Episode 73. 帰城のあとで
クレスティアの城門をくぐった瞬間、ミュレットはようやく本当に帰ってきたのだと実感した。
石畳を踏む車輪の音。
高い城壁に沿って流れる冬の風。
灰色の石に跳ね返る、兵たちの足音。
エルニアの木造の御殿とは違う、硬質で静かな気配だった。
けれど今は、その冷たささえどこか懐かしい。
馬車が正面玄関前で止まる。
扉の外には、すでに何人かの人影があった。
先頭に立っていたのはディルクとセレスティアだった。
扉が開く。
冬のクレスティアの空気が差し込んだ、その瞬間だった。
「……っ」
ミュレットは思わず息を止めた。
冷たい、では足りない。
頬を刺すというより、骨の奥へ細い針を差し込まれるような寒さだった。
エルニアでも冬の気配は感じていた。
けれど、あちらの冷えは木のぬくもりにやわらげられていたのだと、いまさらのように思い知る。
石の城の冷気は、まっすぐだった。
容赦なく、薄くなっていた体温を奪いにくる。
肩が小さくすくむ。
その瞬間、自分がどれほど着込まされていたかを、ミュレットはようやく身をもって理解した。
首元の布。肩掛け。重ねられた衣。膝掛けのぬくもり。
さっきまで少し大袈裟だと思っていたものが、いまは全部、きちんと自分を守っている。
――正しかったのだ。
アランは。
そんな当たり前のことに気づいた途端、少しだけ悔しいような、くすぐったいような気持ちになる。
「だから言っただろう」
低い声が落ちた。
見上げると、アランが当然のような顔でこちらを見ていた。
責めるでもなく、得意げでもなく、ただ本当に分かっていたという顔だった。
ミュレットは白い息をひとつこぼし、小さく答える。
「……はい」
「寒いか」
「……寒いです」
「……珍しく素直だな」
そう言いながら、アランの手が首元の布をもう一度だけ整えた。
その指先の迷いのなさに、ミュレットは言い返せない。
むしろ今は、その手つきがありがたかった。
「足元を見ろ」
先に降りたアランが、当然のように手を差し出す。
ミュレットはその手を取り、ゆっくりと馬車を降りた。
その瞬間、セレスティアの顔がはっきりとやわらいだ。
「ミュレット……!」
声を弾ませかけて、けれどすぐに彼女は踏みとどまる。
脚の包帯と、顔色の薄さを見たのだろう。
安堵と心配が同時に浮かび、その表情は複雑に揺れた。
ディルクは一歩前へ出て、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ミュレット様」
「……ただいま、戻りました」
掠れはまだ少し残る。
それでも、どうにか言えた。
ディルクの目がわずかにやわらいだ。
「ご無事で、何よりです」
「……ありがとうございます」
その短いやりとりだけで、胸の奥が静かに熱くなる。
待たれていたのだと分かる。
帰る場所は、ちゃんとここにあったのだと。
「話はあとだ」
アランが低く言った。
「まず診せる」
セレスティアがすぐに頷く。
「ええ、そのほうがいいわ。医務官は?」
「すでに呼んである」
ディルクが答える。
「移動の負担を避けるため、ミュレット様のお部屋へ」
ミュレットは少し目を瞬いた。
医務室へ行くものだと思っていた。
だが、そう思うより早くアランがこちらを見る。
「歩けるか」
「……はい」
「無理なら抱える」
「だ、大丈夫です」
即答したものの、アランの目は少しも信用していなかった。
その様子に、セレスティアがかすかに口元を押さえ、隣のディルクへ小声で囁く。
「殿下、愛が限界突破しています……!」
「そうだな」
「やっぱり、そう思いますよね!?」
「そのくらいにしておけ」
低くたしなめられて、セレスティアは慌てて口をつぐむ。
ディルクはほんの少しだけ目を伏せた。
たぶん笑いを堪えている。
玄関ホールを抜け、ミュレットの部屋へ向かうあいだも、城内の者たちは道を開けた。
侍女たちも、文官たちも、庭師も。
誰も大きな声は上げない。
けれどその目は、帰ってきたミュレットを見て、確かに安堵していた。
その一方で、ふらつかずに歩けているだろうかと気を張る視線もある。
それが少しだけくすぐったくて、少しだけうれしかった。
部屋へ入ると、ほどなくして医務官がやってきた。
年配の医務長と、補佐の若い医務官。
薬箱と書類を抱え、手際よく室内を整える。
「失礼いたします」
医務長は一礼し、ミュレットを見た。
「道中、お疲れでしょう。こちらで診させていただきます」
寝台へ腰を下ろし、喉の様子を見る。
脚の包帯を慎重にほどき、火傷の具合を確かめる。
指先の熱傷、疲労の残り、脈の強さ。
ひとつずつ確認するたび、医務長の眉間には薄く皺が寄った。
ミュレットはそれを見るたび、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
診察のあいだ、アランは部屋の隅で黙って立っていた。
何も口を挟まない。
ただ、ひと言も聞き漏らすまいとするように、静かに医務長の言葉を待っている。
診察を終え、医務長は包帯を整え直してから、ゆっくり息を吐いた。
「まず、命に別状はございません」
その言葉に、部屋の空気がわずかにゆるむ。
「ですが」
その続きで、すぐに張りつめ直した。
「喉の損傷はまだ残っております。長く話せば痛みますし、無理をすれば治りが遅れるでしょう」
「……」
「脚の火傷も同様です。表面だけ見れば落ち着いてきておりますが、深い疲労と熱の名残がございます」
「……」
「歩けるから大丈夫、という状態ではありません」
ミュレットは小さく視線を落とした。
やはり、そうなのだろう。
自分でも分かってはいた。
ただ、こうしてはっきり言われると、少しだけしょんぼりする。
医務長は続ける。
「しばらくは療養を最優先に」
「……」
「仕事はなりません。軽い手伝いも、庭へ出るのも、書庫の往復も、お控えいただきたい」
「え……」
思わず声が漏れる。
「書庫も……?」
「なりません」
「でも、本を取りに行くくらいなら」
「なりません」
きっぱりだった。
セレスティアが横で、ああやっぱり、という顔をした。
ディルクはすでに予想していたらしく、特に驚いた様子もない。
「では、少しだけ庭を」
「なりません」
「お茶を淹れるくらいは」
「それもなりません」
医務長はまったく揺るがなかった。
「今必要なのは、休むことです」
「……」
「体を使わないことも、治療のうちです」
ミュレットは口を閉ざすしかない。
その沈黙の上へ、低い声が重なった。
「聞いたな」
アランだった。
ミュレットがちらりと見ると、アランは少しも表情を崩していない。
「療養だ」
「……」
「仕事はさせない」
あまりにも即断で、ミュレットは少しだけ眉を下げた。
「でも、何もできないのは」
「できる」
アランは言った。
「休むことだ」
「……」
「今のミュレットにしかできない仕事だと思え」
真顔で言われてしまうと、反論しづらい。
医務長は小さく咳払いをして、改めて言葉を整える。
「少なくとも数日は、しっかりと休んでいただきます」
「……数日」
「はい。喉は沈黙が一番の薬です。脚も無理に使えば熱を持ちます」
「……」
「侍女にも伝えておきます。必要なものはすべて部屋へ運ばせますので、ご自身で動こうとなさいませんよう」
それは完全に先回りされた宣告だった。
ミュレットが何か言おうとした時、アランが静かに付け足した。
「城内にも通しておけ」
医務長へ向けての声だった。
「軽い手伝いでもさせるな」
「承知しました」
「庭師にも、書庫にも」
「はい」
「誰も、ミュレットに仕事を持ち込まないように」
そこまで言われると、もう逃げ道はまったくなかった。
医務官たちが下がり、セレスティアとディルクも一礼して部屋を出ていく。
去り際、セレスティアはミュレットに小さく笑ってみせた。
「しっかり休みなさい」
「……はい」
「みんな待ってたんだから。今度は、ちゃんと治してから出てくること」
「……はい」
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、アランとミュレットだけだった。
静かだった。
けれど、気まずくはない。
ミュレットは寝台の上で、少しだけ視線をさまよわせる。
「……エルニアでは、もう少し歩いてもいいって言われました」
「そうか」
アランは即座に答えた。
「よそはよそ、だ」
「それは、医務官のセリフです」
「間違ったことは言っていない」
あまりにも迷いがなくて、ミュレットは少しだけ頬をふくらませた。
「……そんなに、重症ではないのに」
つい、小さくこぼす。
「重症だ」
即答だった。
「炎の中であんなことがあっては、仕方ない」
そのひと言だけ、少しだけ低かった。
ミュレットは言い返しかけて、やめた。
アランの中では、まだ終わっていないのだと分かる。
エルニアで起きたことも、自分を失いかけた一瞬も。
全部まだ、生々しいまま残っている。
だからこそ、今はこうなるのだ。
ミュレットは小さく息をついて、少しだけ頷いた。
「……分かりました」
「本当か」
「本当です」
「無理はするな」
「……はい」
「少しは、俺にも安心させろ」
最後のひと言だけ、低いまま、ひどく静かだった。
ミュレットは目を瞬く。
そんなふうに言われると、反論する気がすっと消えてしまう。
「……はい」
今度は、さっきより素直に頷けた。
アランはそれを見て、ほんのわずかに表情をやわらげる。
ほんの少しだけだったが、それでも十分だった。
それを見て、胸の奥の緊張が少しほどける。
帰ってきたのだ。
ちゃんと、この城へ。
けれど同時に、何もできないのだという事実もそこにある。
戻ってきたのに、また休んでいろと言われる。
それは少しだけ、落ち着かなかった。
アランはそんなミュレットの顔を見ていたが、やがて低く言った。
「焦るな」
その声は、命令のようでいて、どこか静かだった。
「戻ってきたばかりだ」
「……」
「今は、ここにいるだけでいい」
ミュレットは頷く。
エルニアへ渡ってから、ずっと気を張っていたのだと思う。
長い移動。
慣れない木造の御殿。
やわらかく迎え入れられても、心の底には消えきらない警戒が残っていた。
人を信じきれない感覚。
また誰かに居場所を奪われるかもしれないという不安。
自分の力を知られれば、利用されるかもしれないという恐怖。
そこへ、クーデターの気配が重なった。
王宮全体に満ちていく張りつめた空気。
誰が敵で、誰が味方なのかも分からない夜。
追い詰められ、力を使い、炎の中に立ったこと。
そして、そのすべてを切り裂くように現れたアランの圧倒的な実力。
多くのことがあった。
多くのことを考えてきた。
帰りたいと願いながら、帰るのが怖かった。
離れたくないのに、離れるしかないと思い込んだ。
エルニアで立ち止まり、考え、揺れて、それでも戻ると決めた。
その全てが、知らないうちに頭も体も削っていたのだろう。
だからこそ、医務官たちは迷わなかった。
休ませるべきだと、はっきり言い切った。
アランがそこへ甘い口を挟まなかったのも、同じものを見ていたからだ。
傷だけではない。
疲労だけでもない。
ようやく無理をしなくていい場所へ戻ってきた人間が、今どういう状態なのかを、この城の者たちは分かっていた。
帰ってきたのだと、体のほうが先に理解してしまったのかもしれない。
その日の午後、ミュレットは少し目を閉じるつもりで横になり、そのまま深く眠った。
夕刻に一度だけ起こされて、スープを口にし、薬を飲み、また眠った。
夜も、朝も、まだ眠気は重かった。
結局その後三日ほど、ミュレットは一日のうち殆どの時間を眠って過ごすことになる。
眠っているあいだ、不思議と悪い夢は見なかった。
焼け跡も。
炎も。
追手も。
あの夜の緊張も、夢の底までは追ってこない。
目を覚ませば、石の城の静けさがある。
薬草の匂いがあって、侍女の足音がして、必要なものはすべて部屋へ運ばれてくる。
そして、ときおり扉が開いて、当然のようにアランがいる。
それだけで十分だった。
アランのお膝元へ、帰ってきたのだ。
その安堵が、ようやく張りつめていたものをひとつずつほどいていく。
眠ってもいい。
もう見張っていなくていい。
ここでは、少しだけ弱っていても許されるのだと、体の奥がゆっくりと思い出していく。
窓の外では、冬のクレスティアの空が淡く光っていた。
高く、薄く、音まで遠ざけるような色だった。
その静けさもまた、張りつめていた心をゆっくりとほどいていく。
もう起きていなくていいのだと、空までが言っているようだった。
帰ってきた安堵と、何もできないもどかしさを胸に抱えたまま、ミュレットは再びまぶたを閉じる。
深く、静かな眠りだった。
それは傷のためだけではなく、ようやく辿り着いた場所で、心まで休めるための眠りだった。




