Episode 71. かえろう
焼け跡に落ちた静寂を破ったのは、遠くから駆けてくる足音だった。
「殿下!」
「こちらです!」
「アラン様!」
複数の声が重なる。
振り向けば、回廊の向こうからリリナが走ってくるのが見えた。
その後ろにはエルニアの兵士たち。
さらに、アランが連れてきていたクレスティアの騎士たちの姿もある。
「リリナ……!」
その姿を見た瞬間、ミュレットの胸に張りつめていたものが少しだけほどける。
思わず、アランの腕の中から抜けようと身をひねった。
リリナのもとへ行きたかった。
次の瞬間、ぐい、と強く引き戻される。
「……っ」
アランの腕が、さっきよりもさらに強くミュレットを抱き込んだ。
「俺から離れるな!」
低いのに、焼けるような声だった。
その場の空気が、一瞬で止まる。
駆けつけてきた兵士たちも、
クレスティアの騎士たちも、
そしてリリナまでもが、わずかに目を見開いた。
ミュレット自身も、息を呑む。
アランは言ってから、自分の声の強さに気づいたようだった。
けれど、もう遅い。
腕だけは、少しも緩まなかった。
その呼吸は浅い。
いつもの静けさを取り戻しているようでいて、まだ全然戻れていないのだと分かる。
ミュレットはそっと顔を上げた。
アランの横顔は冷えている。
だが、その目の奥には、ついさっきミュレットを失いかけた男の恐怖が、まだ生々しく残っていた。
「……アラン様」
「……」
「リリナが」
「わかっている」
短い返答だった。
けれど、そのあとに続いた声は、ひどく低かった。
「離れるな」
まるで自分に言い聞かせるみたいな声音だった。
少し離れた場所で、リリナがその様子を見ていた。
息を切らせながら、それでも状況を一目で飲み込んだらしい。
「……ずいぶん取り乱してるじゃない、アラン・クレスティア」
皮肉のようでいて、声音は完全には軽くなかった。
アランは答えない。
ただミュレットを抱く腕だけが、なお強い。
リリナは焼け跡の惨状と、倒れた刺客たち、それから崩れた転移門の痕を順に見て、小さく息を吐いた。
「話はあと」
「まずその子を下がらせるわ」
「……」
「その顔で抱えたまま立ってても、周りが困るのよ」
そこでようやく、アランの腕がほんの少しだけ動いた。
離すためではなく、抱き直すために。
「医官を」
リリナが鋭く命じる。
「部屋をひとつ空けて、周囲を固めて」
「本邸の奥。窓の少ない部屋へ」
「近衛は二重に」
「外も中も、勝手に通すな」
兵たちが一斉に動き出す。
クレスティアの騎士たちも、アランの無言の圧を察したのだろう。
誰ひとり無駄口を叩かず、即座に周囲を固めた。
ミュレットはまだ、うまく息ができなかった。
リリナはその顔を見ると、ほんの一瞬だけ目をやわらげる。
「ミュレット」
「……」
「無事でよかった」
「……リリナ」
「今は、落ち着くことだけ考えなさい」
そう言ってから、リリナはあえて軽い調子を作る。
「安心しなさい」
「私はその男みたいに取り乱さないから」
その一言に、エルニア兵たちのあいだに、ほんのわずかな緊張が走った。
今の言葉を、この場で、その相手に向かって言えるのは、おそらくリリナだけだ。
クレスティアの騎士たちでさえ、一瞬だけ息を詰めた気配があった。
当のリリナはまったく意に介した様子もなく、
ただミュレットだけを見ていた。
その飄々とした態度のおかげで、張りつめきっていた空気が、ようやく少しだけ動いた。
それでも、アランはミュレットを離さなかった。
結局そのまま、ミュレットは焼け跡から連れ戻された。
本邸の奥まった一室。
火の匂いの届かない、木と薬草の匂いのする部屋へ。
外には近衛とエルニア兵が二重に立ち、
窓は閉められ、
今度こそひとりにはさせないと、部屋そのものが語っているようだった。
ミュレットの胸の内は、少しも落ち着かなかった。
脚の火傷はまだ痛む。
煙を吸った喉も、深く呼吸をするたびに熱を帯びる。
それでも、それ以上に苦しかったのは、焼け跡で起きたことそのものだった。
また狙われた。
黒い転移門が開いた。
帝国の手は、やはりここまで伸びてくる。
そしてアランは、また自分を助けるために現れた。
もう、何もかも言い逃れできない。
自分がいるだけで、争いは終わらない。
その思いが、さっきから胸の中で何度も同じ場所を刺していた。
ミュレットは、この部屋の寝台の脇に腰を下ろしていた。
膝の上へ揃えた手の先が、かすかに震えている。
自分でも、それを止められなかった。
「怪我はなさそう」
戸口のほうで声がした。
リリナだった。
足の傷はまだ完全には戻っていないはずなのに、いつものように立っている。
ただ、顔色だけが少し白かった。
「脚は痛むでしょうけど、命に別状はないって」
「……はい」
「喉もしばらく辛いでしょうけど、時間の問題」
「……」
「で」
リリナはそこで腕を組んだ。
「あの男は、もうあなたをここに置いて行けないと考えてる」
「……」
「当然よ。彼がいなかったら、あなたは今ごろどうなっていたか分からないもの」
ミュレットは返事ができなかった。
履き違えているのは分かっている。
それでも、自分を責めずにはいられない。
そんなミュレットを見て、リリナは少しだけ声を落とした。
「でも、ひとつだけ先に言っておくわ」
「……」
「あなたの力は、争いを呼ぶものじゃない」
「……っ」
ミュレットが顔を上げる。
リリナの目は、いつもの軽さを少し引いていた。
「特別で、この世に必要なものよ」
「……」
「奪いたがる馬鹿がいるからって、価値そのものが汚れるわけじゃない」
「……」
「そこ、取り違えないこと」
胸の奥が、小さく揺れた。
自分の力を、そんなふうに言われたことはなかった。
隠すべきもの。
狙われるもの。
災いの火種。
そういうものとしてしか見られないと思っていたから。
リリナはしばらくミュレットを見ていたが、やがて小さく息をついた。
「今回のこと、整理がついたらまた来る」
「……はい」
「あと」
「?」
「これから来る人に、変に意地張らないこと」
それだけ言って、リリナは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが落ちる。
そして、その静けさが落ち着くよりも早く、再び戸が開いた。
アランだった。
ミュレットの呼吸が、ひとつ浅くなる。
火の夜から、ずっとそうだ。
姿を見るだけで胸の奥が痛くなる。
うれしいのに、苦しい。
安心するのに、逃げたくなる。
アランは部屋へ入ると、戸口のところで一瞬だけ立ち止まった。
それから、ゆっくりとミュレットの寝台のそばまで来る。
そして、寝台に座るミュレットの目の前へ膝をついた。
見上げる形で目が合う。
逃げられない距離だった。
けれど、逃げ道を塞がれたとは思わなかった。
ただ、向き合わなければならないのだと分かった。
「身体は」
「……大丈夫です」
「そうは見えない」
「嘘は言ってません」
「大丈夫な顔ではない」
いつもの低い声だった。
静かで、容赦がない。
けれどその静けさの下にあるものを、ミュレットはもう知っている。
ミュレットは目を伏せた。
言わなければならないと思った。
今、言わなければ、もう一生言えない気がした。
「……やっぱり」
喉が少し痛む。
それでも続ける。
「やっぱり、私は……ここにいてはいけないんです」
アランの目がわずかに細くなる。
「エルニアに残るとか、帰るとか、そういう話じゃなくて」
「……」
「私がいるだけで、またこうなる」
「……」
「帝国も、ああいう人たちも、私を狙う」
「……」
「それに、アラン様まで巻き込んで」
そこまで言ったところで、アランが低く言った。
「違う」
たった二文字だった。
けれど、その声の強さにミュレットは思わず息を止める。
そのまま、アランは膝の上で硬く握られていたミュレットの手に、自分の手を重ねた。
「ミュレットがいるから、争いが起きるわけではない」
「……でも」
「違う」
「でも現に」
「現に、狙う者がいる」
アランは言葉を継いだ。
「だがそれは、ミュレットが悪いからではない」
「……」
「ミュレットがいなくなれば、すべてが終わるわけでもない」
「……」
「争いは、そんなに都合よくひとりへ背負わせられるものではない」
正しい。
正しいのだと、頭では分かる。
そして、アランがそう言う理由も分かる。
この人は戦ってきた。
守るために斬り、失うものを見てきた人だ。
だからこそ、本質を見誤らない。
でも、怖いものは怖かった。
「それでも」
ミュレットは震える声で言う。
「それでも、私がいなければ、少なくとも」
「少なくとも?」
問い返す声は静かだった。
逃がさない声だった。
「……」
言葉が続かない。
少なくとも。
自分がいなければ。
自分さえいなくなれば。
そこまで思っているわけではないと否定したいのに、
胸の奥のどこかでは、たしかにそれに近いものが息づいている。
ミュレットの手を握るアランの手の力が、わずかに強くなる。
「言うな」
低く落ちる。
今まで聞いたどのアランの声よりも、深く、強かった。
「……っ」
ミュレットは目を見開く。
アランの眼差しはまっすぐだった。
強い意志を宿した瞳が、ミュレットから逸れない。
逃げ道を塞ぐような動きではない。
けれど、その眼差しだけで十分だった。
「その先を言うことは許さない」
「……」
「考えることも許さない」
「……っ」
「ミュレットが、そうやって自分を切り捨てることを、俺は認めない」
喉が震える。
叱られたわけではない。
でも、あまりにも真っ直ぐで、強くて、胸の奥のいちばん脆いところへ届いてしまう。
「……でも」
「だめだ」
「……」
「だめだ、ミュレット」
その呼び方だけで、涙が出そうになる。
「母は、自分で命を断ちました」
ミュレットの声は、ひどく小さかった。
それでも、その場の空気を変えるには十分だった。
アランの目が、わずかに揺れる。
ミュレットはもう止められなかった。
ぽろぽろと涙を零しながら、途切れ途切れに言葉をこぼす。
「今なら、私は分かります」
「……」
「愛する父を残して、死んだ母の気持ち」
「……」
「残される方がどれだけ苦しいかも、分かっているはずなのに」
「……」
「それでも、いなくなりたいと思ってしまうほど、どうしようもなく苦しくなる気持ちが」
嗚咽で息が詰まる。
「アラン様には、わからない……っ」
最後は、泣き崩れるみたいな声だった。
「私なんかがいるから」
「……」
「傷を癒しても、なのに誰かが傷ついて」
「……」
「それでもここにいたいなんて、思ってしまう自分が」
「……」
「もう、いやなんです……っ」
アランはすぐには言葉を返さなかった。
ただ、ミュレットを見ていた。
その涙も、震える肩も、全部を真正面から受け止めるように。
やがて、低い声が落ちる。
「分からないと、決めつけるな」
ミュレットが息を呑む。
アランは少しだけ目を伏せ、それから再びミュレットを見た。
「俺は王太子だ」
「……」
「俺の存在が、立場が、ミュレットを苦しめていることは分かっている」
「……」
「泣かせることも、怖がらせることも」
「……」
「すべての自由を奪うことも、分かっている」
「……」
「だが、それでも」
そこで一度、アランは言葉を切った。
飲み込むように息をして、
ようやく、低く続ける。
「それでも、ミュレットをここに置いて帰ることはできない」
ミュレットは息を呑む。
「今ここで残して帰れば」
「……」
「次に何が起きる」
「……」
「また奴らが来る」
「……」
「ミュレットはそれでいいのか」
その声には、怒りよりも深いものがあった。
決意だった。
ミュレットはようやく気づく。
この人は、愛していると言うだけではない。
守ると言うだけでもない。
本当に、そのための覚悟ごと抱えてここへ来ている。
自分は巻き込みたくなくて逃げる。
でもアランは、巻き込む覚悟を含めて、それでも手を離さない。
その重さに、ミュレットの心が揺れる。
「……アラン様は」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱かった。
「どうして、そこまで」
「……」
「私に、やさしくするの?」
その瞬間、アランの表情が少しだけ変わった。
怒りでもない。
呆れでもない。
痛みに近いものだった。
「ミュレット」
低く、静かに呼ばれる。
「“私なんか”とまた考えている」
「……」
「……皆曰く、俺は分かりやすいらしい」
「……」
「ミュレットはそう思わなかったか?」
部屋の空気が止まる。
ミュレットは目を見開いた。
分かっていた。
アランが自分に向ける視線も、
わずかな声音の違いも、
食事や体調を気にかける手つきも、
何度拒んでも、見ないふりをしても、それでも止まらないやさしさも。
本当は、ずっと分かっていた。
分かっていたのに、気づかないふりをするしかなかった。
隠していることがあったから。
答えてしまえば、戻れなくなると分かっていたから。
どうしても突き放したかった。
だから、恋人でもないのに——と、言ってしまった。
あの日からなおのこと、アランは止まらなかった。
拒まれても、
避けられても、
見ないふりをされても、
そのたびに少しだけ苦しそうな顔をして、それでも手を離さなかった。
どうしようもなかった。
「ミュレットの力には、確かに驚いたが」
アランは、ミュレットが一人で外へ出て、帰ってきた日を思い出しながら言った。
「……ミュレットが、一人で馬に乗って出かけた日」
「……」
「あの時からもう腹に決めている」
「……」
「何が起きても、俺がミュレットをどれだけ苦しめても、俺は……」
「……」
「それでも、俺はミュレットを愛している」
胸が、音を立てた気がした。
逃げられない。
もう、何も。
「ミュレットは違うのか?」
その問いだけが、静かに落ちる。
違うはずがない。
違うと言えるなら、こんなに苦しくない。
指輪を首に下げたまま、こんなところまで来たりしない。
炎の夜も、意識を失う直前まで、あの人の腕の中であんなに安堵したりしない。
「こんな、不器用な俺では、嫌だろうか」
涙がにじむ。
こぼれる。
「……ちが、わない」
ようやくそれだけ言うと、もう止められなかった。
ミュレットは顔を伏せたまま、嗚咽をこぼす。
「わたし、は」
「……」
「アラン様を、愛しています」
愛してしまいました、ではなかった。
もう取り返しのつかない過去形ではなく、
今も続いている言葉だった。
愛しています。
そう言った瞬間、自分の中で何かが決定的に変わるのが分かった。
アランはしばらく何も言わなかった。
次の瞬間、ミュレットの頬へそっと手が触れる。
今度は拒まなかった。
拒めなかった。
その手は、あたたかかった。
「……かえろう」
あまりにもやさしい声だった。
ミュレットは泣いたまま顔を上げる。
アランは、ほんの少しだけ微笑んでいた。
あの、ミュレットが何度も救われてきた微笑みだった。
「クレスティアへ」
その言葉に、胸の奥が一気にほどける。
帰りたい。
帰ってよかったのだと、初めて許された気がした。
大好きなその微笑みを見ながら、ミュレットは涙を零し続けた。
そして、ようやく頷く。
「……はい」
その返事は、小さかった。
けれど、確かだった。
帰ろう。
逃げるためではなく。
罰するためでもなく。
愛されていることを、
やっと受け取るために。
木の香りのする異国の部屋で、
ようやくふたりのあいだに残っていた最後の距離だけが、
静かに、確かに、消えていった。




