が、安心してくださるなら」


声が小さく震える。


「……わたしにできることなら、なんでもします」


言い切った瞬間、自分で何を言ったのか分かって、また一気に顔が熱くなった。


だが、アランはそれを軽くは受け取らなかった。

抱きしめる腕に、ほんのわずかに力がこもる。


「なんでも、か」


低い声だった。

叱るようでいて、どこか苦しそうでもあった。


ミュレットがそっと見上げると、アランはほんの少しだけ目を閉じる。


その表情の意味までは、ミュレットにはよく分からなかった。

ただ、自分の言葉を軽く受け流したくないのだということだけは伝わってくる。


アランはそんな彼女を抱きしめたまま、低く言った。


「……もっと、俺を愛してほしい」


その声は静かだった。

けれど、そこに滲んだ切実さは、ミュレットの胸を強く打った。


この人は、強い。

誰よりも揺るがないように見えて、

こんな時だけ、ひどく不器用になる。


ミュレットは一度だけ瞬いて、それからそっと顔を上げた。


「……わたし、ちゃんとお伝えしていたつもりでした」


小さく言ってから、アランの目をまっすぐ見る。


でも、たぶん足りていなかったのだ。

この人には、遠回しでは届かない。

曖昧な言葉では、安心してくれない。


なら――ちゃんと、言わなければ。


ミュレットはそっと身を乗り出した。

ためらいなく腕を伸ばし、アランへ抱きつく。


不意を突かれたように、アランの身体がわずかに止まった。


ミュレットはその胸元へ頬を寄せたまま、はっきりと言う。


「……なら、何度でもお伝えします」


アランが息を呑む気配がした。


ミュレットは抱きしめる腕に、少しだけ力をこめる。


「わたしは、アラン様を愛しています」

「誰よりも、いちばん大切です」

「離れません」

「何があっても、アラン様のそばにいます」


ひとつひとつ、結論から。

誤解のしようもないくらい、まっすぐに。


「だから、安心してください」


その言葉が落ちたあと、

部屋の中はしんと静まった。


アランはすぐには何も言わなかった。

ただ、抱きついてきたミュレットを見下ろしたまま、わずかに目を見開いている。


まるで、予想もしていなかったものを真正面から渡されたみたいに。


やがて、アランの腕がゆっくりと背へ回る。

今度は先ほどよりも、ずっと深く、確かめるように抱きしめ返された。


「……ミュレット」


低い声が、少しだけ掠れていた。


ミュレットは顔を上げないまま、もう一度だけ言う。


「愛しています」


重ねるように告げると、

アランは観念したように長く息を吐いた。


そして、ついに抗えなかったように目を閉じた。

抱きしめる腕の熱が、ひどくやわらかくなる。


もうしばらく、このままでいたい。

そんな気持ちが言葉にしなくても伝わってくる抱擁だった。


ミュレットもまた、自分からその胸へ身を預ける。


強くて、不器用で、

肝心なところだけ少し臆病なこの人を、

これからはちゃんと安心させたいと思った。


だから、抱きしめたまま、そっともう一度だけ囁く。


「わたしは、ずっとアラン様のものです」


その瞬間、

アランの腕が、今夜いちばん深くミュレットを抱きしめた。




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