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Episode 66. 結界の向こうへ



夕刻、クレスティア城の一室には、落ち着いた灯りだけが静かに満ちていた。


卓上に広げられているのは、エルニア周辺の地図と、ここ数日の報告書。

窓の外はすでに薄暗く、部屋の中には紙をめくる音と、低く交わされる声だけが残っている。


アランは地図の一点を見下ろしたまま、指先で報告書の端を押さえていた。


向かいにいるのは、グレン・サンダレイン王子だった。


「エルニアで、いよいよ火種が表に出そうです」


グレンは報告書の一枚を示しながら続ける。


「あそこの王は穏健派です。軍を増やすより、国を荒らさず、各国と均衡を結ぶべきだと考えている」

「……」

「ですが、王女方の一部は逆です。武力で押し潰される前に、こちらが牙を持つべきだと考えている」

「……」

「もう十分に危うい状況とのことです」


アランは答えず、地図へ視線を落とした。


エルニア。

帝国。

武力派。

そして、ミュレット。


条件が重なりすぎている。


やがて、低い声が落ちた。


「クーデターの成功は、帝国が関与するための足がかりになる」

「ええ」

「阻止しなければならない」


グレンが静かに目を細める。


「私が出る」


その言葉に、今度はグレンの表情が驚きに変わる。


アランはそのまま続ける。


「そのかわり、私が城にいない間、国境警備を頼みたい」

「仕方がありませんね」


グレンはわざとらしく肩を落とした。


「ミュレット様は、あなたのもとを去った後、サンダレインへ来てくださらなかった……振られたようなものですから」


しくしく、とでも言いたげな顔で俯く。


「まだ諦めていなかったのか」

「私を好みだと言う女性は多いですから」


またしくしく。


「そうか」


淡々と返しながら、アランは一瞬だけ思考を止めた。


……つまり、ミュレットの好みは俺だった?


その考えは、すぐに切り捨てた。

今はそんなことを考える時ではない。


グレンはすぐに表情を戻した。


「冗談はさておき、国境はお任せください」

「……ああ」

「ご武運を」

「……感謝する」


そのひと言に、グレンはほんのわずかに目を見開いた。


意表を突かれたのだと分かる。

しかし次の瞬間には、いつものやわらかな笑みを浮かべた。


「では、必ず」


短くそう言い、立ち上がる。

衣擦れの音を残して、グレンは部屋を去った。


扉が閉まる。


静けさが戻る。


そのすぐあとだった。


「殿下」


ディルクの声が落ちる。


振り向くと、いつもの位置に立っていた。

最初からいたのか、あるいは入れ替わるように入ってきたのか。

いずれにせよ、その目はすでにすべてを理解していた。


「国が、あなたが直接動いていい問題ではない」


静かな声だった。


「どうされるおつもりですか」

「……」

「彼女を今追って、会えたとしても、ここへ帰ってくるとは限りません」


アランは少しだけ間を置いた。


それから、低く言う。


「ミュレットは死なせてはならない」


ディルクの目がわずかに動く。


「俺だけではない」

「……」

「この城にいる皆がそう思っている」

「……」

「力を知っても」

「……」

「力を使わず、見送った命の数だけ傷ついていたのを、知っている」


ディルクは黙る。


「お前は違うのか」


短い問いだった。


ディルクはゆっくりと息を吸い、吐く。


「……いいえ」


それだけだった。


アランは続ける。


「誰か一人の特別な力を奪い合っていては、戦いは終わらない」

「……」

「帝国は欲しがる。他国は恐れる」

「……」

「囲うための剣も、奪うための剣も増える」

「……」

「そんな形のままでは、また同じことが繰り返される」


短い沈黙。


「だから終わらせる」


アランの声は低かった。


「ミュレットを、力ではなく人として生かせる形を残す」

「……」

「そのために、まず死なせない」


ディルクはまっすぐアランを見ていた。


「今我々は、戦争が繰り返されるか、終わらせるか、その分岐点に立っている」

「……」

「終わらせよう」


静かだった。

だが、決定的だった。


ディルクは背筋を伸ばす。


「はっ!」


短く、力のある返事だった。


アランは頷く。


「ディルク、お前は城に残れ」

「……承知しました」

「王都を空けるわけにはいかない」

「はっ」


ディルクは深く頭を下げた。


その胸の内で願っているのは、ひとつだけだった。


ミュレットが、あの人の隣へ戻ってくること。


その夜、アランは最小限の騎士だけを伴って王都を発った。


夜の街道は冷えていた。

馬の吐く息は白く、蹄の音だけが、凍えた空気の中を淡々と刻んでいく。

誰も無駄口は叩かなかった。

急ぐべき理由を、全員が知っていたからだ。


国境を越えるまで、アランは一度も振り返らなかった。

視線の先にあるのは、ただエルニアだけだった。


そして夜更け、彼らはついにエルニア王都の外縁へ辿り着く。


夜のエルニアは静かだった。


静かすぎた。


巡回の数は多い。

灯りも消えない。

だがそれらはすべて、何かを隠すための静けさだった。


正殿を遠くから見据える。


結界が張られている。


隙がない。


正面からは入れない。

転移も通らない。


近いのに、届かない。


アランは無言のまま結界の歪みを探った。


基点の位置。

巡回の間隔。

火が入れば脆くなる箇所。

崩れるなら、どこから綻ぶか。


自ら結界を破ることも、不可能ではない。

だが、それを先にやれば、クレスティアからの武力侵攻と見なされる。

クーデターが表へ噴き出す前に踏み込めば、介入ではなく宣戦布告になる可能性があった。


だから、待つしかない。


時間だけが、足りない。


その時だった。


空気が揺れる。


次の瞬間、正殿の一角から火が上がった。


炎はまたたく間に広がる。

木造の建物は、それを拒まない。


結界が軋む。


焼かれている。


基点が崩れる。


一瞬だった。


「殿下」


騎士が声を上げる。


「ここで踏み込めば――」


アランは言葉を遮る。


「知っている」


視線は炎から外さない。


「だが行く」


そして、ひとことだけ落とす。


「ミュレットが中にいる」


それで十分だった。


足元に白金の光が走る。


転移魔法陣。


目印は、ミュレットが持つ指輪に編み込んだ自分の魔力。

炎に揺らぐ正殿の座標。

結界の綻び。

そのすべてを一息で繋ぐ。


今しかない。


アランは目を閉じる。


一瞬だけ。


――間に合え。


次の瞬間、光が弾けた。


アランは、そのまま炎の中へ踏み込んだ。


熱風が顔を打つ。


煙。

焦げた木の匂い。

焼け落ちる梁の音。

火の赤に染まった御殿は、すでに正気の場所ではなかった。


その中へ、白いものが静かに落ちてくる。


雪だ。


初雪だった。


炎に照らされながら落ちる白は、灰よりもなお非現実的に見えた。


一歩踏み出して、アランは床を見た。


倒れた兵士たち。

エルニアの兵も、黒装束の者も、見分けもつかぬまま血に濡れて転がっている。

焼けた柱の根元にも、崩れた廊のそばにも、動かぬ身体がいくつもある。


視線を上げる。


爆ぜた床板。

雷に焼かれた柱。

火とは違う焦げ跡。


ミュレットが使ったのだと、すぐに分かった。


そこまで追い詰められていた。


その事実が、胸の内を冷たく抉る。


さらに先、煙の向こうに人影が見えた。


三方を塞がれた、小さな背。

剣を杖のように支え、立っているだけで痛々しい姿。


ミュレット。


顔には煤がつき、息は浅い。

脚は焼け、片足へうまく体重をかけられていない。

それでもなお、剣を手放さず、追手へ向かって立っている。


アランの呼吸が、一瞬だけ止まった。


遅かったかもしれない、と思った。

その考えが、怒りより先に喉元へ迫る。


だが、まだ間に合う。


レオルド。

背後の刺客二人。

距離。

足場。

炎の流れ。

ミュレットへ衝撃を通さず遮る位置。


全てを一息で測る。


次の瞬間、アランは転移した。


ミュレットとレオルドのあいだ。

彼女の視界を塞ぐように、目の前へ。


白金の光が縦に走り、まばゆい魔法陣が裂けるように開く。


そこへ現れた瞬間、場の重心が変わった。


火勢は変わらない。

雪も降り続いている。

それでも、この場で主導権を握るものが熱でも恐慌でもなくなったのだと、敵の足が教えていた。


刺客たちが止まる。


レオルドが反射的に炎を手へ纏わせる。


踏み込みは速い。

判断も悪くない。

だが、遅い。


アランは片手を上げた。


白金の魔法陣が盾の形で展開する。


炎の拳がぶつかる。

その衝撃が広がる前に、アランは魔法陣ごと前へ押し込んだ。


受けたのではない。

崩した。


レオルドの軸がわずかにずれる。


そこでもう十分だった。


光の盾は、そのまま形を変える。

円環が傾ぎ、重なり、鋭く収束していく。


レオルドの目が見開かれる。


防御の後に追撃したのではない。

防いだ瞬間にはもう、次の軌道に入っていた。


それを理解したからこその反応だった。


レオルドが後ろへ飛ぶ。


遅い。


変形した魔法陣から光の線が走る。


真っ直ぐ伸びた一閃が、焼けた柱を抉り、その脇の刺客の肩を貫いた。

男が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。


もうひとりが剣を上げる。


その動きも、アランには遅かった。


一歩。

踏み込む。


斬る。


火の赤の中で、刃の軌道だけが妙に静かだった。

刺客の剣が弾かれ、男の身体が横へ流れる。


その勢いのまま、アランは半歩ずらす。


倒れた先、退路、立て直しの余地。

全てを断つ位置へ、残光のような光の軌跡を走らせる。


相手に選ばせない。


立て直す前に潰す。


二人とも、もう立てなかった。


時間にすれば、ほんのわずかだった。


レオルドは数歩退いた先で顔を歪めた。


その目に浮かんだのは怒りではない。

理解だ。


勝てない。


それを、ようやく飲み込んだ顔だった。


ミュレットを庇いながら。

この足場で。

この火勢の中で。

それでも盤面を奪われた。


その事実が、レオルドの迷いを決定に変えた。


逃げる。


そう判断した気配が動く。


アランは追わなかった。


追えば斬れる。

だが、それは今ではない。


最優先は、最初からひとつだけだった。


振り返る。


ミュレットがいた。


正面からその姿を見た瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。


呼吸は熱い。

煙で喉をやられている。

脚は焼けている。

指先にも火傷の跡がある。

剣を支えるだけでも、もう限界だったはずだ。


それでも、立っていた。


そこまでして一人で立っていたのかと、遅れてきた怒りとも痛みともつかないものが胸の内を焼く。


「アラン様……!」


その声を聞いて、ようやく間に合ったのだと知る。

けれど安堵はできなかった。


ここで一手でも誤れば、彼女はまた無理をする。


「アラン様がこんなところに来てはダメです!!」

「……」

「どうして……!!」

「……ミュレットがこんなところにいる」


それしか言えなかった。


叱責ではない。

責めてもいない。

ただ、本心だった。


その一言に、彼女の表情が崩れかける。


「わ、私はいいの……!! アラン様はダメなの!!!」


声が震えていた。

怒っているはずなのに、泣きそうな響きだった。


アランはすぐには何も言わなかった。


ミュレットがよくて、俺が駄目な理由などない。

ミュレットひとりだけが傷ついていいはずがない。

俺にここへ来るなと言うのなら、そもそも彼女こそ、こんな場所にいるべきではなかった。


言い返せる言葉はいくらでもあった。

正論なら、いくつも並べられる。


だが、そのどれも今のミュレットを支える言葉にはならないと分かっていた。


ただ、ほんのわずかに視線を落とす。


その目が見たのは、ミュレットの首もとだった。

服の下からのぞく、細紐に通された小さな輪。

自分が渡した婚約指輪。


火に照らされて、かすかに光っている。


置いていったのではなかった。


その事実が胸の奥へ深く刺さる。


痛いほどに、温かかった。


だが、それらを今口にすることはできない。


彼女はもう限界だ。

言葉より先に支えなければならない。


アランは少しだけ間を置いてから、低く言う。


「……そうだな、俺が悪い。すまない」


ミュレットの睫毛がかすかに震えた。


なぜ謝るのか、と問いたげだった。


アランは少し困ったように、それでもほっとしたように、ほんの薄く笑った。

そして、ゆっくり手を伸ばす。


その手を、ミュレットは反射的に払った。


弱い。


拒絶というほど強くもない。

ただ、触れられたらもう張っていられなくなるのだと分かる力だった。


アランの手は止まる。

だが引っ込めはしない。


ミュレットは何か言おうとした。

けれど、その前に喉を押さえるように顔を歪めた。


煙を吸いすぎている。

脚の痛みも、一度止まったぶん一気に来たのだろう。

焦点が揺れる。


「……ミュレット!」


低く名を呼ぶ声には、抑えきれない切迫が滲んだ。


剣が手から落ちる。


次の瞬間、身体が傾いた。


アランはほとんど反射で腕を伸ばしていた。

倒れ込むより早く腰を支え、熱を持った身体を抱き留める。


受け止めた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。


本気で危なかったのだと、その軽さと熱さが一度に伝えてくる。


軽い、と思った。


あまりにも軽い。

こんなふうに抱き上げたかったわけではない。

こんなふうに、火と煙と痛みの匂いを纏った身体を抱きしめたかったわけではない。


あと少し遅れていたら。


その想像だけで、腹の底が冷える。


「……っ」

「分かっている」

「でも」

「もういい」


腕の中へ抱き込む。


その瞬間、ミュレットの身体からふっと余計な力が抜けた。


炎の熱と、雪の冷たさと、自分の体温とが、彼女のまわりで混ざり合っている。


遠くで、まだ火の回る音がする。

雪は静かに降っている。

白い息のように、ひとひらずつ。


腕の中の身体はまだ苦しげだった。

息は浅い。

痛みも消えていない。


それでも、張りつめていたものがもう限界なのだと分かった。


もっと早く来るべきだった。

こうなる前に、抱き寄せるべきだった。


だが今は、間に合った。

まだ、間に合った。


ミュレットの力が抜けていく。

瞼が重く閉じていく。

逃げようとしていた身体が、ようやく逃げることをやめる。


アランは彼女を支える腕に、わずかに力を込めた。


もう離さないと、言葉ではなく伝えるように。


そしてミュレットは、ようやく安心して意識を手放した。


炎の熱と、初雪の冷たさのあいだで、

ミュレットの意識は静かに、アランの腕の中へ落ちていった。



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