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Episode 60. 国境の花



馬車が宿場を出たのは、朝の冷たさがまだ地面に残っているうちだった。


空は薄く晴れている。

けれど西から吹く風には、冬の輪郭がもう混じり始めていた。


荷を載せた馬車が行き交い、商人たちが道端で声を張る。

宿場の朝は動き出すのが早い。

人も、馬も、荷車も、皆それぞれの行き先へ急いでいる。


そのざわめきの中で、ミュレットだけが妙に静かだった。


喉もとの指輪へ触れたくなるのを、何度もこらえる。

こらえた先から、また指先がそこへ向かう。

もう癖になってしまっているのだろう。


「そんなに固くならないの」


向かいに座ったリリナが言った。


「今さら馬車から飛び降りても、もう遅いわよ」

「……飛び降りません」

「顔はそんな感じだけど」

「そんな顔をしていますか」

「してる」


即答だった。


ミュレットは返事に詰まり、窓の外へ目を向ける。

石造りの家並みが少しずつ遠ざかり、宿場の端を抜けるにつれて、人の声はまばらになっていく。

代わりに、車輪の軋みと蹄の音だけが、規則正しく耳へ残るようになった。


逃げているのだと思う。

それはたぶん、間違っていない。


でも、リリナは言った。


時には逃げるのも、勝つために必要なのよ。


あの言葉を思い出すたび、胸の奥で何かがかすかに形を変える。

ただ追われてここにいるのではない。

ただ流されているだけでもない。


自分で選んで、馬車に乗ったのだ。


東へ戻れば、きっと見つかる。

アランの手は届いてしまう。

クレスティアの中にいる限り、自分はその手を振りほどけない。


戻ったら、もう離れられない。


そのことが嬉しくて、怖い。


「……まだ引き返したくなってる?」


ふいに問われ、ミュレットは肩を揺らした。


「顔に出てた?」

「少しだけ」

「……」

「でも、出るでしょうね」


リリナは外套の襟を整えながら、あっさりと続ける。


「あなた、別に嫌いな相手から逃げてるわけじゃないもの」

「……」

「むしろその逆でしょう」

「……はい」


認めるしかなかった。


馬車の中に、短い沈黙が落ちる。


リリナはそれ以上追及しなかった。

ただ、足を組み替えて窓の外を眺める。


「この先、もうすぐ国境が見えるわ」

「……そんなに近いんですね」

「宿場が西境に近いからね」

「……」

「だから昨日、あそこであなたを拾えたのは運がよかったのよ」

「運、ですか」

「そう」


リリナは少しだけ目を細める。


「冬が深くなったら、街道は細るし、関所は閉まるし、馬車の足も鈍る」

「……」

「今ならまだ越えられるけど、あと少し遅かったら面倒だった」


ミュレットは小さく息を呑んだ。


やはり、急がなければならなかったのだ。

冬が来る前に。

アランの手が届く場所から、離れられるうちに。


その思いを見透かしたように、リリナが言う。


「東の街道、また見張りが増えてたわ」

「……」

「昨日より露骨」

「……私を、探しているんでしょうか」

「名指しじゃないでしょうけど、似たようなものね」


リリナは肩をすくめた。


「若い女ひとりが目立たないほど、あの道は広くないもの」

「……」

「今のあなたが一人で歩いてたら、すぐ拾われる」


それは脅しではなく、事実としての言葉だった。


ミュレットは膝の上で手を握る。


追ってきてほしいと願ってしまう心と、

追ってきてはいけないと拒む心が、

まだ胸の中で絡まっている。


それでも少なくとも、今は前へ進まなければならない。


馬車は西へ進む。


クレスティアの街道は、王都に近いほど石が整えられ、無駄がない。

それが西へ行くにつれて、道の表情が少しずつ変わっていく。

石の固さが土のやわらかさに混じり、路肩には背の低い草が増え、ところどころに小さな花が残っている。


木々の種類も変わってきた。

葉のつき方も、枝の広がり方も、王都まわりとはどこか違う。

ミュレットは知らず知らずのうちに、その風景を目で追っていた。


「花、好きなのね」

リリナが言う。


ミュレットは少しだけ戸惑ってから、頷いた。


「……はい」

「昨日も宿の裏庭の鉢、見てたでしょ?」

「……見ていました」

「好きそうな顔、してた」


そう言われて、ミュレットは少しだけ俯いた。

たしかに見ていた。

花を見ると、どうしても足が止まる。

たとえ今の自分に、そんな余裕がないはずでも。


「エルニアは、花の多い国よ」


リリナは窓の外を眺めたまま言った。


「大国ってほどじゃないし、武力で押し通す国でもないけど」

「……」

「木と風と、咲くものを大事にするの」

「……」

「城も石ばっかりじゃないわ。木造の廊や中庭が多いし、花を飾るのも好き」


ミュレットは静かに聞いていた。


リリナは続ける。


「あと、女だからって妙に縮こまる必要はない国」

「……」

「女も学ぶし、決めるし、立つ。特別なことじゃなく、そういうものとして回ってる」


その言葉には、誇りがあった。

飾っているのではなく、本気でそう信じている人の声だった。


「だから私は、エルニアが好きよ」

リリナは笑う。

「面倒も多いけどね」

「面倒……?」

「人間、皆面倒くさい生き物でしょ?」


その物言いが少し可笑しくて、ミュレットはかすかに口元をゆるめた。


リリナはその小さな変化を見逃さなかったが、何も言わなかった。

代わりに、膝の上へ指を組んで、少しだけ真面目な顔になる。


「エルニアは、強い国ではないわ」

「……」

「少なくとも、クレスティアみたいな意味ではね」

「……はい」

「でも、弱いから価値がないわけでもない」

「……」

「大きな剣がなくても、人が人らしく立って生きていける形を守る国には、それだけで意味があるのよ」


ミュレットは窓の外を見ながら、その言葉を胸の中でゆっくり反芻した。


大きな剣がなくても。

人が人らしく立って生きていける形。


それは今の自分には、少し眩しすぎる言葉だった。

けれど、昨夜の言葉と同じように、どこかで引っかかる。


逃げることも、選ぶこと。

離れることも、勝つための一手。

そう思えたなら、自分は少しだけ違う顔で前を向けるのかもしれない。


馬車は昼近く、国境の関所へ差しかかった。


高い城門のようなものではない。

だが、木と石を組み合わせた造りのしっかりした関所で、往来を監視する兵の目は鋭い。

冬が近いからか、行き交う荷や旅人も少しずつ減り始めている。


ミュレットの心臓が、急に大きく鳴り始めた。


ここを越えたら、本当に遠くなる。


アランのいる国から。

帰ろうと思えば帰れる距離ではある。

けれど、すぐには戻れない場所へ行くのだ。


膝の上で握った手に、力が入る。


リリナはその様子を横目で見ながら、声をひそめた。


「今ならまだ引き返せるわよ」

「……」

「本気でやめたいなら、ここで降りてもいい」

「……」

「でも、越えたらあなたは“追われて逃げた娘”じゃなくなる」

「……え?」

「自分で外へ出ることを選んだ女になるの」


ミュレットは息を止めた。


その言葉は、不思議とまっすぐ胸に落ちた。


追われて、仕方なく逃げてきた。

そう思えば少しは楽だったかもしれない。

でも本当は、自分で選んでここまで来たのだ。

アランの手の届く場所から離れることを。

今は戻らないことを。


それはたぶん、弱さだけではなかった。


馬車は検問を受け、ゆっくりと進み出す。


関所を抜け、車輪が国境を越えた、その直後だった。


がた、と小さく揺れた拍子に、ミュレットの視線が足元の外へ落ちる。


道端に咲いていた、名前も分からない小さな花。

その一輪を、馬車の車輪が容赦なく踏んだ。


ミュレットは思わず息を呑んだ。


白とも薄黄ともつかない、小さな花だった。

クレスティアの庭に咲いていたものとは少し違う。

それでも、名もなく風に揺れる姿はどこか似ていた。


踏まれた花びらが土に散る。


胸の奥が、ひどく痛んだ。


あれは自分かもしれないと思う。

誰にも名を呼ばれないまま、踏まれて終わるもの。

あるいは、どれほど大事に思っていても、越えなくてはならない境目の象徴みたいにも見えた。


その時、リリナが窓の外へ目をやったまま、ぽつりと言った。


「花はね、何度焼かれても、また植え直せるの」

「……」

「国も、人も、それと同じよ」


ミュレットは言葉を失った。


踏まれた花の少し先、道端にはまだ別の株が揺れている。

風は冷たいのに、花はそこにあった。


何度焼かれても。

また植え直せる。


その言葉が、胸の奥のどこか深いところへ静かに落ちる。


国も。

人も。


今の自分には、まだ信じきれない。

でも、完全には否定できなかった。


馬車はさらに西へ進む。


関所の向こうは、空気が少し違った。

冷たさの質が変わる。

風の匂いが違う。

行き交う人々の服の形も、髪の結い方も、馬具の飾りも、どこかクレスティアとは異なる。


石の固さより、木のやわらかさが目につく。

道沿いの小さな祠の彫りも、宿場の看板の意匠も、少しずつ曲線が多い。

女たちの歩き方も、下を向いて縮こまるというより、前を見てまっすぐ歩いている者が多い気がした。


「ここから先がエルニア」

リリナが言った。

「あなたがまだ知らないこと、きっとたくさん教えてくれるわ」


ミュレットは窓の外を見つめる。


不安は消えない。

苦しさも消えない。

アランを置いてきた痛みは、少しも薄れていなかった。


それでも。


窓の向こうには、知らない景色が広がっている。

まだ見たことのない空気がある。

自分が知らないままの世界が、たしかに続いている。


「人ってね、苦しいことばかりは続かないのよ」


リリナが静かに言う。


「つらい思いをした分、ちゃんと嬉しいことも、楽しいことも来るわ」


ミュレットは、ようやく小さく頷いた。


まだ、その言葉の全部を受け取れるわけではない。

でも、いまの自分には必要な言葉なのだと分かる。


「外の空気、どう?」

リリナが問う。

「……まだ、よく分かりません」

「そう」

「でも……」

「うん?」

「少しだけ」


ミュレットは風に揺れる花へ目をやった。


「少しだけ、息がしやすい気がします」


リリナはそれを聞いて、満足そうに微笑んだ。


「それで十分よ」


クレスティアを離れた痛みは、まだ胸の奥にあった。

指輪はまだ喉もとで揺れている。

忘れられないものも、置いてこられなかった想いも、そのままだった。


それでも馬車は西へ進み、

知らない国の風が、ミュレットの頬へ静かに触れていた。



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