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Episode 68. 目覚めの先



最初に戻ってきたのは、痛みだった。


喉が焼けるようにひりつく。

脚の奥がずきずきと脈打つ。

身体はひどく重く、寝台へ沈み込んだまま、指先ひとつ動かすのにも時間がかかった。


次に匂いが戻る。


薬草。

湯気。

少し苦い煎じ薬の名残。

火の匂いはもう薄れていて、代わりに冬の朝の冷えた空気が、窓の隙間からかすかに入り込んでいた。


ミュレットはゆっくりと目を開けた。


見慣れない天井だった。

木の梁。

淡い布。

エルニアの御殿の一室だと分かるまで、少し時間がかかった。


炎。

雪。

レオルド。

追手。

雷。

それから――アランの腕。


そこまで思い出した瞬間、胸がひとつ大きく鳴る。


だが次に浮かんだのは、安堵ではなかった。


……もう、帰ってしまわれたのだろうか。


あの人はクレスティアの王太子だ。

敵国の内乱がひとまず収まれば、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。

助けに来てくれた。抱き止めてくれた。

でも、それはあの炎の夜までのことで、もう戻ってしまったのではないか。


そう考えた途端、喉の痛みとは別の苦しさが胸へ広がった。


起き上がろうとして、すぐに顔をしかめる。

脚に鈍い痛みが走り、喉がひどく軋んだ。

肩を浮かせるだけで精いっぱいで、結局、身体は寝台に沈んだままだった。


「……っ」


小さな音に気づいたのか、窓辺で薬を整えていた侍女が振り返った。


「ミュレット様」


すぐに近づいてくる。


「お目覚めになりましたか」

「……」


返事をしようとしても、声がうまく出ない。

息にかすれた音が混じるだけだった。


「無理にお話しなさらないでください」

侍女はやさしく言う。

「すぐにお呼びします」


静かに部屋を出ていく足音を、ミュレットはぼんやり聞いていた。


眠っていたのは、どのくらいなのだろう。

反乱は。

王は。

リリナは。

そして、アランは。


次に入ってきたのは、リリナだった。


脚を引きずるほどではないが、歩みはいつもよりずっと遅い。

顔色も良いとは言えない。

それでも、その目はしっかりとミュレットを捉えていた。


「起きたのね」


寝台のそばへ来るなり、そう言う。


ミュレットは身体を起こそうとして、またわずかに顔をしかめた。

それだけで脚が痛む。

喉も熱い。

結局、横たわったまま視線だけを向ける。


「……」

「二日」

「……?」

「あなたが眠ってた時間よ」


ミュレットはわずかに目を見開いた。


二日。


そんなに長く眠っていたのかと思うと、急に時間の感覚が曖昧になる。

炎の夜が、ついさっきのことのようでもあり、ずっと昔のことのようでもあった。


リリナは椅子を引いて腰を下ろした。


「顔色はまだよくないわね」

「……」

「まあ、すぐぴんぴんされたら怒るけど」


ミュレットは、かすれた息でようやく言葉を作る。


「……王、は」


喉が痛い。

それでも、それを聞かずにはいられなかった。


リリナは少しだけ表情をやわらげた。


「生きてるわ」

「……」

「ちゃんと、生きてる」

「……」


その一言を聞いた瞬間、胸の奥で凍っていたものがようやく少しだけほどけた。


助かったのだ。


あの時、使ってよかったのか、使わないほうがよかったのか。

目を閉じているあいだも、たぶん夢の底でずっと揺れていたその問いが、少しだけ静まる。


ミュレットは目を閉じた。


泣きたいわけではないのに、まぶたの裏が熱くなる。

声を出せない代わりに、息だけが小さく震えた。


「……わたし」

「いま謝るのは禁止」

リリナがすぐに言った。

「……」

「起きたばっかりの人間が、最初にやることじゃないわ」

「……」

「分かった?」


ミュレットは小さく頷いた。


少し沈黙が落ちる。


リリナは、その頷きを見届けてから続けた。


「反乱は鎮圧された」

「……」

「第二王女は拘束。第三王女は逃げた」

「……」

「正殿はあの通り焼けたけど、王宮は持ち直してる」

「……」

「だから、ひとまずは大丈夫」


その“ひとまず”の重さが分かった。


全部は終わっていない。

それでも、あの夜の最悪は越えたのだ。


ミュレットはそっと、自分の喉へ触れた。

包帯の下の脚にも、かすかに意識を向ける。


治せるのに。


そう思った瞬間、また少しだけ苦くなる。


それに気づいたのか、リリナが首を傾げた。


「……自分の傷は治せないの?」


ミュレットは、しばらく答えられなかった。


そう訊かれるのは、初めてではない。

ただ、こうして真正面から、ただ不思議そうに聞かれると、逆に説明しづらい。


「……」


声を出せない代わりに、静かに頷く。


「……そう」


喉が痛む。

ミュレットは視線を落とす。


自分の怪我だけは、治せない。


それは、自分でも時々残酷だと思う。


他人の血は止められるのに。

他人の傷は閉じられるのに。

自分の喉の痛みも、焼けた脚も、自分では癒せない。


まるで、その力が最初から“自分を救うため”には与えられていないようで。


リリナは少しだけ目を細めた。


「……嫌な力ね」

その言い方には、同情より先に腹立たしさがあった。

「……」

「人を救うための力なのに、自分だけ蚊帳の外なんて」

「……」

「ほんと、神様って趣味悪いわ」


その言葉が、少しだけ可笑しくて、少しだけ救われた。


リリナはそこで、ふっとミュレットを見た。


「で」

「……」

「何を聞きたいの」

「……?」

「顔に書いてある」

「……」


ミュレットは迷った。


聞きたいことは、分かっている。

けれど、それを口にした途端、何かが決定的になる気がして、怖かった。


それでも、喉の痛みよりずっと強いものが胸の内にあった。


「……アラン様、は」


かすれた声で、ようやくそう問う。


リリナは一拍、黙った。

それから、少しだけ意地悪く口元を上げる。


「何、その顔」

「……」

「もう帰ったと思ってたの?」

「……」


否定できなかった。


ミュレットは視線を伏せる。


「だって」

かすれた息で言う。

「あの方は……」

「王太子だものね」

「……はい」

「戦いが終わったら、さっさと帰ると思った?」


リリナは呆れたように息をついた。


「帰ってないわよ」

「……っ」


顔が上がる。


「まだエルニアにいる」

「……」

「あなたが目を覚ましたら、すぐ知らせるよう言ってある」

「……え」

「何度も来てたし」

「……」

「寝てるあいだ、ずいぶん長く立ってた」

「……」

「それで、起きたって知らせたら」


リリナは扉の方へ視線を向けた。


「きっと、もう来る」


その言葉が落ちた直後だった。


廊下の向こうで足音が止まる。


侍女が、すっと姿勢を正した。

リリナが口元をゆるめる。


「ほらね」


ミュレットの呼吸が止まる。


扉が、静かに開いた。


入ってきたのは、アランだった。


炎の夜に見た時と違い、今は煤も血もほとんど拭われている。

けれど、あの夜からほとんど休んでいないのだと分かる顔だった。

目の下にはわずかな影があり、それでもその視線だけはまっすぐにミュレットを捉えている。


部屋の空気が、ひどく静かになった。


先に動いたのはリリナだった。


「じゃあ、私は邪魔者だから出るわ」


いつもの軽さで言いながらも、その目は二人をよく見ている。


「無理して長話しさせないで」

「……分かっている」


リリナはかすかに笑う。


「喧嘩するなら静かにして」


そう言って立ち上がり、侍女とともに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


残されたのは、二人きりの静けさだった。


アランはすぐには近づかなかった。

寝台から数歩の位置で立ち止まり、ただミュレットを見る。


ミュレットも、目を逸らせなかった。


会いたかった。

けれど、会うのが怖かった。


それが、そのまま胸の真ん中にあった。


先に口を開いたのは、アランだった。


「……やっと、目を開けた」


低い声だった。

責める響きはない。

それなのに、どれだけその瞬間を待っていたのかが、その短いひと言に滲んでいた。


ミュレットの胸が、強く鳴る。


「体は、痛むか?」


ミュレットは喉の痛みに気をつけながら、かすれた声を押し出す。


「……だい、じょうぶ……」

「そうは見えない」


それだけで、言葉が途切れる。


「……ご迷惑を」


ようやく絞り出した言葉に、アランの目がわずかに細くなる。


「そういう話をしに来たわけではない」

「……」

「謝るな」


ミュレットは目を見開いた。


厳しい言い方のはずなのに、不思議と胸の奥が熱くなる。


何か言おうとして、喉がひどく痛んだ。


「っ……」

「ミュレット……!」


アランはすぐに寝台のそばまで来た。


ほとんど反射のような速さだった。

寝台の脇へ片膝をつき、顔を覗き込む。

熱を確かめるように手を伸ばしかけて、頬に触れる寸前で、ふっとその動きを緩めた。


いま触れたら、痛むかもしれない。

驚かせるかもしれない。

そんなためらいが、そのわずかな間に滲んでいた。


「無理に声を出すな」

「……」

「今は、何も答えなくていい」

「……」

「顔を見られただけで十分だ」


その言葉のあと、アランはほんの少しだけ、安心したように微笑んだ。


ごく薄い笑みだった。

けれど確かに、目の前で息をしていることに安堵している顔だった。


ミュレットの目が揺れる。


大丈夫かと問われるより、その言葉のほうがずっと深く胸に落ちた。


「……アラン、さま」


ようやく出た声は、息に近かった。


アランはその呼びかけに、まっすぐ視線を向ける。


「……帰ったと、思ったのか?」


ミュレットは、答えられなかった。

答えない代わりに、目がわずかに揺れる。


それだけで十分だったのだろう。


アランは低く、はっきりと言った。


「帰るわけがない」

「……」

「ミュレットが目を覚ます前に、帰れると思うか」


そのひと言で、胸の奥に張りつめていたものが、音を立ててほどけそうになる。


アランの視線が、少しだけ落ちる。


その先にあるのは、夜着の襟元からのぞく細紐。

そこに通された、小さな輪。

自分が渡した婚約指輪。


アランは、それを見たまま何も言わなかった。

ただ、ひどく静かな目で見ていた。


ミュレットは何か言いたいのに、声にならない。


アランはようやく視線を戻した。


「話は、あとでいい」

「……」

「今は休め」

「……」

「俺はここにいる」


短い言葉だった。

けれど、それだけで十分だった。


アランは寝台に手をつき、少しだけ身を寄せる。

そして、ほんの短く、ミュレットの髪に触れた。


乱れていた前髪を、指先で少しだけ整えるような、静かな触れ方だった。


「もう少し眠れ」

低く落ちる声は、命令のようでいて、ひどくやさしかった。

「話せるようになったら、話せばいい」


ミュレットのまぶたの裏が、また熱くなる。


会えた。

ここにいた。

帰っていなかった。

それだけではない。

次を望んでくれている。


それだけで、あれほど苦しかった胸の奥が、少しずつほどけていく。


アランは寝台のそばの椅子へ静かに腰を下ろした。


「……はい」


ミュレットがかすれた声でそう言うと、アランは短く頷く。


「ミュレット」

「……?」

「無事でよかった」


ミュレットは小さく目を閉じた。


眠っていいのだと、ようやく身体が理解する。

もう炎の中ではない。

追手もいない。

ひとりでもない。


目を閉じたままでも分かる。

アランはそこにいる。


その気配が、喉の痛みよりも、脚の熱よりも、ずっと強くミュレットを包んでいた。


窓の外では、夜の色がようやく薄れはじめていた。

燃えた夜の終わりを告げるように、白みゆく空の下で、エルニアの御殿はまだ痛みの中にある。


それでもこの部屋だけは、かろうじて静かだった。


ミュレットはその静けさの中で、もう一度だけ浅く息をつく。


次は、ちゃんと話したい。


その言葉を胸の奥でそっと抱きしめたまま、ミュレットは少しだけ安心して、再びまぶたを閉じた。


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