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Episode 75. 三国の約



城の空気は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


だが、それは“何も起きていない静けさ”ではない。


回廊を行き交う文官の足取りは早く、

近衛たちは普段よりもきびきびと動き、

執務棟の一角では、朝から晩まで扉の開閉が絶えなかった。


城が忙しい。


そのことだけは、ミュレットにもよく分かった。


ただ、ミュレット自身には、まだ仕事は与えられていなかった。


脚の火傷も、煙を吸った喉も、完全には治りきっていない。

医務官にもセレスティアにも、そしてアランにも、まだ療養を優先するようきつく言い渡されている。


庭へ出れば、庭師たちはいつも通りに花の世話をしている。

医務室へ顔を出せば、薬草の匂いも、包帯の並ぶ棚も、変わらずそこにある。

厨房へ寄れば、バスティアンは相変わらず「食べろ」と言う。


それでも、自分はそのどこにも正式には混ざれない。


日常は戻ってきている。

それなのに、自分だけがまだその少し外側に置かれているようで、ミュレットはときどき妙に落ち着かなかった。


しかも、その日常の下を、何か大きな流れが静かに動いている気配がある。


その日の昼、ミュレットは食堂の端で軽い昼食を取っていた。


まだ以前ほど量は食べられない。

それでも、温かい汁物とやわらかなパンを前にして、食欲がちゃんとあること自体が少しうれしかった。


そこへ、見慣れた気配が近づいてくる。


「はい、見つけた」


ことん、と盆が向かいへ置かれる。


ミュレットは思わず目を上げた。


「セレスティア」

「何よ、その顔」

「……今日は早いなと思って」

「療養中のあなたが、規則正しい生活を送っているものね」


座るなり、セレスティアは当然のようにスープを口に運ぶ。

その様子はいつも通りだった。

ただ、彼女もまた、どこか少しだけ忙しそうに見える。


「最近、皆お忙しそう」


ミュレットが言うと、セレスティアはふっと片眉を上げた。


「城中がね」

「……やっぱり、そうなの?」

「そうよ」

「エルニアのこと?」

「それだけじゃない」


セレスティアはそこでパンをちぎり、少しだけ声を落とした。


「ミュレットがいないあいだ」

「……」

「アラン様、何度かサンダレインへ行ってたのよ」

「……サンダレインへ?」


ミュレットは思わず瞬きをする。


サンダレイン。

その名はもちろん知っている。

けれど、アランが何度も足を運んでいたとは思わなかった。


セレスティアはあっさり頷く。


「ええ。そこで話をまとめたの」

「……」

「クレスティアと、サンダレインと、エルニア」

「三国で手を結ぶことになった」

「……三国同盟」


ミュレットは、その言葉を小さく繰り返した。


セレスティアは頷く。


「帝国は、まだ諦めていない」

「……」

「武力だけでも、交易だけでも、ひとつの国だけでは押し返しきれない」

「……」

「だから三国で支え合うの」

「国境も、人の往来も、交易路も、外交も」

「……」

「殿下は、もう少しミュレットの怪我が治ってから話すつもりだったみたいだけど」


ミュレットは、しばらく返事ができなかった。


エルニアで見たものが、頭の中に次々と浮かぶ。


父王の穏やかな眼差し。

第二王女の切迫した声。

第三王女の、冷たい笑みの奥にあった焦り。

そして、リリナが見せた強さと痛み。


あの国で起きたことは、王家の内輪揉めなどではなかった。

もっと大きな流れの中にあったのだと、今さらのように胸へ落ちてくる。


「……アラン様が」


ようやくミュレットは声を絞り出す。


「そこまで考えて、エルニア入りしていたの?」

「ええ」


セレスティアはスプーンを置き、ミュレットを見た。


「でも本音は、ミュレットを守るため」

「……」

「あなたの力を守るため」

「……」

「そして、国のため」

「平和のため」

「もう二度と、同じ惨状を繰り返させないため」


その言葉は、冗談ではなかった。


セレスティアはいつもの軽さを少しだけ引いて、静かに続ける。


「城の者たちに向けても、アラン様ははっきり言ったの」

「……」

「“戦を終えたつもりで終わりにしてはならない”って」

「……」

「“クレスティアは、ありとあらゆる国と人の在り方を尊重する”とも」

「……」

「クレスティアは、そういう国であるべきだって」


ミュレットは、スープの湯気の向こうで目を伏せた。


その言葉が、痛いほど胸へ響く。


アランは強い。

恐れられている。

剣を取れば、誰よりも圧倒的だ。


だが、その強さの行き先は、戦うことそのものではない。


戦を終えたつもりで終わりにしないこと。

圧に屈しないこと。

人と国のあり方を守ること。


「……知らなかったです」


ミュレットが小さく言うと、セレスティアは少し肩をすくめた。


「私が教えたって、殿下に言わないでよ?」


そう言って、ずいっと顔を寄せてくる。


「……どうして?」

「首が飛ぶからよ!!」


思わずミュレットが目を丸くすると、セレスティアはそこで少しだけにやりとした。


「そうだ、建国記念祭、見るわよね?」

「……え?」

「民に向けても話すの」

「……」

「今度は、城の中だけじゃなくて」


ミュレットは顔を上げた。


建国記念祭で。

民に向かって。

アランが、今度は国全体へ。


それを思うだけで、胸の奥が静かにざわめいた。


建国記念祭の日、空は高く澄んでいた。


冬の入口らしい冷たさはある。

それでも日差しは明るく、城下には祝祭の空気が広がっている。


広場には人が集まり、

城壁には旗が掲げられ、

王城の石造りの白さが、凛とした冬の光を受けていた。


ミュレットは、人々の少し後ろからその光景を見ていた。


隣には、アラン直々に護衛を任されたセレスティアがいる。


「緊張してる?」

と、軽い口調で問われて、ミュレットは少しだけ迷った。


「……初めてだから」

「そうね」

「セレスティアは?」

「私は見慣れてるから」

「……」

「でも、今日は少しだけ違うかも」


そう言った時だった。


ざわめきが、すっと細くなる。


王城前広場に設えられた宣誓壇へ、アランが姿を現した。


黒の正装。

冬の光の中へまっすぐ立つ姿は、ひどく孤高だった。

大勢の視線が向いているのに、少しも揺らがない。

ひとりで立っているのに、誰よりも大きく見える。


ミュレットは息を呑んだ。


知っていたはずなのに。

近くで何度も見てきたはずなのに。

こうして“民の前に立つ王太子”として見ると、まるで別の人のように見える。


同時に、その姿の中へ、

自分だけが知っているアランの顔も確かに重なる。


不器用に謝る人。

食事を気にする人。

痛むところを見逃さない人。

ミュレットの顔色ひとつで、低く問いかけてくる人。


その全部を抱えたまま、今、あの人はここへ立っている。


アランが口を開く。


声はよく通った。

石の広場を、空へ抜ける冬の風を、まっすぐ貫くような声だった。


「クレスティアは、恐れに膝を折らない」


広場が静まり返る。


「だが、それはただ剣を振るうことではない」

「民の暮らしを守り、人の尊厳を守り、国の在り方を守る」

「それが、我らの抗い方だ」


ミュレットは、知らず息を詰めていた。


「クレスティアは、サンダレイン、エルニアと盟約を結ぶ」

「国境を守るために」

「交易路を守るために」

「そして、人がそれぞれの国で、生きる道を選び取れるよう支え合うために」


そのひとつひとつが、

言葉以上の重みを持って広場へ落ちていく。


「我らは、圧に屈せず、孤立も選ばない」

「支配のために剣を持つのではない」

「奪うために備えるのでもない」

「守るべきものを守るために、ここに立つ」


ミュレットの胸が熱くなる。


アランは、守ると言っていた。

ずっとそう言っていた。

ミュレットのことも。


ただ今、その言葉の意味が、自分ひとりへ向けられたものではないのだと分かる。


民を。

国を。

未来を。


そのすべてを守ろうとしている人が、

それでもなお、自分のこともその中へ含めてくれている。


アランの声が、さらに低く、静かになる。


「先の戦で、燃えたのは城壁だけではない」

「畑は焼かれ、食は絶え、子どもたちは明日に怯えた」

「そのような日々を、二度と繰り返してはならない」


広場にいた誰もが、息を呑んでいた。


「国の明日を脅かすものに、黙って道を譲るつもりはない」

「戦を止めるために、我らは備える」

「孤立しないために、我らは繋がる」

「そして、断つべきものは断つ」


最後の一言が落ちた瞬間、広場の空気が一気に動いた。


歓声とは違う。

もっと深い、腹の底からの応答のようなざわめきだった。

人々が、それぞれのやり方でその言葉を受け取っているのが分かる。


ミュレットは、その中でただ、アランを見つめていた。


ひとりで立っている。

なのに、その背にはひどく大きなものが乗っている。


あんなふうに立つには、どれほどの覚悟がいるのだろう。

どれほどの孤独があるのだろう。


胸が熱くなる。


ただ守られているだけでは足りない、と思った。


自分も、あの人の隣に立ちたい。

せめて、あの人が見ているものを少しでも理解できるようになりたい。

支えたい。


その思いは、建国記念祭が終わっても消えなかった。


むしろ日を追うごとに強くなっていった。


そして、結果として。


「……最近、姿が見えないと思ったら、ここだったのね」


王宮図書室の高い本棚の間で、セレスティアが呆れたように言った。


ミュレットは、分厚い本から顔を上げて、少しだけ肩をすくめた。


「少し、調べものを」

「少し?」

セレスティアは机の上へ積み上がった本を見下ろす。

「これが?」

「……」

「帝国史」

「クレスティア法制」

「エルニアの外交変遷」

「サンダレイン交易録」

「……」

「少しの概念、見直したほうがいいわね」


図書室は静かだ。

高い窓から冬の薄い光が差し込み、紙と革装丁の匂いが満ちている。


ミュレットはこの場所に、ここ数日かなりの時間を費やしていた。


エルニアのこと。

帝国のこと。

三国の盟約が持つ意味。

クレスティアがどういう国として立とうとしているのか。


知らなければ、隣に立てない気がしたのだ。


「……そこまでしなくても、って顔してない?」

「してるわ」

セレスティアは即答した。

「でも、まあ」

「……」

「分かるけど」

「……」

「支えたいんでしょう」

「……っ」


あまりにもまっすぐ言われて、ミュレットは本の端を持つ指先へ力を込めた。


「……はい」

「素直でよろしい」

「……」

「でも、あんまり根を詰めすぎると、今度は別の人が面倒なことになるわよ」

「別の人?」

「そのうち分かる」


その意味は、その日の夕方にはっきりした。


日が落ちかけて、図書室の光が少しだけ橙を帯びはじめた頃だった。


本に集中していたミュレットは、足音が近づいていることにしばらく気づかなかった。


「ミュレット」


低い声で呼ばれて、ようやく顔を上げる。


そこにはアランが立っていた。


「……アラン様」

「何をしている」

「え、と……」


目の前の本と、脇に積んだ本と、しおり代わりに挟んだ紙片を見る。


「少し、勉強を」

「少し?」

「……はい」

「……」


アランの目が、本の山を静かに見下ろす。


それだけで、なぜか妙に気まずくなった。


「……あまり、ここに籠らないでくれないか」


思っていたより低く、静かな声だった。


ミュレットはきょとんとする。


「どうして、ですか?」


問い返したあとで、少しだけしゅんとする。

せっかく頑張っているのに、と思ってしまったのだ。

その顔は自分でも分かるくらい分かりやすかったらしい。


アランは少しだけ黙った。


それから、ひどく真面目な顔のまま言った。


「…………会えない時間が、増えている」


ミュレットは瞬きをした。


意味が、すぐには頭へ入ってこない。


「う、え?」


間の抜けた声が出る。


アランは続けた。


「俺より、本を見る時間ばかりになっている」

「……」

「最近は、庭にもいない」

「……」

「部屋にもいない」

「……」

「ここにいる」


ミュレットはしばらく固まっていたが、やがてその意味がようやく胸へ落ちた。


本に。

嫉妬している。


そのあまりの予想外さに、思わず口からこぼれる。


「……かわいい」


言ってしまってから、しまった、と思った。


だがもう遅い。


図書室の空気が、ほんの一瞬だけ変わる。


アランは無言になった。

数秒。

そのままミュレットを見る。


ミュレットはじわじわと顔が熱くなる。


「い、今のは」

「……」

「その、違うの……」

「何がだ」

「全部です……」


アランはまだ何も言わなかった。

ただ一歩近づき、机の上の本を一冊取り上げる。

ぱたん、と音を立てて閉じる。


「アラン様?」

「今日は終わりだ」

「え」

「終わり」

「で、でも、まだ途中で」

「明日読め」

「……」

「終わりだ」


そう言って、本を自分の手へ持ってしまう。


取り返すわけにもいかない。

かといって反論する勇気もない。


ミュレットは困り切った顔で見上げる。

アランはそんな様子を見下ろしながらも、やはりどこか本気だった。


「歩けるな」

「……はい」

「なら、外へ出る」

「……いまからですか」

「ああ」

「……」

「俺のほうを見る時間を戻せ」


その言い方が、ひどく勝手で。

でも、ひどくやさしかった。


ミュレットは本を奪い返すこともできず、小さく笑ってしまう。


「……わかりました」


そう答えながらも、ミュレットの胸は不思議なくらい軽かった。


勉強したい気持ちは本物だ。

支えたいと思う気持ちも、ちゃんと本物だ。

それでも、本だけでは届かない距離もある。


その距離を、こうして少しずつ、言葉と時間で埋めていけばいいのかもしれない。


閉じられた本は、アランの手の中にある。


本を閉じたその手は、ひどく勝手で、ひどくやさしかった。

ミュレットはそんな人の隣へ立ちたいのだと、改めて静かに思った。



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