Episode 69. 残るという答え
ミュレットが目を覚ましてから、三日が過ぎた。
まだ長く話すことはできない。
喉はすぐに掠れ、少し声を出すだけでひりつく。
脚の火傷も痛みが強く、寝台から起き上がるだけで息が詰まった。
だから会話は短かった。
「熱は」
頷く。
「食事は少しでも取れたか」
頷く。
「痛みは強いか」
少し迷ってから、頷く。
「息苦しさは」
首を振る。
そんなふうに、問いに頷き、首を振るだけのやり取りが続いた。
それでもアランは、一日のうちできるだけ何度も部屋へ来た。
朝。昼。夜。
最低でも三回。
それ以上来る日もあった。
公務の合間を縫っているのだと分かる足取りだった。
長くはいられない。
それでも必ず顔を見に来る。
入ってきて最初に顔色を見て、喉の具合を確かめて、脚の手当ての様子を医師に聞く。
それから、無理をするなと短く言い置いて、また出ていく。
その繰り返しだった。
短い。
本当に短い。
なのに、その短さが、かえってミュレットには胸に残った。
来てくれる。
今日も。
また次も。
その事実だけで、痛みの底へ沈みかける心が、かろうじて浮き上がる。
三日目の昼すぎ、部屋には誰もいなかった。
侍女は薬を取りに出ている。
窓辺の卓には水差しと茶器。
寝台の脇には、読みかけの本が一冊置かれていた。
喉が渇いていた。
呼べば誰かが来ると分かっている。
それでもミュレットは、ほんの少しだけなら、と身体を起こした。
背を上げる。
腕で支える。
寝台の縁へ腰をずらす。
そこまではよかった。
片足を床につけ、立ち上がろうとした瞬間、火傷のある脚に鋭い痛みが走った。
「あ……っ」
力が抜ける。
立てない。
床へ膝をつくより先に、身体が崩れた。
寝台の脇へへたり込み、咄嗟に手をついたせいで、今度は指先までじんと痛む。
息を吸った瞬間、喉も焼けた。
「っ……」
情けなさで、目の奥が熱くなる。
その時だった。
扉が開く。
「ミュレット?」
低い声が落ちた。
顔を上げると、アランが立っていた。
一瞬、目が止まる。
それから次の瞬間には、もうこちらへ来ていた。
「何をしている」
怒鳴る声ではない。
むしろ低すぎて、余計に怖い。
ミュレットはうまく答えられない。
水を取りたかっただけだと言おうとしても、喉が先に痛んだ。
「み、ず……」
「水……?」
アランはミュレットのそばで片膝をつく。
視線が落ちる。
崩れた姿勢。
痛みで動けなくなった脚。
届きもしない卓の上の水差し。
全部見られたのだと分かって、ミュレットはますます言葉を失う。
「なぜ人を呼ばない」
「……」
「……声が出ないのは、分かっているが」
責めたいわけではない。
そう言いたいのに、うまく言葉にできない。
腹立たしいのは、無茶をしたことより、痛がっているのを見てしまったことのほうなのだと、その口調に滲んでいた。
アランはそれ以上言わなかった。
ただ、背と膝の裏へ腕を差し入れる。
「え」
「動くな」
そのまま、軽々と抱き上げられた。
床が遠ざかる。
驚く間もなく、熱の残る身体がアランの腕の中へ収まる。
咄嗟に、ミュレットの指がアランの服を掴んだ。
「……っ」
「無理はするなと言っている」
「……」
「水くらいで立つな」
低い声だった。
怒っている。
間違いなく怒っている。
それでも、抱き上げる腕はひどく慎重だった。
火傷した脚に響かないように。
喉に負担がかからないように。
揺らさないように。
寝台へ戻される。
そのあとでアランは、自分で水を注ぎ、茶器を持ってきた。
片手でミュレットの背を支え、もう片方でそっと器を寄せる。
「少しずつ飲め」
一口飲むだけで喉が痛い。
それでも、さっきまでの乾きは和らいだ。
アランは茶器を受け取り、しばらく何も言わなかった。
だがその沈黙には、不機嫌さよりも安堵が強く滲んでいた。
本気で心配したのだと、言われなくても分かった。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声でそう言うと、アランは小さく息を吐いた。
それから、ミュレットの顔をじっと見る。
ミュレットは首をわずかに傾げた。
どうしたのだろうと問う前に、アランがひどく静かな声で言う。
「もっと、声が聞けたら……」
その声は、いつもよりずっと低く、切実だった。
次の瞬間、アランの手がそっと頬に触れる。
熱を確かめるように。
安心するみたいに。
そしてそのまま、髪をゆっくり撫でる。
あまりにもまっすぐな表情と声に、ミュレットははっとして目を伏せた。
声はまだ、出せない。
「ミュレット?」
名を呼ばれて、顔を上げる。
目が合う。
アランは微笑んでいた。
ほんの少しだけ。
けれど、たしかに安堵した顔だった。
――こんなところに、アラン様がいる。
それは決して望んではいけないことなのに。
ここに彼がいることを、ミュレットは喜んでしまっていた。
その日からさらに三日が過ぎた。
目覚めてから六日目。
脚の痛みはまだ消えない。
喉も本調子ではない。
それでも、ゆっくりなら歩けるようになっていた。
壁に手を添え、侍女に見守られながら、短い距離を行ったり来たりする。
数歩ごとに止まり、息を整え、また進む。
それだけのことが、今はひどく遠いことのように思えた。
その日も、回廊へ出る手前で休んでいた。
窓辺の木枠へ手を置き、浅く息をつく。
外には、冬の白い光。
庭の枝先には初雪の名残がうっすら残っている。
「……無理はするなと言っているのに」
背後から声がした。
振り向くと、アランだった。
いつの間に来たのか分からなかった。
ただ、その表情は案の定、面白くなさそうだった。
「歩く練習、です」
「部屋からもうかなり離れている」
「医師にも、少しずつならと」
「少しの距離ではない」
ミュレットは思わず口をつぐむ。
たしかに、思ったより疲れていた。
顔色も、たぶん良くないのだろう。
アランはため息をつくように息を吐くと、迷いなく近づいてくる。
「座れ」
「まだ大丈夫です」
「だめだ」
「……」
「座れ」
ほとんど有無を言わせない声だった。
近くの長椅子へ座らされる。
そのまましばらく顔色を見られ、脈を取るように手首へ指先が触れた。
「疲れている」
「疲れては……」
「信用できない」
いつもの調子だった。
ミュレットは少しだけ口元をゆるめる。
それを見たアランの目が、ほんのわずかにやわらいだ。
短い沈黙のあと、アランが低く言う。
「……二日後に戻る」
「え」
ミュレットは顔を上げた。
「クレスティアへ」
「……」
「エルニア側の体制も整う。残党処理は続くが、王とリリナで回せるところまできた」
「……そう、ですか」
そう返すだけで精いっぱいだった。
二日後。
思っていたより、ずっと早い。
胸の奥がすうっと冷える。
アランはミュレットを見ていた。
まっすぐに。
何かを待つように。
ミュレットはその意味を分かってしまって、余計に何も言えなくなった。
言えばいいのだろうか。
一緒に帰りたいと。
連れて行ってほしいと。
でも、その先を思うと言葉が喉で止まる。
帰りたい。
そばにいたい。
だが、それでいいのか分からない。
またあの城へ戻って、自分は何として立てばいいのか、答えを持っていない。
沈黙だけが落ちる。
アランはわずかに視線を伏せた。
ミュレットは言えなかった。
「……体調を見て、無理のないように過ごせ」
アランが先に口を開く。
「はい」
「二日だ」
「……はい」
それだけだった。
クレスティアへ戻る。
その話は出た。
なのに、“一緒に”という言葉だけは、最後まで落ちなかった。
アランの目に、わずかな苛立ちにも似た、もどかしさが沈んでいるのを見てしまって、ミュレットの胸はさらに苦しくなる。
その翌朝。
リリナは朝の茶を口にしながら、あっさりと言った。
「じゃあ、エルニアにいればいいじゃない」
ミュレットは目を瞬いた。
「……え」
「帰るか帰らないかで苦しいんでしょう」
「……」
「なら、今すぐ決めなきゃいい」
「……」
「ここに残ればいいわ」
あまりにも当然のような口ぶりだった。
「でも」
「私の侍女、足りてないのよ」
「……」
「あなた、仕事できるし」
「……」
「何より、ここにいてくれたら私が助かる」
軽い調子だった。
だが、冗談ではないとすぐに分かった。
リリナは茶器を置く。
「今すぐクレスティアへ戻って、全部答え出せるの?」
「……」
「出せないでしょ」
「……はい」
「じゃあ、ここにいればいい」
短かった。
前のように、あれこれ言葉を重ねなかった。
それがかえって、ミュレットにはやさしく響いた。
ここに残る。
クレスティアへ帰るのでもない。
答えを出すのでもない。
いったん、ここで立ち止まる。
それは逃げのようでいて、少なくとも今の自分を壊さずに済む道でもあった。
ミュレットは長く息を吐いた。
「……いいの?」
「私がいいって言ってるの」
「……」
「役目も作る。部屋もそのまま使っていい」
「……」
「だから、残ればいい」
ミュレットは目を伏せた。
胸のどこかが、ふっと軽くなる。
残っていい。
そのひと言は、思っていた以上にやさしく響いた。
「……一度」
小さく言う。
「一度、そうしてみたいです」
「うん」
リリナは満足そうに頷いた。
「それでいいわ」
昼前。
その話は、驚くほど早くアランの耳に入った。
ミュレットが回廊の窓辺で少し休んでいると、速い足音が近づいてくる。
振り向く間もなく、低い声が落ちた。
「本当に残るのか」
アランだった。
息が少しだけ上がっている。
ここまで急いで来たのだと分かる。
ふだんは整いすぎるほど整っている人なのに、その時ばかりは静かな焦りが隠せていなかった。
「……アラン様」
「答えろ」
「……」
「エルニアに、本当に残るつもりか」
ミュレットは目を見開いた。
ここまで真っ直ぐに聞かれるとは思っていなかった。
もっと静かに、もっと遠回しに来ると思っていた。
だがアランには、回り込む余裕がなかったのだろう。
ミュレットは、そっと頷いた。
「……はい」
「リリナに言われたからか」
「それもあります……けど」
アランの目が、まっすぐに自分を射抜く。
逃げられなかった。
「本当は、帰りたいです」
ミュレットは小さく言った。
「……」
「でも、帰るのが怖い」
「……」
「そばにいたいけど」
「……」
「いてはいけない気もするから」
アランは黙って聞いていた。
ミュレットは続ける。
「だから、ここに残れば」
「……」
「楽になれると思って」
「……」
沈黙が落ちる。
風が回廊を抜ける音だけが、遠く静かに聞こえた。
やがてアランが、ゆっくりと言う。
「……そうか」
「……」
「それが、いまの本音か」
「……はい」
今度は、ちゃんと頷けた。
帰りたい。
でも怖い。
だから、残ることに少し救われた。
その形でなら、嘘ではなかった。
アランはしばらく黙っていた。
その沈黙が、何より苦しい。
止めてほしいのか。
止められたくないのか。
自分でも分からないまま、ただその答えを待ってしまう。
やがてアランは、低く言った。
「分かった」
「……」
「ミュレットがそう決めるなら」
その言葉に、ミュレットはほっとした。
同時に、胸のどこかが少しだけ冷えた。
止めない。
それは尊重だ。
分かっている。
見捨てられたわけでもない。
むしろ、その逆なのだろう。
それでも、何か別の言葉を待っていた自分がいた。
「だが」
アランの声が続く。
「身体が戻るまでは無理をするな」
「……はい」
「二度と、燃える建物へ飛び込むな」
そこだけは、いつものアランだった。
少しだけ可笑しくて、少しだけうれしい。
ミュレットは小さく笑う。
アランの目が、ほんの少しだけやわらいだ。
だが、そのやわらかさはすぐに消える。
帰らなければならない。
連れて帰りたい。
それでも今は、そう言えない。
そのもどかしさごと飲み込んだ顔だった。
「二日後に発つ」
アランが言う。
「……はい」
「怪我が治るまで、必ず安静にしろ」
「はい」
もう会話は終わりらしい。
アランが踵を返す。
その背を見ているだけで、胸の奥が急に空っぽになりそうだった。
「……アラン様」
思わず呼ぶと、足が止まる。
「何だ」
「……」
その先が出てこない。
帰らないで、でもない。
一緒にいて、でもない。
クレスティアへ連れて帰って、でもない。
何を言えばいいのか分からない。
結局、ミュレットは小さくお礼を言う。
「……ありがとうございます」
「……ああ」
それだけで、アランはまた歩き出した。
回廊に残ったのは、木の香りと、遠ざかる足音だけだった。
ミュレットはその場でしばらく立ち尽くす。
エルニアに残る。
ここで役目を持って生きる。
そう決めたのだ。
それなのに心のどこかではまだ、明日になっても、あの人が振り返ってくれることを、愚かなほどに願ってしまっていた。




