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Episode 74. 初冬の庭



クレスティアへ戻ってから、五日が過ぎた。


ミュレットの身体は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。

脚の火傷はまだ痛む。

煙を吸った喉も、朝はとくにひりつく。

それでも医務官たちに診てもらい、食事を取り、温かい湯で身体を拭ってもらううちに、ようやく“帰ってきた”実感だけは静かに根づきはじめていた。


怪我の具合も、戻ってきた日よりはましになった。

城内をゆっくり歩くことも許されている。

図書室まで行く。

回廊を少し散歩する。

庭も、窓辺から眺めるだけではなく、近くまで出られるようになった。


ただし、城の外は別だった。


「外出は、殿下の許可が必要です」


侍女は何度もそう繰り返した。

やわらかい口調だが、そこだけは決して譲らない。


そして、その“殿下”は今、とても忙しかった。


エルニアに滞在していたぶん、戻ってからの執務が山のように積み上がっているらしい。

文官たちが朝から晩まで執務室へ出入りし、書類の束が運ばれ、会議の呼び出しが重なり、昼を過ぎても扉が閉まったままのことも多い。


侍女たちのあいだでは、半ば本気、半ば冗談で囁かれていた。


「いま執務室の空気が大変です」

「大変、とは」

「執務室はいま、ブラックホールだと……」

「ぶ、ブラックホール?」

「文官様が一人入るたびに、もう一人しおれて出てくるのです」

「そ、そんなに……」


ミュレットが目を丸くすると、若い侍女は神妙に頷いた。


「ですが、殿下は合間を縫って必ずこちらへいらっしゃいます」

「……」

「その時だけ、空気が少しだけ人間に戻ると」

「……それは、よかったです」


そう返しながら、ミュレットは少しだけ可笑しくなる。


たしかにアランは、どれほど忙しくても顔を見せに来た。

朝。昼。夕方。

ほんのわずかな時間でも部屋へ寄り、具合を確かめ、無理をするなと言い残して、また執務室へ戻っていく。


ただ、ひとつだけ、どうしても慣れないことがあった。


鏡を見ることだった。


長い旅だった。

逃げて、怯えて、眠れない夜を重ねて、エルニアへ渡り、また命を狙われ、炎の中まで走った。


その一ヶ月余りは、ちゃんと身体へ残っている。


髪はぱさつき、毛先は傷み、頬は少しこけた。

肌も荒れている。

火傷の跡はまだ包帯の下で疼き、全体に、前よりずっと弱々しく見えた。


帰ってきたのに。

ようやく会えたのに。

こんな姿で、と思ってしまう。


その日の午後。

ミュレットは自室の鏡台の前で、髪を整えようとしていた。


櫛を通す。

途中で引っかかる。

思ったより傷んでいる。

ため息が漏れそうになって、慌てて飲み込んだ。


「……傷んでる」


小さくこぼした、その時だった。


扉が叩かれる。


「どうぞ」


入ってきたのは、やはりアランだった。


黒い外套は脱いでいるが、まだ仕事着のままだ。

整っているはずの姿なのに、どこか疲れが滲んでいる。

それでも視線だけはまっすぐで、部屋へ入るなりミュレットの顔色と立ち姿を確かめていた。


「具合は」

「歩くのも、前よりずいぶん楽です」

「そうか」

「……アラン様こそ、お忙しそうです」

「忙しい」


即答だった。


そのまま少し眉を寄せる。


「足りない」

「……何がですか」

「俺だ」

「……え?」

「あと二人はほしい」

「二人……」

「一人は執務室に置く」

「はい」

「一人は会議に出す」

「はい」

「俺はここに来る」


本気だった。

本気で分担を考えている顔だった。


ミュレットは思わず口元を押さえる。


「……三人いたら、大変そうです」

「何がだ」

「皆さま、さらに緊張なさるかと」

「そうなのか?」

「それに」

「……」

「三人とも真顔でこちらを見ていたら、ちょっと……大変です」


言ってしまってから、顔が熱くなる。


三人のアランが並ぶところを想像してしまった。

一人は書類を読み、一人は腕を組み、一人は無言でこちらを見ている。

しかも全員、本気で自分のことを心配していそうで、逃げ場がない。


アランは少しだけ目を細めた。


「何が大変だ」

「……圧が、すごそうで」

「なぜ」

「……こんな素敵な方が三人もいたら、目移りしてしまいます」


しどろもどろになるミュレットを見て、アランの目元がほんのわずかにやわらいだ。


「……なら、一人で十分だ」

「え?」

「目移りさせない」

「……」

「その必要もない」


あまりにも静かな声音で言うので、ミュレットは一瞬、息を止めた。


「……アラン様」

「何だ」

「いま、さらっと、とても大変なことを……」

「事実だ」


真顔だった。

何でもないことのように言うから余計にたちが悪い。


ミュレットはもうそれ以上まともに見られず、手の中の櫛へ視線を落とした。

その動きで、髪の傷みを思い出してしまう。


「……どうした」


ミュレットは少しためらってから、小さく答えた。


「髪が……」

「髪?」

「思ったより、傷んでいて」


言いながら、自分で余計に気になってしまう。

毛先のぱさつきも、頬のやつれも、急に全部見られている気がした。


アランは立ち上がり、自然な足取りで近づいてくる。


その手が伸びた。


頬へ触れるのか、髪へ触れるのか、その途中だった。


ミュレットは反射的に顔を背ける。


「……っ」


動きが止まる。


部屋に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


アランは差し出した手をそのままに、少しだけ首を傾げた。


「……どうした」


問われて、ミュレットは一気に顔が熱くなった。


言いたくない。

でも、このまま黙っているほうがもっとおかしい。


視線を逸らしたまま、しどろもどろに言う。


「か、髪はきしきしですし、顔も、その……ぼろぼろですし……」


言ってしまった瞬間、消えてしまいたくなった。


もっと大きなことがいくらでもあったはずなのに、帰ってきて気にするのがこんなことだなんて、自分でも呆れる。


なのに、アランは本気で分からない顔をした。


「……そうなのか?」


その声音には、本当に不思議がっている響きしかなかった。


ミュレットは思わず振り返る。


アランは眉をわずかに寄せ、ただ純粋に理解しかねるという顔でミュレットを見ていた。


「……え」

「そう見えない」

「……そう見えない、って」


あまりにも真顔だった。


鏡に映る自分は、どう見ても以前よりぼろぼろだ。

旅の跡も、疲れも、傷も、全部残っている。


それなのに、アランは少しもそう思っていないらしい。


短い沈黙のあと、アランは当たり前のように言った。


「きれいだ」


飾るための言葉ではなかった。

慰めでもない。

ただ、見たままをそのまま口にした声だった。


どこからどう見ても、本気だった。


ミュレットは息を呑む。


一瞬、何を言われたのか分からなかった。

意味が胸の奥まで落ちてきた途端、頭の中が真っ白になる。


「……っ」


声にならない息だけが漏れる。

顔が熱い。

耳の奥まで熱い。

視線の置き場がなくて、鏡を見ても余計にだめで、かといってアランをまともに見ることなどできるはずもない。


「そ、そういうことを」

「何だ」

「い、言わないでください……急に……!」

「急……だったか?」

「急です……!」


ほとんど悲鳴のように返してしまってから、ますます恥ずかしくなる。

否定したいわけではないのに、こんなふうにしか返せない自分が情けない。


アランは少しもひるまなかった。


「見たまま言っただけだ」


もう答えになっていなかった。

胸がどきどきしてうるさい。

こんな髪で、こんな顔で、こんなふうに立ち尽くしている時に、そんな真顔で言われたら、どうしたらいいのか分からない。


ミュレットはとうとう片手で顔の半分を覆った。


「……見ないでください」

「隠すな」

「どうして……っ!」

「きれいだからな」


追い打ちだった。


ミュレットは今度こそ完全に言葉を失った。


しばらく何も言えない。

逃げたいのに、うれしくて、困って、胸の奥がどうしようもなくいっぱいになる。


ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。


「……もう」


アランはもう一度、今度はゆっくりと手を伸ばした。


ミュレットは少しためらったが、今度は背けなかった。


指先が、そっと髪へ触れる。

傷んだ毛先を責めるような触れ方ではない。

戻ってきたものを確かめるような、静かな手つきだった。


「……少し、整えるか?」

「え」

「長さを」

「……」

「揃えればいい」


あまりにも実務的な言い方に、ミュレットは思わず小さく笑ってしまう。


「……でも、髪は長い方が、女性らしくて、品がある気がして」


ふと、以前、見合いのために登城してきた令嬢たちの姿が浮かぶ。

艶やかに整えられた髪。

美しく結い上げられた後れ毛。

自分の髪は、いまそれとはずいぶん遠い。


アランは気負いなく言った。


「髪はまた伸びる」

「……」

「好きにするといい」

「……」

「だが、見てみたい」

「……短い方が、ですか」

「ああ」

「どうしてですか」

「今のミュレットに似合うと思う」

「……」

「きっと、きれいだ」


またしても真顔で言われて、ミュレットは思わず息を詰まらせた。


「……アラン様」

「何だ」

「今日、少しおかしいです」

「どこがだ」

「全部……」


言いながら、もう笑うしかなかった。

顔はまだ熱いままだが、不思議とさっきほど苦しくはない。

心の奥の固くなっていたところが、少しずつほどけていくようだった。


アランの目が、ほんの少しだけやわらいだ。


「歩けるか」

「少しなら」

「庭へ出よう」

「……庭?」


問い返すと、アランは短く頷く。


「見せたいものがある」

「……?」


その言い方が、少しだけ優しかった。


よく分からないまま、ミュレットは外套を羽織った。


冬の空気は冷たい。

それでもアランが歩幅をゆるめてくれるので、脚の痛みはそれほどきつくない。

石の回廊を抜け、見慣れた庭へ出る。


そこで、ミュレットは足を止めた。


「……あ」


名前のない花が、咲いていた。


初冬を迎えて、他の草木はすでに色を落としはじめている。

空気も冷たい。

それなのに、その花だけは変わらずそこにあった。


強くはない。

派手でもない。

それでも、寒さに負けず、いつものように静かに咲いている。


ミュレットは思わず、ゆっくりと近づいた。


「まだ、咲いているんですね」

「ああ」

アランが答える。

「強い花だからな」

「……」

「初冬くらいでは枯れない」


その言葉を聞きながら、ミュレットは花を見つめる。


自分がいなくても、庭は失われていなかった。

荒れてもいない。

ちゃんと守られ、手入れされて、こうして季節を越えようとしている。


それが、どうしようもなくうれしかった。


「……待っていてくれたみたいです」


ぽつりとこぼすと、アランは少しだけ間を置いてから言った。


「そうだろうな」


ミュレットが振り向く。


アランは花ではなく、ミュレットを見ていた。


「ここも」

「……」

「お前が戻るのを待っていた」


息が止まりそうになる。


花だけではない気がした。

この庭も。

この城も。

ここで自分を迎えた人たちも。

そして――たぶん、この人も。


戻る場所は、まだちゃんとあったのだと、花が代わりに教えてくれているようだった。


ミュレットはしゃがみこみたい衝動をこらえながら、花の高さへ目線を落とす。


「エルニアの花も綺麗でした」

「……そうか」

「木の御殿に映える花が多くて」

「……」

「色も香りも強くて、でも、ここへ戻ってきたら」

「……」

「やっぱり、この花を見ると、帰ってきたんだって思います」


アランはすぐには返さなかった。


代わりに、ミュレットの横顔を見ていた。

帰ってきた、と言いながら花を見るその顔を。


少しやつれている。

たしかに旅の痕は消えていない。

それでも、今のミュレットは、炎の夜よりもずっとちゃんと生きてここに立っている。


「強い花ですね」

「……そうだな」


風が吹く。

花が小さく揺れる。


その拍子に、ミュレットの首もとの細紐がわずかに覗いた。

金の輪が、光をひとつ拾う。


アランの視線がそこへ落ちる。


ほんの一瞬だった。

けれど、ミュレットにははっきり分かった。


思わず首もとへ手をやる。

隠すようで、でも隠しきれない、そんな中途半端な仕草になってしまう。


アランは何も言わなかった。


言いかけてやめたようにも見えたが、結局そのまま視線を花へ戻した。


責めるものではないと分かるからこそ、ミュレットは余計に胸がざわつく。


まだ、ここなのだ。

指ではなく、首もと。

戻ったようでいて、戻りきれていないものがある。


「ミュレット」

「はい」

「これから、戻していけばいい」

「……」

「髪も、身体も」

「……」

「少しずつでいい」


その一言に、ミュレットは息を呑む。


「……え」

「急がなくていい」

「……」

「戻るところも」

「……」

「きれいになるところも、ちゃんと見ている」


声は低く、穏やかだった。


なのに、その優しさは逃げ場がないほどまっすぐで、ミュレットは胸の奥がじんと熱くなるのを止められなかった。


こくりと頷く。


「……はい」

「戻ったのだから」

「……」


戻ったのだから。


そのひと言だけで、胸の奥にあった焦りが少しだけほどける。


以前と同じように、すぐ綺麗にはなれないかもしれない。

旅の跡も、戦いの痕も、しばらくは残るだろう。


それでもいいのだと、今の自分のままここにいていいのだと、アランはたぶんずっとそう言っている。


風が吹く。

名前のない花が、小さく揺れる。


ミュレットはその花を見つめながら、そっと笑った。


初冬を迎えてもなお咲いているその花は、

失われなかったものがたしかにここにあるのだと、

ミュレットへ静かに告げているようだった。



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