Episode 72. 晴れの出立
その朝、空は驚くほどよく晴れていた。
雲は薄く、高い。
夜のあいだに冷えた空気はまだ頬を刺すが、あの炎の夜のような雪はない。
本格的な冬へ入りきる前の、澄んだ青だった。
だからこそ、今日なら帰れるのだと分かる。
エルニアの御殿の一室で、ミュレットは鏡の前に座らされていた。
「もう一枚」
「……まだ着るの?」
「着てください」
年嵩の侍女はきっぱりと言って、厚手の羽織を肩へかけた。
すでに中へ何枚も重ねている。柔らかな下着、厚手の衣、上着、外套、首元の布。膝掛けまで用意されていて、もはや自分が包みもののような気さえした。
「歩きにくいです、これ……」
「歩く距離は多くありません」
「そういう問題では……」
言いかけたところで、扉の向こうに気配がした。
振り向く前に分かる。
入ってきたアランは、侍女たちが整えたミュレットの姿をひと目見て、少しも満足しなかった。
「肩掛けは」
「こちらに」
侍女がすぐ差し出す。
「……まだ着るの?」
ミュレットが目を瞬くと、アランは真顔のまま肩掛けを受け取った。
「アラン様、さすがに大袈裟です」
「大袈裟ではない」
「でも、暑いです」
「クレスティアはエルニアより寒い。火傷にひびく」
返す言葉がなくなる。
その声音があまりにも本気で、侍女たちまで一斉に頷いているものだから、ミュレットは小さく口を閉ざすしかなかった。
肩へふわりと重みが足される。
さらに首元の布まで少しだけ整えられて、もう完全に逃げ場がない。
「まだ足りないくらいだ」
そこでようやく、侍女のひとりが吹き出しそうになるのを堪えた。
ミュレットは顔を赤くし、視線を逸らす。
だがアランは本当にそう思っているだけらしい。
からかわれているのではないと分かるから、余計に困る。
支度を終えて部屋を出る前に、リリナが顔を見せた。
今日は正装ではないが、王女らしいきちんとした衣を纏っている。
脚の怪我はまだ残っているはずなのに、その立ち姿にはもう弱さを感じさせない。
「……ずいぶん立派な厚着ね」
リリナがミュレットを見て言う。
「……笑わないで」
「笑ってないわよ」
口元はしっかり笑っていた。
それから、リリナは少しだけ声をやわらげる。
「ちゃんと帰るのね?」
「はい」
ミュレットは頷いた。
「よろしい。言葉足らずな誰かさんに愛想が尽きたら、今度こそ次の男を探しなさい」
「もう、しません」
「残念」
軽口のまま言って、けれど次の瞬間にはその目が真面目になった。
ミュレットが何か言うより早く、リリナは一歩近づいてくる。
そして当然のように、そのままミュレットを抱きしめた。
「……リリナ」
「泣かないで」
「泣いてません」
「じゃあ、泣きそうな顔をしないで」
抱きしめる腕に、ふざけた軽さはなかった。
木の御殿で過ごした日々、その全部をまとめて押しつけるみたいな、まっすぐな力だった。
「エルニアはまだ落ち着かないけど、私はちゃんと立て直す」
「……」
「だからあなたも、力のことも、これからのことも、ちゃんと前向きに考えなさい」
「……はい」
「春になったら、顔を見に行くわ」
ミュレットはリリナの肩へ、ほんの少しだけ額を寄せた。
「……待っています」
「ええ。待ってなさい」
離れたあとも、胸の奥にはぬくもりが残ったままだった。
ミュレットは小さく頷いた。
何か言おうとしたが、喉の奥が少しだけひりついて、結局うまく声にならなかった。
その様子を見ていたリリナが、ふいに視線を横へ滑らせる。
今度は、少し離れて立っていたアランのほうを見た。
「で、あなたは私にいくら払う?」
唐突なひと言に、ミュレットが目を瞬く。
アランは眉を寄せた。
「……何の話だ」
「何の話も何もないでしょう」
リリナは胸を張る。
「ミュレットがあなたのもとに帰ることになったの、九割くらいは私のおかげだけど?」
「り、リリナ……!」
ミュレットが慌てて止めようとする。
だがリリナはまるで意に介さなかった。
「拾って、住まわせて、役目まで用意して、泣きそうな顔してる時にはちゃんと支えてあげて、そのうえ最後は背中まで押したのよ?」
指を折るようにして数えながら、得意げに言う。
「むしろ九割で済ませてるだけ、かなり良心的だと思わない?」
アランはしばらく無言だった。
その沈黙が妙に長く感じられて、ミュレットは思わずそわそわする。
だが次の瞬間、アランはひどく真面目な顔のまま口を開いた。
「……一割は誰だ」
一瞬、空気が止まる。
それから、リリナが吹き出した。
「なによ、それ。そこ気にするの?」
「必要だ」
「残りはあの子本人と、あなたのしつこさよ」
「しつこさ……」
「そうよ、普通はエルニア入りした時点で諦めるわよ」
ミュレットはとうとう堪えきれず、小さく笑ってしまった。
その笑い声に、リリナの目がやわらぐ。
「まあ、請求は今度でいいわ」
わざとらしく肩をすくめる。
「春になってクレスティアへ行った時、ちゃんと! 手厚く! おもてなししなさい。話はそれからよ」
アランは低く息を吐いた。
「……分かった」
「ずいぶん素直じゃない」
「異論はない」
その返答に、今度はリリナが少しだけ目を丸くする。
けれど次の瞬間には、すぐにいつもの勝ち気な笑みへ戻った。
「よろしい」
ミュレットは二人を見比べて、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
別れは寂しい。
けれど、こんなふうに笑えることが、何よりありがたかった。
リリナは最後にもう一度だけ、ミュレットの肩へ軽く触れる。
「行きなさい」
「……はい」
ミュレットは頷いた。
その返事を見届けてから、リリナはふっと口元を上げる。
「ちゃんと幸せになりなさいよ」
「……はい」
「じゃないと、本当に高くつくわよ」
「リリナ……」
困ったように笑うミュレットの隣で、アランが静かに言った。
「借りは覚えておく」
リリナは呆れたように肩をすくめたが、その目はどこか満足そうだった。
「ほら、行った行った。これ以上ここにいたら、せっかく送り出したのに私まで湿っぽくなるじゃない」
そう言って、わざとらしく手を振る。
ミュレットは胸の奥に残るぬくもりごと抱くように、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「ええ」
短い返事だった。
だがそれだけで十分だった。
リリナはもう背を向けていた。
振り返らないまま、ひらひらと片手だけを振る。
その姿を見ながら、ミュレットはこの木の御殿で過ごした日々を、きっとずっと忘れないのだろうと思った。
王への挨拶は短かった。
まだ寝台から完全には起き上がれない王は、それでもミュレットへまっすぐ目を向けた。
「礼を言う」
「……いえ」
「そなたが繋いだ命を、無駄にはせぬ」
ミュレットは恐縮して俯きかけたが、王は続けた。
「その力、大切にしなさい」
それ以上はうまく言えなかった。
けれど、そのひと言だけで十分だった。
そして、出立の時が来る。
御殿の外へ出ると、空はやはり高く晴れていた。
あの夜を覆っていた炎も雪もなく、ただ冷たい光だけが庭と回廊を照らしている。
馬車の前で、ミュレットはふと足を止めた。
エルニアの木造の御殿。
焼け跡の残る正殿の向こう。
静かに立つ人々。
ここで起きたことは、何ひとつ小さくなっていない。
それでも今、自分は逃げるのではなく、帰るのだ。
その隣に、アランがいる。
「ゆっくりでいい」
「はい」
差し出された手を取る。
今度はためらわなかった。
馬車の中は思ったより暖かかった。
厚手の布が内側に張られ、足元には火鉢まで置かれている。
だからこそ、少し走り出したところで、ミュレットはそっと首元の布へ手をやった。
「何をしている」
「……少しだけ、暑くて」
「だめだ」
「でも」
「だめだ」
あまりにも即答で、ミュレットは目を丸くする。
アランは窓の外へ一度視線を向け、それから当然のように言った。
「城に入るまでは、そのままでいろ」
「……暑いです」
「じき寒くなる」
真顔で返される。
けれど、その目はほんの少しだけやわらいでいた。
馬車は揺れながら、エルニアの王都を離れていく。
しばらく二人とも黙っていた。
沈黙は重くない。
ただ、ようやくたどり着いた静けさのようだった。
窓の外では、エルニアの城壁が少しずつ遠ざかっていく。
木造の御殿も、焼け跡の残る正殿も、もう白い冬の光の向こうへ沈みはじめていた。
やがて、ミュレットが窓の外を見たまま、小さく言う。
「本当に、帰るのですね」
「ああ」
短い返事だった。
それだけで終わると思った。
けれどアランは、そのまま少しだけ視線を落として続けた。
「今度は、置いていかない」
そのひと言だけで、胸の奥が静かに震えた。
ミュレットはすぐには答えられない。
代わりに、服の下の指輪へそっと触れる。
あの夜は、ただ助けられただけだった。
炎と雪の中で抱き上げられ、意識を手放した。
けれど今は違う。
自分の意思で、この人の隣へ戻っている。
「……離れていたあいだ」
不意に、アランが言った。
「何を考えていた」
問う声は低く、静かだった。
責める響きはない。
ただ、本当に知りたいのだと分かる声だった。
ミュレットは少しだけ迷ってから、答えた。
ずっとアランのことを考えていたこと。
ちゃんと眠れているのか、食事を抜いていないか、怒っているのではないか。
そして、炎の中から目覚めたとき、もう帰ってしまったのではないか、自分は置いていかれるのではないかと、そんなことばかり考えていたこと。
その揺れの中で、自分を支えてくれたのはリリナだったのだと、ミュレットは続けた。
拾ってくれたこと。
ここにいていいと何度も言ってくれたこと。
もしリリナがいなければ、自分は戻れなかったと。
それを聞いたアランは、短く肯いた。
「……そうだな」
それから少し黙り、静かに言う。
「リリナに拾われたから、ミュレットはエルニアで、自分の足で立つ時間を持てた。だからこうして今、戻ると決められた」
「……はい」
「俺たちの先が開けたのは、リリナのおかげでもある」
ミュレットは息を呑む。
そこまで真っ直ぐに言うとは思わなかった。
アランは、ほんの少しだけ困ったように息を吐く。
「頭が上がらない」
「……え」
思わず聞き返してしまう。
あまりにも意外だった。
「驚いた顔をするな」
「だって……そんなふうに考えておられるように見えないので」
「失礼だな」
そう言いながらも、否定はしなかった。
「感謝はしている」
「そう、なんですね」
「だから余計に厄介だ」
「厄介?」
「あの女に軽口や煽り文句を叩かれても、強く出られない」
ミュレットは思わず笑ってしまう。
その流れで、つい少しだけ笑い混じりに続けた。
「軽口といえば……言われました」
「何を」
「“言葉足らずな誰かさんに愛想が尽きたら、次の男を探しなさい”って」
半分は冗談のつもりだった。
リリナらしい言い方だったし、今こうして帰る馬車の中にいるのだから、少しくらい笑って話してもいいと思ったのだ。
しかし。
空気が、ぴたりと変わった。
アランの視線が、まっすぐミュレットへ向く。
「……そうか」
低い声だった。
低すぎて、かえってミュレットは笑みを引っ込めた。
「アラン様?」
「それで」
「……」
「探す気になったのか」
冗談を受ける声音ではなかった。
ミュレットは目を瞬いた。
「え?」
「次の男だ。探せと言われて、探したのか」
その顔は、ひどく真面目だった。
冗談を言われたのに、冗談で返す気が最初からない顔だった。
ミュレットは慌てて首を振る。
「さ、探してません……!」
そこまで言い切っても、アランの目はまだ真剣なままだった。
ミュレットはようやく気づく。
この人は、本気で聞いているのだと。
「……リリナの言い方が、少し面白かったので……」
「面白くない」
「……」
「俺は少しも、笑えない」
言い切られて、ミュレットは息を止めた。
アランはわずかに視線を落とし、低く続ける。
「俺に足りないものを持っている男は、あの国には特に、大勢いる」
「……」
「そこで、そんなことを言われたと聞かされて、平然としていられるわけがない」
その声音には、怒りよりも切実さが強かった。
ミュレットは胸の奥がきゅっとなる。
笑って流せると思った。
けれど、この人にとっては、そんな軽い話ではなかったのだ。
「……アラン様以外の人、なんて」
ミュレットは小さく言う。
「……リリナが何を言っても、ずっとアラン様のことを考えていました」
その言葉に、アランの胸の奥の張りつめていたものが、ようやくわずかにほどけた。
だが、それだけでは終わらなかった。
リリナの軽口ひとつで、こうして心が乱れるのなら。
ただ安心して済ませていい話ではないのだと、アランは思う。
城へ戻れば、また人目も公務もある。
こんなふうに、ミュレットと静かに向き合える時間はしばらくないかもしれない。
「では」
アランが低く言う。
「俺にダメなところがあるなら、今のうちに言ってくれ」
「……え?」
「ゆっくり話ができる今のうちに」
真顔だった。
冗談で言っているのではないと、すぐに分かった。
リリナの軽口に揺れただけではない。
この人は本気で、自分に足りないものがあるなら知ろうとしている。
ミュレットは少しだけ目を瞬いたあと、困ったように笑った。
「ダメなところなんて、ありません」
「……そうか」
「はい」
そこでいったん言葉を切って、少しだけ視線を伏せる。
「でも……」
「……」
「強いて言うなら」
アランの目がまっすぐに向けられる。
ミュレットはその視線に頬を熱くしながら、それでも逃げずに言った。
「アラン様を思う女性が、多いところ、とか……」
「……」
「もっと相応しい方が、いるのに、って」
「……」
「きっと、やきもちは……焼いてしまいます」
言い終えた瞬間、自分で言っていて恥ずかしくなって、ミュレットは少しだけ俯いた。
馬車の中に、短い沈黙が落ちる。
失言だっただろうかと思いかけた時、アランが静かに口を開いた。
「それの、どこが俺の短所なんだ」
「……え」
「俺には、かなり都合がいい話に聞こえる」
低い声だった。
だが、先ほどまでの張りつめた硬さはない。
ミュレットが顔を上げると、アランはほんのわずかに目元をやわらげていた。
「嫉妬するほど、ミュレットが俺を見ているということか」
「……アラン様」
「そうか……安心した」
あまりにも真面目に言われて、ミュレットは息を呑む。
否定できない。
もう何も言えなくなって、指先で膝掛けの端をぎゅっとつまんだ。
アランはそんな様子を見て、少しだけ息を吐く。
ミュレットが気に病むようなことではない、と本当はすぐに言いたかった。
だが、どう言えば正しく伝わるのかが分からなかった。
これまで向けられてきた視線を思い出す。
王太子として差し出される笑顔。
慎重すぎる受け答え。
食事の席で向かい合っても、楽しそうに見えない令嬢たち。
失礼ではない。むしろ完璧に整っている。
それでも、そこに心が動く余地はなかった。
力を恐れられることには慣れている。
敬われることにも、遠巻きにされることにも。
だがミュレットは違った。
白いハンカチを差し出した時から。
自分の力ではなく、泥で汚れた手を見た。
断界王ではなく、人として触れてきた。
そして同じように、力を持つ者の孤独と重さを、痛いほど知っている。
ミュレットの気持ちが分かるのは自分だけで、
自分の気持ちが分かるのも、きっとミュレットだけだと、アランは思っていた。
本当なら、そう全部言ってしまえたらよかった。
ミュレットが案じるような隙など、最初からどこにもないのだと。
だが結局、口をついて出たのは、いつものようにぶっきらぼうな言葉だった。
「……心配しなくていい」
「……え?」
「ミュレットが思うようなことにはならない」
「……」
「そういう余地は、俺にはない」
ミュレットは目を瞬いた。
言葉は少ない。
なのに、その短さの奥にあるものだけは、はっきりと伝わってくる。
アランは視線を逸らさず、さらに続けた。
「ミュレットが余計なことで不安にならなくて済むように」
「……」
「足りないところは直す」
「……」
「言葉が足りないなら、言う」
「……」
「そうやって、選ばれ続ける努力くらいはする」
その声音は穏やかだった。
なのに、少しも揺らがなかった。
ミュレットは、しばらく言葉を失った。
胸の奥がじわじわと熱くなる。
この人は本当に、そういうところだけひどく真面目だ。
そして、いまのやりとりそのものが、リリナの軽口がなければきっと生まれていなかったのだと思う。
あの人が笑いながら投げたひと言が、こんなふうにアランの本音を引き出してしまうのだから、やはり敵わない。
やがて、小さく笑う。
「……やっぱり」
「何だ」
「リリナには、頭が上がりませんね」
「そうだろう?」
そこでようやく、アランの目元がほんの少しだけやわらいだ。
ミュレットも、ようやくほっと息をつく。
「……私も」
小さく言う。
「リリナに、救われました」
「ああ」
「でも、その先にアラン様がいてくださったから」
「……」
「ちゃんと戻りたいって、思えました」
長い沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙はさっきまでとは違っていた。
離れていた時間を埋めるものというより、いま口にした言葉を静かに受け止めるためのものだった。
やがて、アランの指先がほんの少しだけやわらぐ。
「……そうか」
低い声が落ちる。
馬車は揺れながら、エルニアの王都を離れていく。
けれどその中にはもう、ただ別れの名残だけではなく、二人を繋いでくれた人への感謝まで、静かに積もっていた。
やがて道が北へ延びるにつれて、空気が少しずつ変わってきた。
窓の隙間から入り込む風が、エルニアのものよりきりりと冷たい。
火鉢の熱があるとはいえ、馬車の中まで冬の気配がじわじわと忍び込んでくる。
ミュレットが無意識に肩をすくめると、アランの目がすぐに動いた。
「寒いのか」
「……いえ」
「嘘をつくな」
低く言って、アランは膝掛けの端を持ち上げた。
すでに十分包まれているはずなのに、さらに肩掛けを整え、首元の布を引き寄せ、膝のあたりまで丁寧に包み直していく。
まるで、少しでも冷たいところを残しておくのが許せないみたいだった。
「……また増えました」
「そうだな」
「これ以上増えたら、歩けなくなってしまうかも……」
「問題ない」
ミュレットは思わず目を瞬いた。
「俺がいる」
真顔だった。
少しも冗談ではないらしい。
「クレスティアは冷える」
言い切られてしまうと、返す言葉がなくなる。
ミュレットは包み直された肩掛けの端をそっと握りしめ、小さく笑った。
「そんなに心配ですか?」
「……肝が冷えた事ばかり起きたからな」
短い返事だった。
だが、その短さの奥にあるものは隠れていなかった。
馬車が石を乗り越え、少し大きく揺れる。
ミュレットの身体がわずかに傾く。
次の瞬間には、アランの腕がすぐにそれを支えていた。
「……アラン様?」
アランの手はすぐには離れなかった。
腰を引き寄せるほど強くはない。
ただ、もう一度揺れても支えられる位置に、静かに置かれている。
ミュレットは何も言えず、その体温を受け入れる。
前なら、それだけで胸が苦しくなったかもしれない。
でも今は、その苦しさよりも安堵のほうがずっと大きかった。
ミュレットはそっと身を寄せる。
アランの肩へ、少しだけ頭を預けるように。
自分でも驚くくらい自然な動作だった。
こんなふうに甘えられる時間は、きっと多くない。
だからこそ、その貴重さを身体のどこかで知っていた。
アランは何も言わない。
ただ、肩へ預かった重みを拒まず、そのまま静かに受け止めている。
窓の外では、白い景色がゆっくりと流れていく。
エルニアのやわらかな木の色は、もう見えない。
代わりに道の先には、冷えた石の気配が濃くなっていく。
「……帰ったら」
不意にミュレットが言った。
アランが視線を向ける。
「……受け入れてくれるでしょうか」
小さな声だった。
城の皆は、どう思っているのか。
自分が戻ることを、どう受け止めるのか。
不安はやはり、少しあった。
アランはすぐに答えた。
「少なくとも、いなくなった時はひどく寂しそうだった」
その言葉は静かで、妙にあたたかかった。
「特にセレスティアは」
ミュレットの目が少し丸くなる。
「……そう、でしたか」
「ああ」
「ミュレットに命を救われた者は、礼を言いたいと」
「……」
「ディルクも」
ミュレットは黙って聞いていた。
アランは続ける。
「ひとつずつでいい」
「……」
「ミュレットが思う通りに、皆へ言葉を返せばいい」
その言葉に、ミュレットはそっと頷いた。
しばらくして、馬車の速度が少しだけ緩んだ。
外から聞こえる音が変わる。
車輪の響き。
人の気配。
門の開く音。
ミュレットが窓のほうへ目を向けると、アランも視線を上げた。
「見えるか?」
「……はい」
遠くに、見慣れた石造りの城壁が見えていた。
クレスティアだった。
冬の気配を含んだ空の下、灰色の城壁は変わらずそこにある。
けれどミュレットには、前とは少し違って見えた。
冷たく厳しいだけの場所ではない。
あの夜、自分を抱き上げた腕の帰る場所。
そして今、自分が自分の意思で戻っていく場所。
城門が近づく。
兵たちの姿が見える。
旗が風に鳴る。
門の内側には、見知った石畳が続いていた。
ミュレットは無意識に、服の下の指輪へ触れる。
その指先の動きを、アランはたぶん見ていた。
けれど何も言わない。
ただ、離れていた手を今度はきちんと握った。
強くはない。
それでも、揺らがない手だった。
馬車が門をくぐる。
石の城の中へ、車輪の音が深く響く。
冷たいはずのその響きが、今日はひどく静かに胸へ落ちた。
帰ってきたのだ。
けれどそれは、かつてと同じ場所へ戻るという意味ではなかった。
失ったものを知らなかった頃の自分へ戻るわけでもない。
ただ、傷も迷いも抱えたまま、それでも前より少しだけ自分の意思で、この場所へ帰ってきたのだ。
それが分かるから、城の空は以前とは違って見えた。
馬車が止まる。
外では人の足音がして、扉の外に控える気配が整う。
それでもアランは、すぐには手を放さなかった。
「行こう」
「はい」
ミュレットは頷く。
扉が開く前のほんの一瞬、車内には二人きりの静けさが残っていた。
その静けさの中で、ミュレットは思う。
初雪の夜に抱き上げられたその腕の隣へ、今度は自分の足で戻っていくのだと。
そしてアランは、握った手をほんのわずかに引いた。
「帰ろう」
低く、静かな声だった。
けれどそのひと言だけで十分だった。
ミュレットは、今度こそ迷わず頷いた。
「はい」
馬車の扉が開く。
冬のクレスティアの空気が差し込む。
その冷たささえ、もう怖くはなかった。
二人は並んで、クレスティアへ戻った。




