Episode 76. 肩までの髪
鏡の前に、ミュレットは座っていた。
背中まであった髪は、すでに半分ほど落ちている。
床には、やわらかな色の束が静かに広がっていた。
侍女の手つきは丁寧で、無駄がない。
傷んだ毛先を確かめながら、少しずつ長さを整えていく。
後ろの壁際では、セレスティアが静かに見守っていた。
「ほんとうに、ここまででよろしいのですね?」
侍女が鏡越しに尋ねる。
ミュレットは小さく頷いた。
「……はい」
声は静かだったが、迷いはなかった。
旅のあいだに傷んだ髪を整えたい気持ちもあった。
それでも、理由はそれだけではない。
隣に立ちたい。
ただ、それだけだった。
守られるだけではなく、
隠れるだけでもなく、
ちゃんと前を向いて、あの人の隣にいたい。
その思いが、ミュレットの背をそっと押していた。
やがて、最後の一房が落ちる。
「……はい、終わりました」
侍女がそっと櫛を置いた。
ミュレットは鏡の中の自分を見る。
肩までの髪。
首まわりが軽い。
視界まで少しだけ開けた気がした。
長かった髪がなくなったぶん、顔立ちが前よりはっきり見える。
まだ少しやつれは残っている。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
そっと毛先へ触れる。
「……どうでしょう」
少しだけ不安を滲ませて尋ねると、侍女はやさしく微笑んだ。
「とても、お似合いです」
「……ほんとうですか?」
「ええ。首筋がきれいに見えますし、髪を耳にかけると、もっと映えると思います」
そう言って、侍女は小箱を開いた。
中には、金の耳飾りが一対、静かに収まっていた。
細い鎖の先に小さな飾りが連なった、縦にすっと垂れる意匠だ。
華美すぎず、それでいて光を受けるたび繊細にきらめきそうだった。
「こちら、合わせてみてもよろしいですか」
「え……でも、そんな華やかなものが私に似合うでしょうか」
「もちろん、短い髪によく似合うと思うのです」
侍女の声音は控えめだったが、どこか楽しそうでもあった。
ミュレットがためらいながら頷くと、侍女は片側の髪をそっと耳にかけた。
ひやりとした金具が耳朶に触れる。
それから、もう片方も。
鏡の中で、肩までの髪の隙間から、金の耳飾りが細く垂れた。
動くたびに小さく揺れ、窓から差す淡い光を拾って、きらりとやわらかく光る。
ミュレットは思わず目を瞬いた。
「……こんな素敵なものをつけたの、久しぶりです」
ぽつりとこぼすと、侍女は微笑む。
「とてもよくお似合いです」
セレスティアも静かに頷いた。
「ええ。よかったじゃない」
短いその言葉が、かえってまっすぐ胸へ落ちる。
ミュレットはもう一度鏡を見た。
少しだけ違う自分がいる。
旅の前とも、逃げていた頃とも違う。
戻ってきた今の自分として、ここにいる。
その姿を、アランに見てもらいたいと思った。
「……殿下に、お見せしたいな」
そう言うと、セレスティアは口元を少しだけやわらげた。
「もちろん」
それから肩をすくめるように言う。
「でも、いまの時間だとまだ執務室かもしれないわね」
その言葉に、ミュレットは小さく頷いた。
「様子を見てみます」
そう答えたものの、胸はそわそわと落ち着かなかった。
もう知っている。
アランは、仕事中に自分が執務室へ顔を出しても、決して怒らない。
以前の自分なら、遠慮して行けなかった。
行っていい場所だとも、思えなかった。
けれど今は違う。
それでも、だからといって、何のためらいもなく足を向けられるほどにはまだ慣れていなかった。
廊下へ出ると、初冬の気配を含んだ空気が頬を撫でた。
肩までになった髪が歩くたびに軽く揺れる。
耳にかけた横髪の下で、金の耳飾りが小さく揺れて、きらり、きらりと控えめに光を返す。
その感触が少し落ち着かない。
それでも、嫌ではなかった。
中庭横の回廊をゆっくり進む。
もしかしたら庭のほうにいるかもしれないと思った。
あるいは、近衛やディルクと短い打ち合わせをしているのかもしれない。
そう考えて視線を巡らせるが、見慣れた姿は見つからない。
足を止めて、中庭のほうを見る。
庭は、秋の名残をほとんど手放しかけていた。
色の薄くなった草木のあいだを、冷えた風が抜けていく。
花の姿はもう少なく、枝先はどこか寒々しい。
それでも、まだ完全な冬にはなりきっていない、そんな曖昧な季節の庭だった。
そこにも、アランの姿はない。
「……執務室、でしょうか」
小さく呟いて、ミュレットは歩き出した。
執務棟のほうへ向かうにつれて、人の気配が増える。
文官が書類を抱えて行き交い、侍従が控えめな足音で廊下を横切る。
日が傾きはじめるころの王城は、静かなようでいてまだ忙しい。
執務室前の回廊が見えてきたところで、ミュレットは足を止めた。
いた。
少し先、執務室の前。
文官が二人、ディルクがひとり。
その向こうに、背筋をまっすぐ伸ばしたアランの背があった。
思わず胸が跳ねる。
けれど、すぐには声をかけられなかった。
今はだめだ。
そう思わせる空気が、そこにはあった。
アランは文官たちへ視線を向けたまま、低く言っている。
「北東の監視所は、初雪のあとに視界が落ちる」
「見張りの交代刻を詰めろ」
「はい、殿下」
「防寒具の追加は届いたか」
文官のひとりが書類を開く。
「一部は今朝届きましたが、残りは三日ほど遅れる見込みです」
「遅い」
「……申し訳ございません」
「謝罪ではなく代案を出せ。真冬に入ってからでは遅い」
別の文官が一歩進み出る。
「王都周辺の薪と炭の備蓄ですが、城下の流通を優先したため、王城分がやや――」
「城下を削るな」
「……」
「足りないなら南から買い付けろ」
「雪が深くなる前に、ですか」
「そうだ」
「承知しました」
ディルクが静かに別の書状を差し出す。
「境沿いの村より、凍傷と発熱の報告が増えております」
「医務局へ伝えろ」
「すでに」
「巡回の頻度は」
「今の倍へ増やす案が出ています」
「人手は足りるか」
「ぎりぎりかと」
「なら文官の護送を減らせ。そちらへ回せ」
「承知しました」
もう一人の文官が、少し緊張した面持ちで言う。
「エルニア側からの冬季交易の打診ですが、道が閉ざされる前に一度枠を定めたいとのことで」
「向こうも焦っているな」
「はい」
「だが、こちらも軽々しくは増やせない」
「では、現状維持で」
「いや」
アランの声が少しだけ低くなる。
「食料ではなく薬材を優先しろ」
「薬材、ですか」
「冬に不足するのはそちらだ」
「……承知しました」
短いやり取りが、矢継ぎ早に重なっていく。
ミュレットは柱の影へ半歩下がった。
今、声をかけるのはだめだ。
少し待てば、大丈夫だろうか。
もう少ししたら話が切れるだろうか。
耳元の飾りが揺れないよう、なるべく動かずに立つ。
けれど、そうして待っている時間が思ったより長い。
まだ続く。
思った以上に込み入っている。
引き返したほうがいいかもしれない。
そう思って、顔を覗かせるのをやめようとした、その時だった。
ディルクと目が合った。
「……」
ミュレットは息を呑む。
ディルクはほんのわずかに目を見開いた。
すぐに表情は戻ったが、何かを見たことは明らかだった。
それに気づいたらしいアランが、話の途中でわずかに眉を寄せる。
「どうした」
ディルクは返事の代わりに、ほんの少しだけ視線を横へ流した。
アランがそれを追う。
そして、振り向いた。
柱の影から、そっと顔だけをのぞかせていたミュレットを見つける。
「……ミュレット」
名を呼ばれた瞬間、もう隠れている意味がなくなった。
ミュレットはおずおずと柱の影から出る。
その拍子に、肩までの髪がやわらかく揺れた。
耳元の金の飾りが、小さく光を返す。
アランの視線が止まった。
まず髪を見る。
次に顔を見る。
それから、耳元へ落ちる。
きらり、と飾りが揺れる。
淡い冬の光を拾って、ひと筋、やわらかく瞬いた。
「……」
アランは何も言わなかった。
ただ、見ている。
文官たちも、ディルクも、一瞬だけ言葉を失った。
あまりにもはっきりと、アランの注意が仕事から切り替わったのが分かったからだ。
その沈黙が思ったより長くて、ミュレットはだんだん不安になる。
やはり似合わないのだろうか。
切りすぎたのかもしれない。
耳飾りまでつけたのは、やりすぎだっただろうか。
「あの……」
おそるおそる声をかける。
アランが、はっとしたようにわずかに瞬いた。
「……どう、でしょう?」
尋ねると、アランはすぐには答えなかった。
言葉を探しているのだと、少し遅れて分かった。
ただ褒めるだけなら簡単なはずなのに、
どう言えばミュレットがいちばん喜ぶのか、
どう言えば今のこの姿を曇らせずに受け取ってもらえるのか、
その正解を本気で探しているような沈黙だった。
ミュレットはそっと髪へ触れる。
「……変、でしょうか」
声が少しだけ小さくなる。
すると、アランはすぐに首を横へ振った。
「いや」
短い返事だった。
ただ、その先が続かない。
ミュレットはだんだん俯き、自信がなくなっていく。
さっきまであれほど迷いなく政務の指示を出していたのに、いまは言葉を選びあぐねている。
それが余計に落ち着かなかった。
アランはもう一度、髪を見る。
耳にかかった横髪と、その下できらりと揺れる金の飾りを見る。
それから、ミュレットの顔へ視線を戻した。
「……似合っている」
ようやく出た声は低く、まっすぐだった。
ミュレットの胸が、少しだけほどける。
「……ほんとうですか」
「ああ」
それだけで十分なはずなのに、アランはまだ黙っていた。
何かを言い足したいのに、うまく形にならないようだった。
ミュレットが不思議そうに見上げると、アランはほんのわずかに口元へ手をやった。
珍しい仕草だった。
照れているのだと気づいてしまって、ミュレットの胸が別の意味でそわつく。
文官たちが完全に気配を消しているのが分かった。
ディルクまで、視線だけは外しながら、きっちりその場に残っている。
そんな中で、アランはもう一度だけミュレットの髪を見る。
耳飾りを見る。
それから、まるで腹を決めるように息をひとつだけ吐いた。
「……きれいだ」
少したどたどしく、それでもごまかしのない声だった。
そのひと言で、ミュレットの顔が一気に熱くなる。
「……え」
思わず聞き返しそうになったが、声にならない。
アランは真顔だった。
誤魔化しでも、気休めでもなく、本気でそう思っている顔だった。
「髪も」
少し間を置いて、
「……その耳飾りも」
さらに少しだけ言葉を探してから、
「よく、似合っている」
今度は前よりずっと静かで、でもたしかな声音だった。
ミュレットは耳元へそっと触れる。
そこで揺れる金の飾りが、自分でも少し信じられないほど特別なものに思えた。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、アランは短く頷いた。
それから視線を文官たちへ向ける。
「五分で終わらせる」
文官のひとりが思わず目を瞬く。
「は……」
ディルクが横から静かに補う。
「五分で片づくよう、要点だけ申し上げろという意味だ」
「……は、はい」
アランはミュレットへ視線を戻した。
「少し待てるか」
「……はい」
「そこに」
顎で示されたのは、執務室前の回廊に面した窓際の長椅子だった。
高窓からの冷たい光が落ちる、静かな場所だ。
ミュレットは小さく頷いた。
その返事を聞いてから、アランはようやく完全に仕事の顔へ戻った。
「続けろ」
「王都周辺の街道ですが、雪が本格化する前に補修を終えたいとの要望が」
「終えたい、ではなく終えろ」
「……はい」
「凍ってからでは遅い」
「人手をさらに回します」
ディルクが静かに口を挟む。
「明日の会議では、冬の警備体制と医務局の負担を分けて議題にしたほうがよろしいかと」
「ああ」
「一緒にすると、どちらも曖昧になります」
「そうだな」
「では、そのように」
「分けろ。警備は警備、医務は医務で詰める」
「承知しました」
ミュレットは窓際の長椅子へ腰かけた。
耳元の金の飾りが、座った拍子に小さく揺れる。
肩までの髪が、前より軽く首筋に触れた。
背後の窓の外を見る。
夕暮れにはまだ少し早い。
けれど空は淡く曇りはじめていて、庭の向こうの気配はどこか白かった。
回廊の気配と、少し離れたところで続く仕事の声が、ほどよく遠い。
最初は背筋を伸ばして待っていた。
けれど、耳に入るのは短く鋭い指示ばかりで、気づけばミュレットは、ぼんやりと窓の外を見るともなく眺めていた。
しばらくして、白いものがひとひら落ちる。
「あ……」
雪だった。
まだほんの小さな、冬の入り口を知らせるような雪。
窓の外へ、静かにひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
その白さに見入っているうちに、時間の感覚が薄れていく。
五分、とアランは言った。
でもたぶん、もう少しかかっている。
それでも不思議と嫌ではなかった。
仕事の声が聞こえる場所で、こうして待っているのは初めてではない。
ただ今日は、髪を切ったあとだからか、少しだけ胸が落ち着かないだけだ。
本当に、似合っているのだろうか。
耳飾りは、やりすぎではなかっただろうか。
そんなことを考えながら、雪へ目を向ける。
「ミュレット」
低い声がした。
けれど、ミュレットは気づかなかった。
雪がまたひとひら、窓の向こうを横切る。
肩までになった髪の先が、自分の呼吸でわずかに揺れる。
その時、肩へやわらかな重みが触れた。
「……っ」
びくりとして振り向く。
アランが立っていた。
「殿下……!」
アランは眉間にわずかに皺を寄せ、不満そうにミュレットを見た。
「その呼び方は好きじゃない」
低い声だった。
言われた意味が分かって、ミュレットの頬が少し熱くなる。
それでも、胸の奥はやわらかくほどけた。
アランはそのまま長椅子の空いた場所へ腰を下ろす。
それから、当然のようにミュレットの手を取った。
「分かっているだろう?」
ミュレットは少しだけ目を細める。
「……はい、アラン様」
その呼び方を聞いて、アランの眉間の皺がようやく少しだけ緩んだ。
二人並んで窓の外を見る。
降りはじめた雪は、まだ弱い。
積もるほどではない。
けれど、白い欠片が庭の上をゆっくりと流れていくのは、どこか冬の始まりそのもので、ひどく静かだった。
「……待たせた」
アランが不意に言う。
ミュレットは、少しだけ迷ってから頷いた。
「はい」
素直な肯定だった。
待った。
アランに気づいてもらうまでは、思っていたより長く待った気がする。
以前の自分なら、きっと反射的に「待っていません」と答えていただろう。
そんなことを言う資格がないように思っていた頃の癖が、まだ少し残っている。
でも今は、そう言わなかった。
待ったことも、待ったぶんだけ嬉しかったことも、ちゃんと自分のものとして受け取ってよかった。
アランはその返事を聞いて、ほんのわずかに目元をやわらげた。
そして、繋いだ手とは反対の手を伸ばす。
指先が、ミュレットの髪へそっと触れた。
肩先で揺れる毛先をひと筋、軽くすくう。
耳の横へ流れた髪を、今度はゆっくりと撫でるように整える。
ミュレットは、その手を避けなかった。
前とは違う。
逃げるように俯くのではなく、触れられることをそのまま受け入れている。
アランの指先が、耳元の飾りの近くで止まった。
「……随分、思い切ったな」
ミュレットは小さく息を呑む。
「……アラン様が、切ると良いと仰ったから」
「そうだな」
「……ここまでは、予想してなかった?」
「ああ、驚いた」
その返事のあと、アランはしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を上げる。
ミュレットがいちばん弱い、あの小さな微笑みだった。
「嬉しい」
「え?」
思わず顔を上げる。
アランはミュレットを見たまま、静かに続けた。
「この姿を見せに、こんな時間に、俺に会いに来た」
そのひと言で、ミュレットの顔が一気に熱くなる。
いちばん恥ずかしいところを、まっすぐ言い当てられた。
確かにそうだった。
髪を切って、耳飾りまでつけて。
その姿を、誰より先にアランに見てほしくて、自分から探しに来た。
しかも、政務中の背を見つけて、あんなふうに柱の影から待っていた。
そんなこと、少し前までの自分なら絶対にしなかった。
ミュレットはたまらず俯く。
「……そういう言い方、ずるいです」
「本当のことだ」
真顔で返されて、余計に何も言えなくなる。
雪がまたひとひら、窓の向こうを落ちていく。
短い沈黙のあと、アランの視線がミュレットへ向いた。
今度は近い距離で、ちゃんと見る。
肩までの髪。
首まわりの軽さ。
耳にかかった横髪。
その下で、金の飾りが窓の光を拾って、細く揺れる。
「……似合っている」
もう一度、今度はさっきより落ち着いた声で言う。
ミュレットは少しだけ頬を熱くした。
今度は迷わなかった。
そのまっすぐな言い方に、ミュレットは耳元へ触れるアランの手に、そっと自分の手を重ねる。
金の飾りが、指先の近くでかすかに揺れた。
「……来て、よかったです」
小さく言うと、アランは短く頷いた。
「俺もそう思う」
低いそのひと言が、雪より静かに胸へ落ちる。
それから、ごく自然な手つきで、アランはミュレットの手を取り直した。
指先がふれた瞬間、胸が跳ねる。
アランの親指が、手の甲をそっと撫でた。
「茶を飲まないか」
「……お茶、ですか」
「ああ。見せたいものがある」
見せたいもの。
その言葉に、胸の奥がやわらかくなる。
何だろうという小さな期待が、さっきまでの緊張をほどいていく。
アランは握った手を離さないまま、静かに言った。
「行こう」
「……はい」
長椅子から立ち上がる。
肩までになった髪が、歩き出すたびに軽く揺れる。
耳元の金の飾りが、また控えめにきらりと光った。
雪の降りはじめた窓辺で少し待って、
ようやく終わった仕事のあと、
アランの隣へ座り、こうして手を取られる。
それは、ただ髪を切って見せに来ただけのはずなのに、
思っていたよりずっと特別な時間になっていた。
アランの私室へ入ると、ミュレットは思わず足を止めた。
見慣れたはずの部屋の一角が、少し違って見えたからだ。
窓際に近い場所へ、小さな円卓が置かれている。
やわらかな色の布がかけられ、
花模様の皿には、淡い焼き色の菓子がいくつかきれいに並んでいた。
透き通る琥珀色の茶器。
小ぶりな飾り棚には、季節の花を生けた器と、繊細な細工の小物が控えめに置かれている。
派手ではない。
むしろ静かで、落ち着いていて、やさしい空間だった。
そして、そのひとつひとつが、
どこか自分の好みに似ているとすぐに分かる。
「……これ」
声が、少しだけ震えた。
アランは手を離さないまま、わずかに視線を逸らした。
「茶を飲むなら、そのくらいはあったほうがいい」
何でもないことのような言い方だった。
だが、そんなはずがない。
卓の上の布も、
並べられた菓子も、
小さな飾りも、
どれも適当に置かれたものではないと分かる。
ミュレットのいないあいだ、
アランは私室の隅を少しずつ整えていたのだ。
自分が好きそうな菓子を選び、
落ち着けそうな茶器を置き、
目にしたらやわらぐような小物を集めて、
ここで一緒に茶を飲める日を待っていた。
それが、見れば見るほど伝わってくる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……私の、ために?」
小さく尋ねると、アランはすぐには答えなかった。
代わりに、その視線がふとミュレットの耳元へ落ちた。
肩までの髪の隙間から揺れる金の飾りを見て、少しだけ目を細める。
「……好きそうだと、思った」
それだけだった。
ぶっきらぼうなひと言なのに、飾った言葉よりずっと深く胸へ落ちた。
ミュレットはその一角をもう一度見つめる。
戻れないと思っていた時間があった。
ここへ帰ってこられないかもしれない夜もあった。
それなのにアランは、自分の戻る場所を、こんなふうに静かに作っていてくれたのだ。
目の奥が少しだけ熱くなる。
「……うれしいです」
そう言うと、アランの指先が、握った手の上でほんの少しだけやわらいだ。
「座るか」
「……はい」
ミュレットが頷くと、アランはようやく安堵したように息をついた。
自分から探しに行って、
仕事中の背を見つめて、
少し待って、ようやく見つけてもらった。
そんな小さな遠回りのあとで、
ミュレットはアランに手を取られ、
彼が待っていた場所へ向かう。
それは、戻ってきたあとでようやく踏み出す、
ふたりだけの、静かな一歩のようだった。




