表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

65/80

Episode 64. 初雪の夜



その夜、王宮の空気は不自然なほど静かだった。


昼の会談のあと、誰もが平常を装っていた。

侍女たちは花を替え、茶を運び、灯りを整える。

衛兵は持ち場に立ち、文官たちは書状を抱えて行き交う。


そんな中、すべてが少しずつ張りつめている。


御殿で暮らし始めてまだ日が浅いミュレットにさえ、分かった。

今夜の静けさは、落ち着きではなく、何かが起こる前の薄い膜なのだと。


日が落ちたころ、空を見上げた若い侍女が、小さく呟いた。


「……雪の匂いがします」


その一言に、何人かがつられるように外を見る。


空はまだ降る気配を見せていなかった。

だが風は冷たく、頬に触れる空気だけが、冬の入口を告げている。


ミュレットは、その言葉を妙に覚えていた。


ほどなくして、正殿へ急な呼び出しがかかった。


表向きは、国境方面からの急報が届いたためだった。

国王と、リリナを含む王族が、今夜のうちに正殿で話し合う必要があるという。


「こんな時間に?」

リリナは露骨に眉をひそめた。

「急ぎとのことです」

側近の声は低い。

「……嫌な感じね」


そう言いながらも、リリナは向かわないという選択をしなかった。

ミュレットと、数人の侍女も付き従う。


正殿へ向かう廊を歩きながら、ミュレットはかすかな違和感を覚えていた。


いつもより衛兵の顔ぶれが違う。

灯りの数が少ない。

そして、どこか焦げる前のような、油の匂いが、ごくかすかに混じっている。


「……リリナ」

「分かってる」

ミュレットが小さく呼ぶより先に、リリナは短く言った。

「変ね」

「はい」

「でも、ここまで来て引き返したら、それはそれで向こうの思うつぼだわ」


正殿へ着く。


いつもなら、木の香りと灯りのやわらかさがある場所だった。

今夜は違った。

人の気配が妙に少ない。

扉の向こうの空気が、ひどく冷たく感じられる。


東寄りの控えの間へ通されると、国王はすでにそこにいた。

数名の側近と、護衛が少し。

第二王女と第三王女の姿はない。


「父上」

リリナが一礼する。

国王は穏やかな目を向けた。

「遅くにすまぬな」

「急ぎと聞いたものだから来たけど……」

リリナは言葉を切った。

「肝心の二人は?」

「まだ――」


そこで、不意に国王のすぐ後ろに控えていた護衛のひとりが動いた。


それはあまりにも自然だった。

いつものように半歩近づいただけに見えた。


次の瞬間、その男の手が懐へ差し入れられる。


短い刃が閃いた。


「陛下!」


叫ぶより早く、その護衛は至近から国王の脇腹を深く刺し貫いていた。


空気が凍る。


国王の身体がぐらりと傾ぐ。

衣の奥から、濃い血が一気に溢れた。


「貴様ッ!」


護衛たちが反応するより先に、リリナが飛び出した。


体を低く落とし、そのまま鋭く踏み込む。

迷いのない蹴りが、裏切り者の横腹へ叩き込まれた。


鈍い音。


男の身体が吹き飛び、床へ叩きつけられる。

刃が手を離れて転がった。


「何をしてるの、取り押さえなさい!!」


リリナの怒声が響く。


護衛が一斉に動いた。

裏切り者へ飛びかかり、側近が国王を支える。

だが、それで終わりではなかった。


外から、鋭い金属音が響く。


誰かが剣を抜いた音。

続いて怒号。

走る足音。

次の瞬間、戸口の向こうで誰かが倒れる鈍い音がした。


「……っ!」


場の空気が一変する。


「殿下、下がってください!」

護衛が前へ出る。


同時に、障子の向こうへ赤い光が走った。


火だった。


一瞬だけ、誰も動けなかった。


それは燭台の火ではない。

あまりにも大きく、あまりにも速い。

木と紙でできた正殿の外縁を、炎が舐めるように這っていく。


「火を――」

側近の声が途切れる。


直後、外から叫びが上がった。


「正殿を押さえろ!」

「戸を閉ざせ!」

「王命は停止された!」


クーデターだと理解した時には、もう遅かった。


戸口が外から押さえられる。

護衛が斬り結ぶ音。

火が広がる音。

木が軋む音。


正殿の空気が、一瞬で戦場へ変わった。


「何をしているの!!」

リリナの声が張り裂ける。

「ここがどこだか分かってるの!?」


だが、返るのは刃の音だけだった。


護衛のひとりが戸を開こうとして、吹き飛ばされる。

別の男が踏み込んできて、その背後に黒装束の兵が続く。


第三王女付きの兵だと分かる者もいた。

分からぬ者もいた。

だが今は、見分ける意味などなかった。


「王を退かせよ!」

「非常時につき、権限は一時移る!」


その叫びに、国王の目が静かに細まる。


「……愚かな」


だが、その声はもう血に濁っていた。


リリナが駆け寄る。

ミュレットも反射的に膝をつく。


「父上!」


国王の身体が、支えきれないほど重く沈む。

衣の内側、脇腹から腹部にかけて深く裂けている。

血の量が多すぎる。

顔色も、呼吸も、目に見えて失われていく。


「しっかりして……!」

リリナの声は鋭かった。

だが、その鋭さは半ば祈りのようでもあった。

「こんなところで、倒れないで……」


国王は薄く目を開ける。

焦点の揺れる視線が、リリナを映した。


「……リリナ」

「喋らないで!」


即座に言い返した声が、そこでわずかに掠れる。


「お願いだから、今は喋らないで」

「……」

「まだ、こんなところで……」


そこまで言って、リリナは言葉を失った。


血が、止まらない。


両手で押さえても、指のあいだから熱いものが溢れてくる。

自分の手が、父の血で濡れていく。

それでもどうにもならない現実だけが、あまりにも早く分かってしまう。


「……嫌よ」


ひどく小さな声だった。


ミュレットは思わず顔を上げる。


リリナが、泣いていた。


声を張り上げるでもなく、取り乱すでもなく、

ただ目の縁からこぼれた涙が、血に濡れた手の上へ落ちていた。


「こんなの、嫌」

リリナは歯を食いしばる。

「まだ、何も終わってない」

「……」

「私、まだ……返せてないもの、たくさんあるのに」


その声は、怒りと悲しみのあいだで引き裂かれていた。


強い女だと、ミュレットは思っていた。

誰より高く顎を上げ、迷いなく命じ、笑い飛ばし、踏み込む人だと。

そのリリナが今、血に濡れた父の身体を抱えたまま、どうしようもなく娘の顔をしていた。


「死なないで」


そのひと言だけ、驚くほど素直だった。


「お願いだから……私を置いていかないで」


ミュレットの指先が震えた。


普通の処置では助からない。


この場にある布と止血だけでは足りない。

たとえ医務官がいても、間に合わない。

もう、それが分かってしまう傷だった。


また、見送るの?


また?


ミュレットの胸の奥で、医務室の記憶が一気に蘇る。


戦場帰りの兵。

血に濡れた寝台。

間に合わなかった夜。

救えたかもしれないのに、救わなかった命。

救えるのに、隠すために見送った人たち。


アランの顔がよぎる。


あの人の声。

指輪。

抱きしめてくれた腕。


この力を使えば、もう隠れてはいられない。

知られる。

見つかる。

争いを呼ぶ。

逃げるために選んだ道が、ここで終わる。


それでも。


ミュレットは一歩前へ出る。


喉が震える。

手も震える。

それでももう、止まれなかった。


「ごめんなさい、アラン様――」


小さく、そうこぼす。


誰に向けた謝罪なのか、自分でも分かっていた。


逃げるために離れたのに。

隠れたままでいるためにここまで来たのに。

その全部を、今ここで自分から捨てる。


ミュレットは膝をついた。


国王の傷へ、両手を重ねる。


次の瞬間、光があふれた。


やわらかい癒やしではない。

凛とした、強い光だった。


その場にいた者たちが、息を呑む。


裂けた肉が結び直されていく。

流れていた血が止まる。

途切れかけていた呼吸が、苦しげながらも戻ってくる。


国王の胸が、浅く、しかし確かに上下した。


死の淵に落ちかけていた命が、引き戻される。


護衛も、侍女たちも、誰一人として言葉を発せなかった。


リリナだけが、目を見開いたままミュレットを見ていた。


「……あなた」

その呟きは、驚きとも、理解ともつかない。


ミュレットの額には汗がにじんでいた。

火の熱だけではない。

魔力の消耗と、隠してきたものをついにさらした感覚が、全身を冷たくする。


その時だった。


ぱち、

ぱち、

ぱち。


不釣り合いなほど乾いた拍手が、燃え盛る正殿の奥から響いた。


場の全員が、はっとそちらを見る。


炎に照らされた廊下の向こう。

煙をかき分けるようにして、黒い布で顔を半ば覆った男が立っていた。


拍手は止まる。

だが、その気配には妙な納得があった。


まるで、この瞬間を待っていたような。


ミュレットの背筋が、ぞくりと冷える。


知らない。

そう思いたかった。

けれど、立ち方だけで胸の奥がざわついた。


男の背後には、さらに数人の黒装束がいる。

兵の混乱に紛れて入り込んだ、別の目だった。


リリナが先に反応した。


「誰」

低く鋭い声だった。

「何者なの」


男は答えない。


ただ、火の明かりの中で、ゆっくりと一歩だけ前へ出た。


その瞬間、侍女の一人がリリナの前へ動いた。


それとほとんど同時だった。


黒装束のひとりが腕を振る。

鋭い軌跡が走る。


「殿下!」


侍女がリリナを押しのける。


飛んだ刃は、侍女の肩口を浅く裂いた。

悲鳴とともに、その身体がよろめく。


同時に、押しのけられたリリナも避けきれず、別の刃が太腿をかすめた。


「……っ!」


リリナが膝をつく。

床へ血が落ちた。


「リリナ!」

ミュレットは反射的にそちらへ手を伸ばす。


王は救った。

次はリリナ。

侍女も傷を負っている。

なのに、黒い男たちの視線は、王でもリリナでもなく、ミュレットへ集まっていた。


その事実が、何より怖かった。


狙いは最初から、こちらなのだと分かってしまう。


「逃げなさい!! ミュレット!!」


リリナの声が、火の音を裂いた。


痛みに顔を歪めながらも、彼女はミュレットを睨むように見上げている。


「……でも!」

「いいから行け!!」


その時、壊れた格子の向こうから、白いものがふわりと吹き込んだ。


灰かと思った。

だが頬へ触れたそれは、冷たかった。


雪。


初雪だった。


燃え上がる正殿の中へ、白いひとひらが静かに舞い込んでくる。


火の赤と、雪の白。


その取り合わせがあまりにも異様で、ミュレットは一瞬だけ息を呑んだ。


次の瞬間、天井が軋んだ。


「下がれ!」

護衛の怒声。


梁が落ちる。


火の粉が散り、煙が一気に濃くなる。

視界が白と赤でぐしゃりと歪んだ。


ミュレットは咳き込みながら、半ば反射的に後退した。

リリナへ戻ろうとした足を、崩れた木片が阻む。


向こうで、リリナがまだ何か叫んでいる。

侍女たちが彼女を引き起こそうとしている。

だが炎の壁が、そのあいだへ入り込む。


「逃げなさい!!」


もう一度、リリナの声が響く。


それは命令だった。

王女としてではなく、自分の意思でミュレットを生かそうとする声だった。


ミュレットは唇を噛んだ。


王を救った。

力は見られた。

もう隠しようがない。


それでも、ここで捕まるわけにはいかない。


燃え盛る廊下の奥、まだ火の薄い道を見つける。

黒い布の男は、煙の向こうでこちらを見ていた。

追ってくるつもりなのだと、言葉より早く分かった。


ミュレットは喉もとの指輪へ一瞬だけ触れる。


ごめんなさい。


胸の奥でそう呟き、火の中へ駆けた。


背後では、まだ正殿が燃えている。

雪は、祝福ではなく、炎に照らされる王宮の上へ、あまりにも静かに落ちていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ