表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/80

Episode 63. 正殿の火種



その日、御殿の空気は朝から少し違っていた。


普段なら、風の通る廊を行き交う侍女たちの声はもう少しやわらかい。

花を入れ替える手つきも、茶を運ぶ足取りも、ここまで張りつめてはいない。


それなのに今日は、誰もが無駄に音を立てまいとしているようだった。


何かあるのだと、ミュレットにもすぐ分かった。


昼前、リリナ付きの年嵩の侍女が、静かな声で告げた。


「本日は、正殿の東小議の間へお供を」

「……正殿、ですか」

「ええ」


正殿。


エルニア王宮の中心にあり、王族が公私の境をまたぐ話し合いに使う棟だ。

大広間ほど開かれてはいない。

だが、ただの私室でもない。


つまり、身内の話でありながら、国の行く末に関わる種類の会談だということだった。


その意味を、ミュレットはまだ完全には掴めていなかった。

だが、控えの侍女たちの緊張を見れば、それが軽い集まりでないことだけは分かる。


やがて、リリナが現れた。


今日はいつもの軽やかさを纏いながらも、どこか張った空気を隠していない。

淡い色の衣に、黒髪と古風な耳飾りがよく映える。

けれど、美しいという感想より先に、王女なのだという事実のほうが強く迫ってくる顔だった。


「そんなに固くならなくていいわよ」

リリナはミュレットを一瞥して言う。

「私は、固くありません」

「そういう返事をする時点で固いの」

「……」

「まあいいわ。今日は給仕だけしてればいいから」

「はい」

「ただし、耳は閉じなくていい」

「……え」

「聞こえるものは聞こえるでしょう」

リリナは少しだけ口元をゆるめた。

「それもお勉強よ」


そう言って歩き出す。


正殿へ続く廊は、御殿の他の場所よりもいっそう木の香りが濃かった。

磨かれた床板。

格子の向こうに揺れる庭木。

風に乗って流れてくる花の匂い。


威圧のための豪奢さではない。

だが、静かに人を正させるような品格があった。


東小議の間には、すでに国王がいた。


年を重ねてなお背筋はまっすぐで、顔立ちは穏やかだ。

だがその穏やかさの下には、簡単には揺れぬ芯が通っている。

リリナが父に似ているのだと、ミュレットは初めてはっきり思った。


その少し下座に、二人の王女が並んでいる。


第二王女は、冷えた刃のような女だった。

整った姿勢、無駄のない視線、感情を押し込めた理知的な顔。

対して第三王女は、同じく美しいが、輪郭に熱がある。

感情を隠しきらず、今にも前へ出そうな勢いがあった。


姉妹でありながら、燃え方の違う火だと、ミュレットは思う。


給仕の位置に控えると、ほどなく国王が口を開いた。


「始めよう」


短いその一言で、部屋の空気がさらに張る。


最初に話し始めたのは、第二王女だった。


「帝国の動きは、もはや牽制の域ではありません」


声音は静かで、むしろ穏やかですらあった。


「周辺諸国への圧迫は年ごとに強まり、西方の街道にも影響が出始めています」

「……」

「クレスティアもまた、武力を背景に均衡を保っている国です」

「……」

「我が国が今のまま、理念と外交だけで立ち続けられる保証はございません」


第三王女が、間を置かずに続ける。


「国境警備の増強、常備兵の拡大、徴発枠の見直し、加えて有事の際の戒厳権限の強化をお認めください」


その声には、隠しきれぬ苛立ちが滲んでいた。


「父上は甘すぎるのです……!」

「……」

「平和を願うだけで国が守れるなら、誰も苦労しません!」

「……」

「侵略される前に備えるべきです。兵を増やし、武具を整え、国境の備えを倍にする」

「……」

「いざという時、祈りで城壁は立ちません」


ミュレットは思わず、息を浅くした。


クレスティアの名が、外からはこう響くのかと思った。


自分にとっては居場所であり、アランのいる国であるその名前が、ここでは帝国と並べて、脅威になりうる力として置かれている。


国王はすぐには口を開かなかった。

その沈黙のあいだに、部屋の温度だけがゆっくり下がっていく。


やがて、低い声が落ちた。


「軍を拡げれば、安心できるか」


第二王女が即座に答える。


「少なくとも、何も持たぬよりは」

「違う」

国王は静かに言った。

「問うているのは、そこではない」

「……」

「国を守るために、先に国を痩せさせてどうする」


第三王女の眉が動く。


国王は続けた。


「エルニアは大国ではない」

「……」

「帝国と同じ土俵で軍拡を競えば、先に疲弊するのは我らだ」

「……」

「税は民へ落ちる。兵糧は畑から消える。鍛えるべき力のために、人々の生活が貧しくなる」

「……」

「我々が成すべきことは、畑を守り、冬を越す糧を守り、子どもが眠れる夜を守ることだ」


第二王女は目を伏せなかった。


「その平穏を守るために剣が要るのです!」

「……」

「帝国が侵攻し、クレスティアの剣がこちらへ向いた時」

「……」

「誰が民を守るのです!」


そこで、リリナが口を開いた。


「誰も、理念だけで国を守るなんて言ってない」


王女らしからぬ、あまりにもまっすぐな言い方だった。


「でも、恐怖に対して恐怖で返し始めたら、終わりよ」

「姉上」

第三王女が鋭く返す。

「終わるのは、むしろ剣も持たずに綺麗事を言っている国です」

「綺麗事?」

リリナの口元がかすかに笑う。

「軍を増やせば安心できるなら、帝国はとっくに幸福な国でしょうね」

「……」

「そうじゃないから、あれほど歪んでるんでしょう」


第三王女の目が険しくなる。

だが、リリナは止まらなかった。


「私たちが守りたいのは、地図の線だけじゃない」

「……」

「女も、男も、子どもも、年寄りも。誰かの怯えを餌にして立つ国にしたくないの」

「……」

「エルニアはそういう国じゃないでしょう?」


第二王女が、はじめてわずかに声音を硬くした。


「だからこそ危ういのです」

「……」

「我らの国は、他国の野心と力のあいだで均衡を保つしかない」

「……」

「理想を掲げるのは結構です。ですが、理想が剣を折っては本末転倒でしょう」


その言葉には理があった。


ミュレットは、給仕のための水差しを持ったまま静かに立っていた。

どちらが正しいのか、自分には簡単には分からない。

ただ、誰もが本気なのだということだけは、痛いほど伝わってくる。


第三王女が前へ身を乗り出す。


「帝国は待ってくれません」

「……」

「そしてあのアラン・クレスティアの剣も、いつこちらへ向けられるのか分からないのです!」

「……」

「武を整えることは、戦を望むことではない」

「……」

「侵略される前に、それを塞ぐ対策をすべきと言っているだけです!」


その瞬間、ミュレットの胸が小さく痛んだ。


アラン・クレスティアの剣。

他国から見れば、彼の方はそう映るのだ。

守りの象徴であると同時に、向きが変われば脅威にもなるものとして。


国王が深く息を吐いた。


「備えは要る」

「……」

「だが、備えと軍拡は違う」

「……」

「恐怖を理由に剣を増やし始めれば、その恐怖は国の内側でも育つ」

「……」

「余に必要なのは、民が明日も生きようと思える国だ」

「……」

「兵の数だけでは、それは作れぬ」


部屋の空気がぴんと張る。


第二王女は、静かに膝の上で指を組んだ。

第三王女は、扇を握る手に力を込めている。


その緊張を断つように、リリナが言った。


「外交で繋ぐ道はまだ残ってる」

「……」

「交易も、人の往来も、国同士の約束も」

「……」

「力しかないと思い込むほうが危険よ」

「……」

「私たちまで、帝国の論理に引きずられる必要はないでしょう」


第三王女が、低く、ほとんど怒りを押し殺した声で返す。


「ではどうしろと!?」

「……」

「このまま座して待てと?」

「……」

「帝国も、クレスティアも、強国は皆“守るため”を口にして剣を持つ!」

「……」

「小国の我々だけが理想を掲げて何になるのです!」


静寂。


長い、長い沈黙のあと、国王が結論を告げた。


「大規模な軍拡は認めぬ」


その一言で、部屋の空気が決まる。


「国境警備の見直しは行う」

「……」

「徴兵の拡大も、軍備の急増も、今は不要だ」

「……」

「内政を乱してまで剣を増やすことはせぬ」

「……」

「そのうえで、諸国との対話の道を探る」


第二王女は、ゆっくりと立ち上がった。

礼は美しい。

けれど、その沈黙は従った者のものではない。


第三王女も続いて立つ。

扇を閉じる音が、小さく、硬く響いた。


そして、第二王女が静かに言った。


「……我々に、残された時間は多くないのです」


第三王女が、国王でもリリナでもなく、部屋そのものへ言い聞かせるように重ねる。


「備えぬまま奪われてからでは、何も守れません」


二人はそれ以上何も言わず、揃って小議の間を去っていった。


扉が閉まる音が、妙に遠く聞こえた。


しばらく、誰も動かなかった。


やがて国王が、深く、疲れたように息をつく。


「……茶を」


その一言で、張りつめていた空気が少しだけ動く。


ミュレットははっとして前へ出る。

震えそうになる指先を抑えながら、茶を注ぐ。


国王は受け取り、リリナへも顎を振った。

リリナは無言で茶杯を取り、そのまま一息に近い速さで口をつける。


国王はそれを見て、わずかに苦く笑った。


「お前も少しは抑えろ」

「抑えてあれよ」

リリナは肩をすくめる。

「十分親切だったと思うけど」

「そうか」

「そうよ」


だが、その軽口の下にも疲労は隠れていなかった。


国王はミュレットには何も問わなかった。

ただ一度だけ視線を向け、そのまま静かに茶を飲んだ。


それだけで十分だった。

この場に控えていたことを、咎められてはいないのだと分かる。


会談が終わり、小議の間を辞して正殿の廊へ出る。

外の風は少し冷たくなっていた。


しばらく歩いてから、リリナがぽつりと言った。


「見たでしょ?」

「……はい」

「家族って面倒なのよ」

「……」

「でも、あの二人が全部間違ってるわけじゃない」


ミュレットは顔を上げる。


リリナは前を見たまま続けた。


「思いは同じ筈なのにね……」


その声は、さっきまで議場にいた王女のものとは違っていた。

姉として、妹たちを見つめる人の声だった。


「守りたい」

「……」

「戦いたくない」

「……」

「平和に暮らしたい」


風が、木の香りを運んでくる。


ミュレットは静かにその言葉を飲み込んだ。


エルニアは、ただやさしい国ではない。

やさしさを守るために、どこまで力を持つべきかで揺れている国なのだ。


リリナは歩みを緩めずに言う。


「戦争なんて、もうこりごり」


ミュレットは答えなかった。

けれど、その言葉は胸の奥へ静かに残った。


クレスティアを離れて初めて、外から国を見る。

外からアランの立つ場所を見る。

そのことが、いままで知らなかった痛みと理解を、少しずつ自分へ運んでくる。


廊の先には、夕暮れの庭が見えていた。

風に揺れる花は穏やかで、それなのに、その下では確かに火種がくすぶっている。


エルニアの空はまだ静かだった。

だが、その静けさは、もう永くは続かないのかもしれなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ