Episode 62. 湯けむりの夜話
エルニアの御殿での暮らしが始まって、二週間が過ぎていた。
最初は何もかもが異国だった。
木の廊。
風の通る広間。
花の匂い。
王族の住まう場所でありながら、どこか人の暮らしの温度が近い空気。
クレスティアとの違いにも少しずつ慣れてきていた。
朝に使う茶器の並び。
昼に人が集まる中庭。
夕方になると西の回廊がよく光ること。
そして、リリナが一見気ままに見えて、意外と周囲をよく見ていること。
侍女たちの輪の中にも、まだ端ではあるが、立てる場所ができ始めていた。
頼まれたことをこなし、花を整え、茶を淹れ、必要そうなものを先に揃える。
そうして動いている間は、余計なことを考えずに済む。
その日も、夕暮れ前まで慌ただしく手を動かしていた。
やがて一息ついた頃、リリナがふいに言った。
「ミュレット」
「はい」
「今日はもう終わりにしなさい」
「え?」
「湯殿へ行くわよ」
あまりにも当然の口調で言われて、ミュレットは目を瞬いた。
「あなたはここ数日、真面目に働きすぎ」
「そんなこと」
「ある!」
リリナは断言した。
「考えないように手を動かして、疲れてる……それに寝不足!」
図星だった。
ミュレットが返事に詰まっていると、リリナは少しだけ笑って続けた。
「エルニアはね、景色を見ながら大きなお風呂に入るのが文化なの」
「景色を、見ながら?」
「そう。閉じた石の浴場もあるけど、うちは湯殿に風を通すのが好き」
「……」
「疲れたらまず湯。話はそれから。そういう国よ」
そう言われてしまうと、断る理由が見つからない。
結局、ミュレットはリリナに連れられて、御殿の奥にある湯殿へ向かった。
そこは思っていたよりもずっと広く、開けた場所だった。
石と木を組み合わせた造りで、湯舟の向こうには夜へ向かう庭が見える。
空はまだ濃い藍にはなりきっておらず、残った光が木々の輪郭をやわらかく浮かべていた。
湯気の中には、甘すぎない花の香りがかすかに混じっている。
「……きれい」
思わず零すと、リリナが先に湯へ入りながら言った。
「でしょう?」
「こんなに開いているのに、落ち着くんですね」
「閉じ込められてるみたいな湯より、こっちのほうが息がつけるもの」
「……」
「外の景色を見ながら湯に入ると、頭の中まで少し広くなるのよ」
ミュレットもそっと湯に身を沈めた。
あたたかさが肩から胸へ、ゆっくりと降りていく。
固くなっていた身体が、思った以上に冷えていたのだと、入ってから気づいた。
「……ほっとします」
「でしょうね」
リリナは湯の縁に腕を乗せる。
「あなた、気を抜くの下手そうだもの」
「そんなことは」
「あるわよ」
「……」
「真面目な子って、だいたい湯に入った時の顔で分かるの」
ミュレットは少し困って、湯の表面へ目を落とした。
湯気の向こうに、薄く花びらが浮いている。
ひとつひとつは小さいのに、それだけで空気がやわらかく見えた。
しばらくは、他愛のない話をした。
エルニアの侍女たちが思ったより口が達者なこと。
料理人が、リリナの好き嫌いを本人より周囲のほうが正確に把握していること。
庭師が花の話になると途端に早口になること。
そのうち、話はいつしかミュレットの仕事ぶりへ移っていった。
「侍女たち、あなたのこと気に入ってるわよ」
「……そうでしょうか」
「お茶ひとつでだいぶ評価が変わったわね」
「……」
「あれは反則よ」
「反則?」
「そう。あんなにちゃんとおいしいお茶出されたら、そりゃ皆ころっといくわ」
ミュレットは少しだけ頬を伏せた。
お茶のことを言われると、どうしても思い出す。
静かな声。
湯気の向こうの横顔。
急がなくていい、と教えてくれた低い言葉。
うれしかった。
役に立てたことが。
でも、その嬉しさの根にあるものがアランに繋がっているから、素直に笑いきれない。
その沈黙を見て、リリナがふいに横目を寄越した。
「……やっぱり……」
「え?」
「お茶」
「……」
「誰に教わったの」
「……」
「答えなくても分かるけど」
ミュレットの肩が、ごく小さく揺れた。
リリナは少しだけ間を置いてから、湯に指先を遊ばせながら言った。
「アラン・クレスティア、あんな奴の何がいいんだか」
ミュレットは勢いよく顔を上げた。
「……え」
「無口で無愛想で、仕事にしか脳のない男でしょ?」
「……」
「女の気持ちなんて半分も分からなそうだし」
「……」
「いや、半分どころか三分の一も怪しいわね」
あまりにも迷いのない言い方に、ミュレットは返す言葉を失う。
リリナは涼しい顔のまま続けた。
「前にね、形式上だけ、一度あの男と縁談話が上がったことがあるのよ」
「えっ!?」
驚いた拍子に、湯の表面が小さく揺れた。
長い黒髪。
耳元で揺れていた、見慣れない古風な耳飾り。
白い卓布の向こう、整えられた小食堂で、アランの向かいに静かに座っていた後ろ姿。
派手ではないのに、妙に目を引く品のよさ。
楚々としているだけではない、芯の強そうな気配。
あのとき、ひと目見ただけで胸が沈んだ女。
「……あの時の……」
ミュレットが呆然と呟くと、リリナはきょとんとした顔をしたあと、すぐに気づいたように笑った。
「あら、見てたのね」
ミュレットは言葉を失う。
あのときアランの向かいにいた縁談相手は、リリナだったのだ。
「そんなに驚く?」
「……驚きます!」
「別に本気じゃないわよ。王族同士、一応顔を合わせておきましょうっていう、それだけ」
「……」
「でも食事はしたわ」
「……」
「つまらなかった」
即答だった。
ミュレットは目を瞬く。
「つまらなかった、ですか」
「ええ」
リリナは本気で嫌そうに眉を寄せた。
「あの男と食事してるとね、会話じゃなくて尋問でも受けてる気分になるのよ」
「……」
「“そうか”“分かった”“好きにしろ”で生きてる男と、何をどう楽しめっていうの」
「……」
「壁と食事してるほうが、まだ気楽だったわ」
ミュレットは困ったように口を閉じる。
だが、胸の奥が少しだけむずがゆくなった。
否定はできない。
たしかに。
たしかにそういうところはある。
あるのだが。
「……でも」
「何?」
「やさしいんです」
思ったより早く、言葉が出た。
リリナが片眉を上げる。
「へえ」
「言葉は少ないですけど」
「うん」
「不器用で、分かりにくくて、困ることもありますけど」
「うん」
「でも、ちゃんと見てくれるんです」
湯気の向こうで、自分の声が少しずつ熱を持っていくのが分かった。
「何も言わないように見えても、ちゃんと見ていてくれて」
「……」
「わたしが平気なふりをしていても、気づいてくれて」
「……」
「一番つらい時に、いていいって言ってくれて」
「……」
「守ろうと、してくれて」
そこでミュレットは、言葉を切った。
守ろうとしてくれた。
そのことが嬉しくて、同時に苦しかった。
だから離れたのだと、そこまで口にしてしまいそうになる。
リリナはしばらく黙っていたが、やがて呆れたように息をついた。
「あなた、そういう分かりにくい優しさに弱いのね」
「……そうなのかもしれません」
「私だったら、もう少し分かりやすい男を選ぶわ」
「……」
「せめて、人に言葉を渡す気のある男がいい」
「……」
「気づいてるなら最初から言いなさいよ、って思うもの」
「……はい」
思わず小さく返すと、リリナは少しだけ肩をすくめた。
「でも、まあ」
そこで言葉を区切り、リリナは湯の表面を軽く指で揺らした。
「そこまで言うなら、あなたには本当にやさしいんでしょうよ」
「……」
「少なくとも、形式上の食事会で壁以下だった男を知ってる私より、あなたのほうがよほどまともな顔を見てる」
「……」
「そうじゃなきゃ、あなたがそこまで庇うわけないもの」
その言い方は、意外なほどやわらかかった。
ミュレットは少しだけ目を伏せる。
知っている。
きっと、誰よりも。
でも、全部を知っているわけではない。
アランの背負うものも、国の重さも、まだきっと半分も分かっていない。
そのことを思うと、胸の奥がまたきりきりと痛んだ。
「……本当は」
声が自然に零れる。
「離れたくなかったんです」
「……」
「そばにいたかった」
「……」
「でも、わたしがいると、あの人はきっと何度でもわたしを守ろうとするから」
「……」
「そのたびに、傷つくかもしれない」
「……」
「その人のまわりまで、巻き込むかもしれない」
言ってしまうと、改めてその重さが胸にのしかかる。
リリナは少しだけ真顔になった。
「好きだから離れる、ね」
「……」
「ほんと面倒」
「……すみません」
「だから、謝るなって言ってるでしょ」
ぴしゃりと言われて、ミュレットははっとする。
リリナは肩まで湯に沈み直し、ふっと息を吐いた。
「でも、あなたがそうしないと立っていられなかったなら、仕方ないんでしょうね」
「……」
「あの無愛想な男が焦ってる姿は見てみたいけど」
その言い方が、優しいのか雑なのか分からなくて、ミュレットは少しだけ笑ってしまった。
「笑ったわね」
「……少しだけ」
リリナは口角を上げた。
そして、いかにも軽く言う。
「どのみち、あんな男よりいい男なんて山ほどいるわ」
「……」
「顔がよくて剣が強いだけで、肝心なことを言わない男に人生を預ける必要なんてないの」
「……」
「次を探しなさい」
「……」
「今度はちゃんと、好きなら好きって言葉にできる男を」
「……」
「そのくらいなら、私が責任もって手伝ってあげる」
ミュレットは、その言葉に少しだけ目を見開いた。
次。
考えたことは、ないわけではなかった。
けれど本気で考えようとした途端、胸の奥がひどく痛んで、すぐにやめてしまう。
それでも今、リリナにそう言われると、不思議とただ苦しいだけではなかった。
乱暴で、容赦なくて、でも前を向けと言われているのだと分かるからかもしれない。
ミュレットは小さく笑った。
「……はい」
「うわ」
リリナが目を丸くする。
「そこで“はい”って言うの?」
「……言ってみたくなって」
「ふふ」
リリナは肩を揺らす。
「あ、その台詞、あの男に聞かせてやりたいわね」
「……」
「きっと顔に出さないで固まるわよ」
「……少し、見てみたいです」
「でしょう?」
二人で顔を見合わせて笑う。
その笑いのあと、湯気の向こうに静かな夜が戻ってくる。
全部が軽くなったわけではない。
指輪はまだ胸元にある。
忘れられないものも、変わらない。
アランを想えば、やはり今も苦しい。
でも、その苦しさを誰かの前で言葉にしたことで、胸の中の息苦しさがほんの少しだけ和らいでいた。
湯から上がり、夜気に触れると、火照った肌に風が心地よかった。
御殿へ戻る廊下の途中で、リリナがふと足を止める。
「ミュレット」
「はい」
「言ったら泣きそうなことも、腹が立つことも、未練たらしいことも」
「……」
「本人には言えないことも」
「……」
「仕方ないから、私が全部聞いてあげる」
その言葉に、ミュレットは少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「お礼を言えるようになったことは褒めてあげる」
リリナは満足そうに頷き、先へ歩いていく。
その背を見ながら、ミュレットはそっと喉もとへ手をやる。
細い輪は、今夜もそこにあった。
まだ切れていない。
まだ忘れられない。
たぶん、これからもしばらく忘れられない。
でも、ひとりで抱えているだけではなくなった。
それだけで、異国の夜は少しだけやさしかった。




