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Episode 70. 焼け跡の手



出立の日の朝は、よく晴れていた。


初雪のあとの空は澄みきっていて、焼け跡の黒をいっそうはっきり浮かび上がらせる。

エルニアの御殿では、クレスティア側の者たちが静かに動き、帰還の支度が着々と進められていた。


馬のいななき。

従者たちの足音。

文書の受け渡し。

別れの朝にふさわしい忙しさが、御殿のあちこちを満たしている。


アランは回廊の一角で、エルニアの重役たちと最後の確認をしていた。


本来なら、すでに出立していてもおかしくない刻限だった。

だが、反乱直後の王宮は混乱が残っており、出立前に詰めておくべきことが予想以上に多かった。


残党処理の範囲。

第三王女派の追跡。

王都へ送る文書。

同盟協議の初期手順。

クレスティア側の護衛と帰路の安全確認。

エルニア側との連絡経路の最終調整。


どれも必要な話だった。

ひとつとして疎かにできない。


予定は、大幅に押していた。


それでも、思考の奥には別のものが引っかかっていた。


ミュレットが残ると言ったことだ。


あれは、ただの拒絶ではない。

逃げでもない。

帰りたい、だが帰るのが怖い。

そばにいたい、だが、それを選んでいいのか分からない。

その揺れの果てに、エルニアに残るという形が、いまの彼女には必要だった。


頭では理解している。


だから否定しなかった。

軽々しく連れて帰るとも言わなかった。


だが、納得していたわけではない。


ふと視線を上げる。


回廊の向こうに、ミュレットの姿があった。


火傷の痛みがまだ残っているのだろう。

歩幅は狭く、動きも慎重だ。

それでも、自分の足で立っている。

こちらに気づいているのかいないのか、陽の差す先で一瞬だけ顔がこちらへ向いた。


呼び止めたい衝動が、喉元まで上がる。


帰るぞ、と。

今度こそ一緒に連れて帰る、と。

そう言ってしまえればどれほど楽か。


だが、それを言えば彼女は苦しむ。

昨夜、そう分かってしまった。

答えを持てないままの相手に、手だけ差し出すことはできない。


「……以上だ」


アランは視線を戻した。


「出立後は、こちらの案に従って動け」

「承知しました」

「不測の事態があれば、クレスティアへ急使を」

「はっ」


返事を受けながらも、意識の一部は別のところにあった。


見ているつもりだった。

見ていたはずだった。


だが、次に視線を向けた時には、もうミュレットの姿がなかった。


アランの目が止まる。


「殿下?」


側近が怪訝そうに声をかける。


アランは答えない。

回廊の先。

人の流れ。

窓辺。

柱の陰。


いない。


胸の奥に、嫌な冷たさが走った。


理屈ではない。

戦場で、見えていたはずの何かが不自然に欠けた時の感覚だった。


「……ミュレットを見たか」


近くの侍女がはっと顔を上げる。


「い、いえ……先ほどまで、あちらに」

「いつだ」

「少し前、で……」


遅い。


侍女が言い終わる前。

アランはもう踵を返していた。


足の悪い彼女がひとりで行ける範囲。

人の流れから外れやすい場所。

静かになれるところ。

そして、いま人があまり近づかない場所。


焼け跡。


その考えに至った瞬間、走っていた。


「殿下!」

背後で誰かが呼ぶ。

だが止まらない。


焼け落ちた一角は、まだ火と灰の匂いを残していた。

炭になった柱。

崩れた梁。

初雪の名残が、その黒の上へわずかに白を置いている。


その中に、ミュレットがいた。


――いや、正確には、黒い転移門へ引きずり込まれかけていた。


焼け跡の中央、崩れた柱のそばで、ミュレットは足をもつれさせるようにして膝をついていた。

背後には、黒い転移門が開いている。


空間そのものが裂けたような、縦に走る不気味な闇の裂け目だった。

煙のように輪郭が揺れ、燃えた結界の残骸に無理やり干渉してこじ開けたような、不安定な門。


その闇の内側から、黒い手が何本も伸びていた。


人の手の形をしている。

だが生身ではない。

闇の魔力を凝固させた拘束術――門の中から術者の意志で伸ばされ、獲物を掴んで引きずり込むための魔法だ。


一本はミュレットの口元を強く塞ぎ、

一本は肩を押さえ込み、

さらに別の手が腰と腕へ絡みつくように食い込んでいる。


逃がすまいとするように、黒い指が衣服へ深く沈み込み、じりじりと彼女の身体を後ろへ引いていた。


ミュレットは声も上げられないまま、その場に踏みとどまろうとしていた。

だが火傷の残る足では踏ん張りきれない。

片足が焼けた床を擦り、身体が少しずつ、確実に黒い門のほうへ引かれていく。


門の外に出ているのは黒装束の刺客が三人。

ひとりは短剣使い、もうふたりは細身の剣を持っている。

転移門のそばには、明らかに格の違う男が立っていた。


灰銀の髪を後ろで低く束ね、右目の下に斜めの傷。

黒と深紅を重ねた帝国式の長外套。

左耳には細い金鎖の飾り。

焼け跡の中で、その整いすぎた白い手袋だけが不気味に浮いて見えた。


幹部だ、とアランは即座に判断した。


同時に理解する。


敵は、アラン・クレスティアがすでに出立したあとの空白を狙ったのだ。

王宮の混乱に紛れ、護衛の薄くなる瞬間だけを抜き取るつもりだったのだろう。


だが、出立は押していた。

エルニア側との最終調整が長引き、アランはまだ王宮を離れていなかった。


そのわずかな誤算が、いまミュレットの生死を分けている。


遅かった、と思うより先に身体が動いていた。


「放せ……!」


低い声が落ちる。


一番近くにいた短剣の刺客がこちらを向く。

間合いに入る。

アランは剣を抜かない。


踏み込みざま、拳を叩き込む。


骨の砕ける感触があった。

男の身体が焼けた床へ吹き飛ぶ。


転がった短剣を拾う。


次に狙うのはミュレットではない。

門から伸びる黒い手だ。

あれを一瞬でもミュレットから引きはがす。


アランはためらわず短剣を投げた。


短剣はミュレットそのものではなく、口元を塞ぐ黒い手へ向かって飛ぶ。

黒い手が反射的にそれを弾く。

きん、と高い音が響いた。


その一瞬で十分だった。


同時に、幹部格の男へ向けて光刃を走らせる。


白金の魔法陣が空中に幾重にも開き、そこから細い光の刃が射出される。

アランの光魔法は、単なる眩しさではない。

切断と貫通に特化した、硬質な攻撃魔法だ。


男は炎をまとった腕でそれを防ぐ。


炎は盾代わりだった。

拳大の火球ではない。

腕そのものへ焔を巻きつけ、衝撃を受け流す近接防御型の火属性魔法。


見切りは早い。

だが完全には受けきれていない。

外套の裾が裂け、片袖が焼ける。


その隙に、足元へ転移魔法陣を走らせる。


一歩で間合いを消し、ミュレットのすぐそばへ移動する。

剣閃はひとつ。


狙うのは、黒い手だけ。


深く斬る必要はない。

彼女を離させればいい。

必要なだけ、正確に断つ。


黒い手が震え、ようやくミュレットの身体から離れた。


そのまま、強く引き寄せる。


「……っ!」


腕の中へ収まった瞬間、ミュレットの足から力が抜けた。


遅れれば、そのまま門へ引き込まれていた。


そう思った瞬間、胸の底がひやりと冷えた。


幹部の男が踏み込んでくる。


炎をまとった拳。

顔面狙い。

速い。

だが読める。


後方へ飛び退く。


炎の拳は空を切り、そのまま地面を殴るだけで終わった。

砕けた床板が爆ぜ、火花と黒い木片が散る。


男の目が変わる。


勝てない。

奪えない。

この場では消耗するだけだと、すでに見切っている目だった。


「撤退だ!」


命令が飛ぶ。


だが、遅い。


残った二人――細身の剣を持つ刺客たちを囲むように、白金の防壁を立ち上げる。


防壁は壁というより、透明な箱だった。

内側からは破りにくく、外からの攻撃も通しにくい。

封じ込めるための結界魔法である。


幹部は即座に判断した。

見切りは悪くない。


だが、残りは逃がさない。


二人の刺客が防壁を叩く。

破れない。

その顔に浮かぶ焦りを、アランは無表情で見た。


「くそっ」

「破れ!」

「間に合わ――」


最後までは言えなかった。


アランが片腕でミュレットを抱いたまま、もう一方の手を上げる。


「目を閉じろ」


そう言ったが、彼女が閉じられたかどうかは見なかった。


防壁の内側へ、無数の光刃を展開する。


細く、鋭く、静かで、美しい。

それなのに、容赦は一切いらない。


指先をわずかに動かす。


次の瞬間、光が一斉に降った。


悲鳴は短かった。

血飛沫さえ焼き切るような殲滅。

防壁の内側を白が満たし、光が引いた時には、もう二人とも立っていなかった。


その間に、幹部は黒い転移門の縁へ身を沈めている。


最後に一度だけ振り返った。


「……噂以上だな、アラン・クレスティア」


アランは答えない。


男は薄く口元を歪めた。


「次は、こうはいかない」


黒い門が閉じる。

悲鳴のような音を立て、不安定な裂け目ごと崩れた。


静寂が戻る。


その時ようやく、腕の中の震えが伝わってきた。


ミュレットだ。


「アラン様……」


かすれた声だった。

それだけで、胸の内側を直接掴まれたような気がした。


アランは何も言えなかった。


怒りがある。

焦りもある。

恐怖もある。


もし数分遅れていたら。

もし気づかなかったら。

もし焼け跡へ向かう発想がわずかに遅れていたら。


考えたくもない結末が、いくつも脳裏をかすめる。


ようやく助けた。

ようやく取り戻した。

それなのに、出立の朝に、こんな形でまた奪われかけた。


腕に力が入る。


ミュレットが小さく息を呑んだ気配がした。

それで我に返る。

強く抱きしめたい衝動と、火傷した足に響かせたくない理性が、内側で激しくぶつかった。


ここには、もう置けない。


その結論だけが、鮮やかに残った。


残るという選択を尊重する。

軽々しく決めさせない。

答えを急がせない。

泣かせたくない。

苦しめたくない。


それが、今まで自分が守ろうとしてきた優しさだった。


そんな理屈は、ついさっきまでの話だ。


出立が押していなければ、自分はもうここにはいなかった。

あと少しでも予定どおりに進んでいれば、ミュレットはあの黒い門の向こうへ消えていた。


次も同じ誤算が起きるとは限らない。

次も間に合う保証は、どこにもない。


今回助かったのは、間に合ったからだ。

次も間に合う保証は、どこにもない。


このまま残すことは、もう尊重ではない。

ただ、失う可能性を見て見ぬふりをすることだ。


たとえミュレットが泣いてもいい。

怯えさせても、責められても、恨まれても構わない。

それでも、生きていてくれるほうがいい。


エルニアに残す。

自分は帰る。

その選択肢が、もう成り立たない。


ミュレットは腕の中で、まだ震えている。


アランは視線を落とした。


服の下、細紐に通された指輪が、かすかにそこにある。

離れていたあいだも、手放していなかったもの。

置いていけなかったもの。


焼け跡の匂い。

晴れすぎた朝の光。

閉じた黒い門の残滓。


その中で、アランは何も言わなかった。


何を言っても足りなかった。

怒りも、叱責も、安堵も、いま口にするには遅すぎる。


ただ、抱く腕だけは離さない。


ここには、もう置いていけない。


その確信だけが、言葉にならないまま、アランの中で静かに決定へ変わっていた。



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