Episode 67. 鎮火の朝
反乱を鎮圧した日の夜明け前、エルニア王宮にはまだ焼け跡の匂いが残っていた。
正殿は半ば焼け落ち、ところどころで煙が細く立ちのぼっている。
夜のあいだに降った初雪は、焼けた木材の上で灰と混ざり、白とも黒ともつかないまだらな色になっていた。
その夜、アランは炎の中からミュレットを救い出したあと、重傷を負ったエルニア王と第一王女リリナのもとへ向かった。
そこで王は、クレスティアへ正式に助力を求めた。
アランはその要請を受ける代わりに、鎮圧後にエルニアと正式な同盟を結ぶことを条件に出した。
帝国の介入を許さず、互いの国境と民を守るための同盟。
誰かひとりの特別な力を奪い合う形では、また同じ争いが繰り返される。
その火種ごと終わらせるために必要な枠組みだと、アランは言った。
王も、リリナも、それを受け入れた。
そしてそのまま夜のうちに、クレスティアとエルニアは共に動いた。
北門を押さえ、兵舎を封じ、正殿周辺の主導権を奪い返し、反乱の正統性を支える文書と王印を取り戻した。
夜明け前には、盤面はすでに大きく崩れていた。
中庭には、夜の戦いの痕が残っている。
割れた石、折れた槍、血の乾いた跡。
運び出される負傷者たちのうめき声だけが、ときおり朝の冷気を震わせた。
離れの一室では、アランが立ったまま報告を受けていた。
「北門は閉鎖済み。外部への伝令役も拘束しました」
「……」
「兵舎も押さえました。残存兵は投降、あるいは拘束」
「……」
「正殿周辺の制圧完了。王の生存は、王家の近衛と主要家臣にのみ通達済みです」
「第二王女は?」
「西兵舎の地下にて確保」
「第三王女は?」
「逃亡したと見られます」
「……そうか」
短い応答のあいだにも、報告は途切れない。
「王印と継承文書は書庫棟より回収済み」
「……」
「反乱側が出そうとしていた布告文も押収しました」
「……」
「リリナ王女の命により、迷っていた近衛の一部もこちらへ合流」
「……」
「城内の主導権は取り戻しています。夜明けとともに、王の名で鎮圧を布告できます」
「分かった」
そこでようやく、アランは浅く息を吐いた。
北門を塞ぎ、兵舎を押さえ、正殿を制圧し、王印と文書を取り戻した。
盤面は崩れた。
反乱は、もう立て直せない。
それでも、完全に終わったとは思わなかった。
逃げた第三王女。
背後にいるはずの帝国。
火の消えたあとの灰の下には、まだいくらでも火種が残る。
「残党狩りは継続しろ」
「はっ」
「夜明け前に城内の出入口を再確認。出入りした者は全て記録しろ」
「はっ」
「王家と主要家臣の護衛を増やせ。混乱に紛れた口封じを防ぐ」
「承知しました」
進み出ていた騎士は深く頭を下げた。
クレスティア側でもっとも位の高い騎士だった。
今この場を任せるなら、この男しかいない。
アランは低く告げる。
「ここから先の現場指揮は任せる」
「……はっ」
「王の布告が出るまで、城内の秩序を保て」
「必ず」
「何かあればすぐ報せろ」
「承知しました」
騎士が一礼して下がる。
扉が閉まり、静けさが戻った。
そこで初めて、アランは視線を落とした。
頭の中に残っているのは、制圧した兵舎でも、押収した文書でもない。
炎の中で自分の名を呼んだ声だった。
煤に汚れた顔。
焼けた脚。
熱を持った浅い呼吸。
そして、腕の中へ落ちてきた、あまりにも軽い身体。
反乱は鎮圧した。
王も生きている。
同盟への道も繋いだ。
だが、それで足りるわけではない。
アランは踵を返した。
向かう先は、最初から決まっていた。
ミュレットのいる部屋だった。
廊下へ出ると、夜明け前の冷えた空気がわずかに残っていた。
燃え残った木の匂いに、薬草と湯の匂いが混じっている。
行き交う兵や侍女たちの足音は抑えられていたが、誰も眠ってなどいなかった。
この城のすべてが、まだ長い夜の続きを生きている。
アランが歩くたび、人々は無言で道を開けた。
クレスティアの兵だけではない。
エルニアの者たちもまた、敵国の王太子へ向けるには複雑すぎる目で頭を下げる。
それらに応じることなく、アランは進んだ。
部屋の前には、クレスティア兵が二人、無言で立っていた。
「殿下」
片膝をつく。
「変わりは」
「先ほど医師が診察を終えました」
「……」
「喉の損傷と脚の火傷はございますが、命に別状はないとのことです」
「意識は」
「まだ戻っておりません」
「そうか」
アランは一拍置いて、低く付け加えた。
「目を覚ましたら、すぐ知らせろ」
「はっ」
「夜明け前でも構わない。俺を起こせ」
「承知しました」
それだけ返し、アランは扉へ手をかけた。
室内は静かだった。
灯りは落としきられてはいない。
明るすぎず、寝台の上へやわらかな影を落としている。
薬草の匂い。
清潔な布の匂い。
焼け跡の外とは別の、守るための空気がそこにはあった。
ミュレットは寝台に横たわっていた。
顔の煤はすでに拭われている。
髪もある程度は整えられていた。
それでも、頬の血の気は薄い。
唇も乾いている。
喉には薬が塗られたのだろう、薄く布が巻かれていた。
脚にも丁寧に手当てが施され、包帯の白がやけに痛々しい。
指先にも細く布が巻かれている。
アランは寝台の傍らで足を止めた。
まだ熱が残っているのか、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
呼吸は浅い。
だが乱れてはいない。
生きている。
それを目で見て、耳で確かめて、ようやく胸の奥に張りつめていたものがわずかに緩んだ。
眠っているだけだ。
もう炎の中ではない。
追手もいない。
無理に立たなくていい。
剣を握らなくていい。
そう分かっていても、寝台の上のその姿はひどく弱々しく見えた。
アランの視線が、ふと喉元へ落ちる。
薬の布の下、細い首筋。
そのさらに下、夜着の襟元の奥には、細紐に通された指輪の輪郭がかすかに浮いていた。
持っていたのか、と今さらのように胸の奥が痛む。
炎の中でも。
逃げていたあいだも。
それを手放さなかったのだと、眠る姿に突きつけられる。
アランは静かに目を伏せた。
五つの頃だった。
感情の揺れに呼応して、力は勝手に牙を剥いた。
父を小馬鹿にした領主の腕が裂けた瞬間、断界は目覚めた。
六つになる頃には、今度は転移の兆しが出た。
気づけば別の場所へ立っている。不安定で、予兆もなく、己の感情と結びついて暴れる力。
父王と母妃は、その力を国を守る希望だと言った。
同時に、争いを呼ぶ火種にもなりうると教えた。
誇れとは、一度も言われなかった。
制御しろ。
隠せ。
感情に飲まれるな。
使うなら、守るためだけに使え。
まだ若かったディルクも、その頃から傍にいた。
王子である前に、危うい刃を抱えた子どもとして、アランを見ていた。
七つ、八つ、九つ。
第一王子としての教育が本格化すると、人前で感情を抑える癖はますます強くなった。
礼法、統治、歴史、剣術、政治、語学。
学ぶものは山ほどあった。
その全部を抱えたうえで、特別な力だけは決して表へ出すなと、父母は厳しく教えた。
十の頃、クレスティアは目に見えて豊かになっていった。
城下町は再整備され、人が集まり、外交も活発になる。
民の笑顔を見るたび、父王と母妃を誇りに思った。
同時に、その平和が力によって守られているのだとも知っていった。
十一で帝国の不穏な動きが表面化し、十三で会談の話が持ち上がった。
あれが友好的なものではないと、幼いながらに分かっていた。
だから、ついて行くと言った。
第一王子としての責務を口実にしたが、本心では父母を行かせたくなかっただけだ。
だが結局、間に合わなかった。
帝国で見たのは、力を封じられた父王と母妃が殺される瞬間だった。
力があっても守れない現実。
対話の仮面を被った暴力。
武力による平和の限界。
それでも無力では何も守れないという矛盾。
その日以降、アランは力を持ちながら、力を信じきれない人間になった。
十四で泣く時間もなく国を背負い、十六で前線に立った。
前例がないと、ディルクは止めた。
だが前例に頼っていては戦は終わらないと、その時アランは言った。
帝国の攻撃を前に、なす術もない民と子どもたち。
兵の死体を前に崩れる女たち。
そんな光景をこれ以上増やさないために、もっとも危険な場所へ、もっとも強い力を持つ自分が出るしかなかった。
「"私"が出る」
あの時、初めて「私」と言った。
王太子でありながら、もう王として立つ覚悟を口にしたのだと、ディルクは悟った。
断界。
転移。
光。
すべてを使い、前皇帝を討ち、帝国を停戦へ追い込んだ。
断界王と恐れられ、誰も寄り付かなくなった。
それでも構わなかった。
怖れられるだけで戦が終わるのなら、それでいいと思っていた。
だが戦が終わったあとに残ったのは、勝利の実感ではなかった。
疲れた。
誰もいない執務室で、一度だけ漏れたその声が、自分でも驚くほど空虚だったことを、アランは今でも覚えている。
もう、戦いたくはなかった。
その本音を認めた頃だった。
冬の終わりの荒れた庭で、花のそばにしゃがみ込む女を見つけた。
色のない景色の中で、その姿だけが妙に静かで、目を離しがたかった。
花の名を尋ねれば、ついでに名も聞けるかもしれない。
そんな、己らしくない下心で声をかけた。
返ってきた花の説明は、ほとんど覚えていない。
代わりに忘れられなかったのは、泥で汚れた自分の手を見て、彼女が当然のように白いハンカチを差し出したことだった。
恐れず。
媚びず。
ただ当然のように。
そんなことをされたのは、初めてだった。
力を持つ自分ではなく、人としての自分へ触れてきた白い布切れひとつが、妙に胸に刺さった。
驚いた。
そしてその驚きは、静かに根を張っていった。
さらに強く思い知らされたのは、ミュレットがディルクの傷を治した時だった。
いつも何かに怯え、終わりを待つような目をしていた彼女が、その時だけは違った。
震えていない。
泣いてもいない。
ただ、静かに覚悟を決めた顔をしていた。
それは、戦場へ出ると決めた時の自分と、あまりにもよく似ていた。
自分がやらなければ、誰がやる。
自分が動かなければ、また命が零れる。
そう思ってしまった者の顔だった。
だから分かってしまう。
ミュレットがエルニア王に力を使った時、何を思っていたのか。
見送ってきた命の数が、どれほど彼女を追い詰めたのか。
痛いほど、分かってしまう。
だからこそ、次の自分にしてはならないと思う。
力があるからといって、平和の象徴に担ぎ上げられてはならない。
抑止力だの希望だのと、美しい言葉で飾られて、ひとりの人間が削られていく形を、また繰り返させてはならない。
守る、では足りない。
ミュレットが使われない世を作らなければならない。
力ではなく、人として生きられる国を。
アランはそっと手を伸ばした。
だが、触れる寸前で止まった。
まだ熱を持っているのではないか。
痛むのではないか。
眠りを妨げるのではないか。
戦場では考えもしないようなためらいが、一瞬だけ指先を止めた。
結局アランは、直接触れる代わりに、掛け布の端を少しだけ整えた。
乱れていた髪も、頬にかからないようごく静かに払う。
炎の中で取り落としかけたものを、今度こそ自分の手の届く場所へ置き直すように。
その時だった。
眠っているはずのミュレットの指先が、わずかに動いた。
熱に浮かされているだけなのかもしれない。
それでも、その細い指が掛け布の端を探るようにさまよい、アランの袖先に触れる。
本当に、かすかだった。
掴んだというほど強くもない。
ただ、逃がすまいとするように、布の端へ指先が引っかかっただけだ。
アランは息を止めた。
眠っている。
目は開かない。
呼びかけもない。
それでも、そのわずかな接触だけで、胸の奥の何かがひどく静かにほどけた。
アランは袖を引かなかった。
むしろ、その指先に負担がかからないよう、少しだけ姿勢を低くする。
寝台のそばの椅子へ、ゆっくり腰を下ろした。
鎮圧の報告。
同盟の条件。
逃亡した第三王女。
王都へ返すべき書状。
考えるべきことは山ほどあった。
それでも今だけは、そのすべてを脇へ置いた。
視線の先には、ミュレットだけがいる。
眠ったままの睫毛。
かすかに上下する胸元。
手当てを受けた細い指先。
そして、袖に触れたまま離れない小さな手。
アランは低く息を吐いた。
「……ミュレット」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
確認でも、命令でもない。
ようやく呼べた名だったのかもしれない。
眠るミュレットは答えない。
だが、その沈黙さえ今はありがたかった。
もう無理に言い返されることもない。
逃げようと身を強張らせることもない。
ただ、ここにいる。
アランはしばらくそのまま、彼女を見ていた。
もう、戦いたくはなかった。
その本音に、偽りはない。
戦場に立てば勝てる。
斬れば終わる。
自分が前へ出れば、より早く、より多くを守れる。
それでも、もう十分だった。
父と母を失った日から、戦はずっと何かを奪い続けた。
民を。
兵を。
時間を。
感情を。
そして最後には、自分の中の穏やかなものまで、少しずつ削っていった。
だから終わらせたかった。
断界王と恐れられても、人ではなく兵器のように見られても構わなかった。
怖れられるだけで戦が遠ざかるのなら、それでよかった。
もう二度と、こんなものに触れたくはない。
それが、戦を終わらせたあとの、偽りのない願いだった。
――だが。
寝台の上のミュレットを見た瞬間、その願いは、あまりにも容易く塗り替えられてしまう。
焼けた脚。
傷んだ喉。
熱を持ったまま浅く続く呼吸。
細い体で、それでもひとりで立っていた痕跡。
こんなふうに傷つくのなら。
こんなふうに、誰かの悪意に狙われるのなら。
アランは静かに思う。
平和を望むだけでは守れない。
もう剣を取りたくないと願うだけでは、届かない。
ミュレットのためなら、戦う。
何度でも。
どれほど汚れても。
どれほど恐れられても。
どれほど自分が戦の火種に近い姿へ戻ろうとも。
彼女が生きているなら、それでいい。
彼女がこの先を人として歩けるなら、そのために自分が剣であり続けることを厭わない。
国のために戦ってきた。
民のために戦ってきた。
そのどれも嘘ではない。
だが今、自分を再び戦場へ立たせるものがあるとするなら、
それは、個人的で、ずっと深いものだった。
この小さな手を、二度と炎の中へ置き去りにしないために。
そのためなら、何度でも戦う。
今度は終わらせるためだけではない。
今度は、失わないために。
窓の外では、ようやく夜の色が薄れ始めていた。
燃えた夜の終わりを告げるように、白みはじめた空の下で、城はまだ痛みの中にある。
それでもこの部屋だけは、かろうじて静かだった。
アランはその静けさを壊さぬよう、ただ傍らに座り続けた。
眠るミュレットの呼吸が、少しでも穏やかなままであるようにと願いながら。




