Episode 65. 炎の中へ
王の傷へ手を重ね、あふれた光が消えた、その直後だった。
ぱち、ぱち、と場違いな拍手が響く。
ミュレットがはっと顔を上げると、燃え広がりはじめた廊下の向こうに、黒い布を外す手が見えた。
「……やっと見つけた」
その声音に、足が止まりかける。
まさか、と思った。
そんなはずはないと打ち消したかった。
けれど、胸の奥のざわめきが、それを許さなかった。
「やっぱりミュレット、君だったんだ……」
露わになった顔を見た瞬間、ミュレットの息が止まった。
「……レオ、ルド」
火に照らされたその顔は、かつて知っていたころよりもやつれて見えた。
けれど目だけは妙に冴えていて、その視線が、執着するようにミュレットへ絡みつく。
リリナは負傷した足で立ち上がろうとしたが、すぐに膝をついた。
太腿の傷から、なお血が滲んでいる。
「逃げなさい!! ミュレット!!」
張り裂けるような声だった。
はっとして、ミュレットの身体が動く。
振り返る。
燃え上がる廊下。
木造の御殿に火が回る音。
崩れかけた梁。
初雪が降り始めているのに、内側は息が焼けるほど熱い。
ミュレットは火の海へ向かって走り出した。
背後でレオルドの声が追ってくる。
「待って、ミュレット!」
「君を傷つけるつもりは――」
その言葉は信用できなかった。
信用できるはずもなかった。
さらに、その後ろから二人の刺客が追ってくる気配がある。
レオルドだけではない。
あれは“確保”のために動く目だ。
手荒でも構わない、逃がすなという目。
廊下の先はもう煙で白く霞んでいた。
木が軋む。
熱で空気が歪む。
火の粉が視界の端を流れていく。
息が苦しい。
それでも止まれない。
止まれば、捕まる。
燃え盛る御殿の中を走りながら、ミュレットは喉もとの指輪に一瞬だけ触れた。
こんなことになるなら。
こんな力をまた使うことになるなら。
隠れたままで終われないなら。
ごめんなさい、アラン様。
胸の奥でそう呟きながらも、足は止めない。
曲がり角をひとつ曲がったところで、ミュレットは思わず足を鈍らせた。
廊下に、兵士たちが転がっていた。
ひとりではない。
ふたり、三人。
焼けた柱のそばにも、崩れた戸の前にも、血に濡れた衣のまま倒れている。
誰も動かない。
開いたままの手。
落ちた槍。
血と煤で黒く汚れた顔。
火の赤に照らされて、その静けさだけがひどく際立っていた。
誰かがここで戦って、死んだのだ。
喉がひゅっと鳴る。
そのひとりのそばに、剣が落ちていた。
儀礼用ではない、実際に使われていた重みのある剣だ。
ミュレットは震える手で、それを拾った。
剣術など知らない。
使えるはずもない。
なのに、もう丸腰ではいられなかった。
「いた!」
刺客のひとりの声が響く。
ミュレットは剣を握り直し、再び火の中へ走る。
梁が落ちる。
火が走る。
熱で頬が焼ける。
治癒だけでも、あれほどのことになった。
あれを見た者がいれば、きっとすぐに広まる。
それなのに、攻撃魔法まで使ったら。
恐怖が、遅れて身体を強張らせる。
それでも、今は使うしかなかった。
自分の身を守るために。
ここまで来た意味を失わないために。
アランから離れるために選んだ道を、誰かの手で終わらせないために。
――隠しなさい。
――鬼が来るぞ。
亡き父の怒声が、熱と煙の奥から不意によみがえる。
力を見せれば責められる。
見つかれば、奪われる。
幼いころに染みついた恐怖が、伸ばしかけた手を一瞬だけ萎縮させた。
だが次の瞬間、その暗がりを押し返すように、別の記憶が浮かぶ。
父に内緒で、母とふたり、傷ついた馬へそっと手を当てた日のこと。
怯えるミュレットの指を包みながら、母はやさしく笑っていた。
――大丈夫。
――あなたは特別な、私の子よ。
胸の奥が熱くなる。
涙が滲む。
怖い。
知られるのは、今でも怖い。
それでも、この力はもう、怯えて隠すためだけにあるものではない。
そして、もうひとつ。
胸のいちばん深いところで、低い声が重なった。
――俺が守る。
アランの声だった。
息を吸う。
震えていた指先に、もう一度だけ力を込める。
逃げ切るために。
生き延びるために。
今だけは、この力を恐れない。
ミュレットは足を止め、片手に剣を持ったまま、もう一方の手へ魔力を集める。
雷。
空を裂くような強いものではない。
狙いを定めて一点を貫くには、まだ未熟だ。
もともと得意でもない。
それでも、呼ぶ。
熱と煙の中で、空気がびりっと震えた。
次の瞬間、青白い雷が走る。
だがそれは、刺客の身体を正確に打ち抜くことはなかった。
足元の板を爆ぜさせ、柱の脇を焼き、威嚇のように散る。
「うわっ!」
刺客が反射的に飛び退く。
もう一度。
今度は廊下の梁近くへ落ちる。
火の粉が散り、男たちが腕で顔を庇う。
「こんな力まであるのか!」
その叫びに、ミュレットの胸が冷えた。
そうだ。
これを知られることが、怖かった。
しかも、自分は分かってしまう。
当てようと思えば、もっと近くへ落とせたかもしれない。
なのに無意識に避けている。
人を殺したことがない。
自分の手で誰かの命を断つことを、身体が拒んでいる。
威嚇にしかならない。
それでも数歩分の時間は稼げた。
ミュレットは再び走る。
火の回りは、それ以上に早かった。
木造の御殿は、炎を呼吸するように飲み込み、さらに大きく燃え上がっていく。
天井が軋む。
見上げた瞬間、崩れた。
「――っ!」
避けきれない。
落ちてきた燃えた木片が脚をかすめる。
熱が、遅れて激痛になる。
ミュレットはその場へ膝をつきかけた。
「あ、……っ」
脚が焼けるように痛い。
いや、本当に焼けているのだと、匂いで分かった。
煙が喉へ入る。
咳き込む。
息がうまくできない。
目も痛い。
視界が滲む。
それでも剣を杖のようについて立ち上がる。
まだ止まれない。
止まったら終わる。
背後で、また死体を踏み越える音がする。
追手はもう近い。
中庭へ抜ける手前で、ついに追いつかれた。
崩れた廊下の先、半ば焼け落ちた柱の陰から、二人の刺客が回り込む。
背後にはレオルド。
三方を塞がれた。
「もう終わりだよ」
レオルドが、ひどく静かな声で言う。
「君は逃げなくていい」
「……」
「こっちへおいで、ミュレット」
「……いや!」
剣を構える。
けれど手は震えていた。
脚は痛い。
息も苦しい。
煙で頭がうまく回らない。
このままでは捕まる。
レオルドが一歩、踏み込んだ。
その手がミュレットへ伸びてくる。
次の瞬間だった。
ミュレットとレオルドのあいだの空間へ、白金の光が奔った。
まばゆい魔法陣が、縦に裂けるように開く。
炎の赤とも、雪の白とも違う、真っ直ぐで冷たい光。
そこからアランが現れた。
黒い外套の裾が、炎の風に煽られる。
凍るような目が、まっすぐ前を見ている。
ミュレットの目の前に立った、その一瞬で、火の熱とは別の圧が空気を塗り替えた。
レオルドが息を呑むより早く、反射的に炎を手へ纏わせる。
燃え上がる拳。
そのまま、殴りつけるように踏み込んだ。
だがアランは微動だにしない。
片手をかざした瞬間、白金の魔法陣が盾のように展開する。
炎の拳がぶつかる。
同時に、アランはその光の盾を防ぐためだけでなく、押し返すために前へ叩きつけた。
弾けた。
炎と光、二つの魔法が激突し、耳を打つ破裂音とともに火花のような光片が四散する。
熱風が吹き荒れ、ミュレットの髪を後ろへ煽った。
「……っ!」
レオルドの目が見開かれる。
防ぐだけではない。
魔法陣を盾として使い、そのまま軌道を変えて追撃へ繋げる。
そんな真似をする者を、レオルドはひとりしか知らなかった。
「貴様は……!?」
その声の直後、光の魔法陣の形が変わる。
盾として前へ押し出された円環が、すうっと傾ぎ、幾重にもずれて、鋭い槍の穂先のように収束していく。
まずい。
そう悟ったのだろう。
レオルドは咄嗟に身を引き、後ろへ飛んだ。
変形した魔法陣から、光の光線が外走る。
真っ直ぐ伸びた一閃が、焼けた柱を抉り、床板を裂き、その脇にいた刺客の肩を貫いた。
男が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。
もうひとりが剣を構え直す間もなく、アランは一歩踏み込み、斬撃でその手元を払った。
剣が弾かれ、男の身体が焼けた廊下へ叩きつけられる。
一瞬だった。
炎の音だけが、やけに大きく耳に残る。
レオルドは数歩退いた先で、苦々しく顔を歪めた。
けれど踏みとどまれない。
アランの前では、距離を詰めた瞬間に終わると本能が告げていたのだろう。
レオルドは舌打ちし、炎と煙の向こうへ身を翻した。
アランは追わなかった。
視線だけが一瞬そちらを追う。
しかし、すぐに戻る。
優先するものは、最初からひとつだった。
アランが振り返る。
その目がミュレットを捉えた瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。
「アラン様……!」
姿を見た途端、安堵より先に怒りが湧いた。
「アラン様がこんなところに来てはダメです!!」
「……」
「どうして……!!」
「……ミュレットがこんなところにいる」
真顔だった。
まっすぐで、真剣な目だった。
たったそれだけだった。
ミュレットは言葉を失う。
怒りも、言い返したいことも、山ほどあるはずなのに、
その一言で全部が崩れていく。
「わ、私はいいの……!! アラン様はダメなの!!!」
叫んだ声は、ひどくみっともなく震えていた。
怒っているのに、泣きそうな声だった。
アランはすぐには何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに視線を落とす。
その目が見たのは、ミュレットの首もとだった。
服の下からのぞく、細紐に通された小さな輪。
自分が渡した婚約指輪。
火に照らされて、かすかに光っている。
その一瞬の視線だけで、ミュレットの胸がひどく痛んだ。
どうして今、それを見るの。
どうしてそんな顔をするの。
アランは少しだけ間を置いてから、低く口を開く。
「……そうだな、俺が悪い。すまない」
そして、少し困ったように、けれどどこかほっとしたように、ほんの薄く笑った。
その言葉に、ミュレットは息を呑む。
どうして、謝るの。
アラン様ならもっと、正論で返すことだってできるのに。
もっと冷たく突き放すことだってできるのに。
それなのに、この人はいつも、いつも。
アランがゆっくり手を伸ばしてくる。
その手を、ミュレットは反射的に拒んだ。
ぱし、と弱々しく払いのける。
拒絶というほど強くもない。
ただ、触れられたら全部ほどけてしまいそうで、怖かった。
アランの手は止まる。
しかし引っ込めはしない。
「……っ」
どうして、そんな顔をするの。
どうして、そんなふうに謝るの。
どうして、私ばかり苦しいと思わせてくれないの。
ミュレットは何か言おうとした。
けれど、その前に喉がひどく痛んだ。
煙を吸いすぎた。
脚の痛みも、一度止まったぶん余計にはっきりしてくる。
視界が揺れる。
「……ミュレット!」
アランの声が、少しだけ近くなる。
剣が手から落ちた。
次の瞬間、身体が傾く。
アランが受け止める。
「……っ」
「分かっている」
「でも」
「もういい」
腕の中へ抱き込まれる。
それだけで、張っていたものが一気に切れた。
炎の熱と、雪の冷たさと、
アランの体温が、全部いっしょくたになる。
遠くで、まだ火の回る音がする。
雪は静かに降っている。
白い息のように、ひとひらずつ。
ミュレットは、薄れていく意識の中で、その腕の強さを知っていた。
本能が、ここだけが安心できる場所だと理解してしまう。
苦しい。
痛い。
息も熱い。
それなのに、不思議なくらい怖くなかった。
アランの腕の中だ。
そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていた糸が、ようやくほどけた。
逃げなくていい。
もう追われなくていい。
少なくとも今、この瞬間だけは。
そう身体が先に信じてしまった。
そしてミュレットは、ようやく安心して意識を手放した。
炎の熱と、初雪の冷たさのあいだで、
ミュレットの意識は静かに、アランの腕の中へ落ちていった。




