Episode 61. 御殿の侍女
エルニアの御殿は、クレスティアの王城とはまるで違っていた。
まず、音が違う。
石に跳ね返る硬い足音ではなく、木の廊を伝うやわらかな響き。
吹き抜ける風の音も、どこか近い。
中庭を囲む回廊には草木の匂いが混じり、窓辺や柱のそばには季節の花が当たり前のように置かれている。
威厳がないわけではない。
ただ、それを圧で見せる場所ではないのだと、入ってすぐに分かった。
木で組まれた高い天井。
日を取り込む広い窓。
人の気配と風が、城の中で閉じきらずに動いている。
「そんなにきょろきょろしなくても、誰も食べないわよ」
前を歩いていたリリナが振り返る。
「……き、気になってしまって」
「そう?」
「いえ、その……思っていたより」
「あたたかい?」
「はい」
リリナは少しだけ笑った。
「石で威圧する趣味がないのよ」
その言い方に、国そのものへの親しみが滲んでいた。
御殿の奥へ進むにつれ、働く女たちの姿が目に入る。
侍女だろう。
皆、手を止めることはしない。
けれど王女が通れば、きちんと礼は取る。
その姿に、ミュレットはひそかに目を見張った。
誰も、おどおどしていない。
張りつめてもいない。
ただ、自分の仕事を当然のようにこなしている。
クレスティアの侍女たちも有能だった。
でも、空気が少し違う。
ここでは女たちが、誰かの機嫌を損ねないために動くのではなく、
自分の持ち場を守るために立っているように見えた。
「リリナ様」
年嵩の侍女が歩み寄り、深く頭を下げる。
だが、その礼は必要以上に低くない。
美しく整っていて、どこか誇りがある。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。部屋は」
「すでに整っております」
「ありがとう」
リリナは当然のように礼を返した。
ミュレットはそのやり取りを見て、また少し驚く。
王女と侍女。
上下はある。
けれど、そこにただの支配はない。
「ほら、あなたも」
リリナが振り向く。
「突っ立ってないで入りなさい」
ミュレットははっとして、後を追った。
通されたのは、リリナの私室へ続く控えの間だった。
広いが、豪奢すぎない。
木の机、低い長椅子、花の置かれた窓辺。
そこにも風が通っていた。
「ここで少し落ち着きなさい」
「……はい」
「そのあと話すわ」
言われるまま、ミュレットは椅子へ腰を下ろす。
ようやく長い移動の終わりを身体が理解したのか、力が抜けるようだった。
それでも落ち着く暇もなく、頭の片隅では別のことが渦巻いていた。
本当に、ここにいていいのだろうか。
異国の御殿。
第一王女の私室。
自分のような得体の知れない女が、簡単に入ってよい場所ではないはずだ。
喉もとの指輪に触れそうになって、ミュレットは手を膝の上で止めた。
しばらくして、侍女たちが湯と着替えを運んできた。
簡素だが清潔な衣。
旅装のままではいられないということだろう。
ミュレットは立ち上がりかけて、ためらう。
その様子を見ていたリリナが、何でもないように言った。
「言っておくけど、しばらくは私付きの侍女見習いってことにするわ」
「……え」
「客人扱いで囲っておけば、余計に詮索されるもの」
「……」
「事情のある娘を、私が拾って連れてきた。表向きはそれで十分」
「……」
「働けるなら働いてもらう。そのほうが自然でしょ」
あまりにさらりと言われて、ミュレットは少しだけ息を詰めた。
「……あの」
「何?」
「良いのでしょうか」
「何が」
「いきなり侍女、なんて……」
言ったあとで、自分でも少しおかしいと思った。
もっと言うべきことは他にあるはずなのに、出てきたのはそんな言葉だった。
だが、リリナはぴたりと動きを止めた。
そして次の瞬間、ぐいと顔を寄せてくる。
「じゃあ何?」
「……え」
「初めて足を踏み入れる異国の路地裏に、あなたを捨てろっていうの?」
思った以上の勢いに、ミュレットは目を見開いた。
近い。
声は低いのに、妙に迫力がある。
「そ、そういう意味では」
「そうとしか聞こえないわね」
「……」
「あなた、今の自分がどれだけ危なっかしいか、分かってる?」
「……」
「ここに座ってるだけでも、落ち着かない顔してるくせに」
図星だった。
ミュレットは言葉に詰まる。
リリナは腕を組み、少しだけ呆れたように続けた。
「働けるなら働けばいいの!」
「……」
「そのほうがあなたも落ち着く」
「……」
「それに、うちとしても助かる。ちゃんとした子がひとり増えるんだから」
言い方は軽い。
でも、その奥には、ここにいていいと言われているのと同じ響きがあった。
ミュレットは小さく息を吸う。
「……ご迷惑では」
「今さらぁ〜?」
リリナは肩をすくめた。
「拾った時点で、もう面倒ごと込みよ」
「……」
「だから、そこで遠慮されるほうが面倒」
その言葉に、ミュレットはほんの少しだけ笑ってしまう。
笑ったのを見て、リリナの目がやわらいだ。
「で?」
「……」
「やるの、やらないの」
「……やり、ます」
「よろしい」
答えたというより、言わされたに近かった。
それでも、その“言わされた”こと自体に、どこか救われている自分がいた。
それからの時間は、思ったより慌ただしかった。
リリナ付きの侍女見習いとして、しばらく控えに入る。
身元の細かな説明は伏せる。
外から連れてきた、事情のある娘。
それ以上は明かさない。
侍女たちは露骨には聞かなかった。
だが、視線の端にわずかな警戒はあった。
それも当然だと、ミュレットは思う。
だからこそ、余計な言い訳はしなかった。
ただ、与えられたことをきちんとこなそうと決める。
着替えを整える。
水差しを運ぶ。
使い終えた布を畳む。
花を置き直す。
人の動きを見て、必要なものを先回りして揃える。
身体が覚えていた。
クレスティアで働いていた日々が、自然に手を動かす。
医務室での補佐。
侍女たちの手伝い。
庭の世話。
そうした時間が、いま異国の御殿で、ひとつずつ形になっていく。
「……慣れているのね」
若い侍女のひとりが、思わずというように呟いた。
ミュレットは手にしていた布を整えながら、少しだけ視線を上げる。
「以前、少し働いていたので」
「少し、でこれ?」
別の侍女が言う。
「水の置き方も、花の扱いもきれい」
「……」
「リリナ様、拾うもの間違えてません?」
「間違えてないわよ」
すかさずリリナが口を挟む。
その声音には、少しだけ得意げな響きが混じっていた。
ミュレットは少しだけ頬が熱くなる。
褒められることに慣れていないわけではない。
でも今は、どこかむずがゆかった。
仕事をすることで落ち着ける。
そのことが自分でも分かる。
何もせず守られているだけでは、かえって苦しい。
手を動かしているほうが、心の置き場ができる。
午後になって、茶の支度の時間が来た。
ちょうど侍女の一人が別の用で手を離せず、卓の前が少しだけ慌ただしくなる。
それを見ていたリリナが、何気なくミュレットへ視線を向けた。
「あなた、お茶は?」
「……淹れられます」
「ほんとに?」
「本当です!」
「ふぅん」
リリナは口元をゆるめる。
「じゃあ、お願い」
ミュレットは一瞬だけ、手を止めた。
湯気の立つ茶器。
茶葉の香り。
その光景に、胸の奥がかすかに揺れる。
アランに教わったのだ。
熱すぎる湯では駄目だと言われたこと。
待つ時間を急がなくていいと教えられたこと。
香りは最初の立ちのぼりで分かると、低い声で静かに言われたこと。
あの人の手元はいつも落ち着いていた。
無駄がなくて、せっかちでもなくて、見ていると不思議と呼吸が整うような手だった。
「ミュレット?」
リリナの声で、意識が戻る。
「……はい」
ミュレットは静かに前へ出た。
湯を確かめる。
茶葉を入れる。
待つ。
香りがひらくのを見て、器へ注ぐ。
やり方は、身体に残っていた。
忘れようとしても忘れられなかったことの一つが、こういう形で自分を助けるのだと思うと、少しおかしくて、少しだけ苦しかった。
茶を差し出す。
最初に口をつけたのはリリナだった。
「……あら」
その一言に、侍女たちの目が集まる。
リリナはもう一口飲んで、目を細めた。
「おいしい」
「……」
「何これ、ちゃんとしてる」
「ちゃんと、ですか」
「そう。適当に淹れた味じゃない」
侍女たちも続いて飲み、驚いたように顔を見合わせる。
「ほんとだ」
「香りがきれい」
「苦くないのに薄くもない……」
「あなた、本当に“少し”しか働いてないの?」
ミュレットは返事に困った。
うれしかった。
素直に。
役に立てたことが。
でも同時に、その味がアランと繋がっていることが、胸の奥を静かに締めつける。
自分の中に、まだあの人がいる。
忘れられないだけじゃない。
教わったことが、いまの自分を支えている。
それが少しだけうれしくて、少しだけ泣きたくなる。
「……前に、教わったことがあって」
それだけ言うと、リリナは何も聞かなかった。
聞かなかったが、全部察したような顔をした。
「へえ」
それだけ言って、茶杯を置く。
「じゃあ、今後もお願い」
「……はい」
「うちの侍女たち、働き者だけど茶に関しては雑なのよ」
「聞こえてますけど」
侍女の一人が抗議する。
「聞かせてるの」
「ひどい」
「事実でしょ」
「……否定はしませんけど」
小さな笑いが起きた。
その中に、自分も少しだけ混ざっていることに、ミュレットはあとから気づいた。
夕方になるころには、侍女たちの視線はもう朝ほど硬くなかった。
「この花、どこへ置くのがいいと思う?」
と聞かれたり、
「水差し、そっちお願い」
と自然に頼まれたり、
「あなた、手がきれいね。結び方も上手」
と何気なく言われたりする。
ほんの小さなことばかりだ。
でも、その小ささがありがたかった。
異国の御殿で、いきなり全部が馴染むはずはない。
それでも、自分の居場所の輪郭がほんの少しだけ見えた気がした。
夜になって、ようやく自分に与えられた部屋へ戻る。
広くはない。
だが清潔で、窓際には小さな卓と鏡が置かれていた。
侍女が使う部屋としては十分すぎる。
ミュレットは静かに扉を閉める。
一日ぶん張っていた肩の力が、ようやく抜けた。
着替えを済ませる。
髪をほどく。
夜着へ着替える。
鏡の前に立つ。
白い夜着の胸元、その下に隠した指輪の輪郭が、かすかに浮いている。
ミュレットはそっと細紐を引き出した。
小さな輪が、胸元で揺れる。
鏡の中の自分と、その指輪が向き合う。
今日、お茶を褒められた。
仕事も、少しは役に立てた。
知らない侍女たちの中で、完全ではなくても、ひとつ息をつける場所ができはじめている。
それはたしかに、うれしいことだった。
でも、指輪を見ると、どうしても胸が痛む。
アランに教わったお茶の淹れ方。
アランに渡された指輪。
アランの手。
アランの声。
忘れられたわけではない。
忘れたくもない。
むしろ今日一日で、あの人が自分の中にどれほど深く残っているのかを、改めて思い知った。
ミュレットは鏡の中の指輪へ、そっと指先で触れる。
「……おいしいって、言ってもらえました」
言ったあとで、自分でもおかしくなる。
報告したいわけでもないのに、そう言いたくなった。
うれしい。
でも、切ない。
その両方を抱えたまま、ミュレットはしばらく鏡の前に立ち尽くしていた。
異国の御殿で迎える最初の夜。
胸元にある小さな輪だけが、置いてこられなかった想いのように、静かにそこにあった。




