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Episode 59. 届かぬ西



夜明け前、アランは浅い眠りの底からゆっくりと浮かび上がった。


「アラン様」


やわらかな声がする。


目の前には、ミュレットがいた。


あの、少しだけはにかむような微笑み。

困ったようでいて、それでも確かにうれしそうな目。

手を伸ばせば届きそうな距離で、静かにこちらを見ている。


「……ミュレット」


呼ぶと、彼女はふわりと笑った。


その笑みがあまりにも自然で、

王城の朝そのもので、

あの夜の別れも、空になった部屋も、何もかもなかったことのように思えてしまう。


次の瞬間、その輪郭がほどけるように薄れていった。


アランはそこで目を開けた。


薄暗い自室。

冷えた空気。

誰もいない静けさ。


「……夢か」


低く呟いて、額へ手の甲を当てる。

そのまま目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


胸の奥に残るのは、失ったものの温度ばかりだった。


ミュレットが姿を消してから、十日が過ぎていた。


王城の空気は、静かなまま張りつめている。

表向きには大きな騒ぎにはなっていない。

それでも、近衛も文官も侍女たちも、皆が何かを知りながらなお口を噤んでいるような重さがあった。


時は止まらない。


政務は積み上がり、

帝国の不穏はなお燻り、

国境沿いの報告も途切れない。


アランの前には、広げられた地図と、束になった報告書があった。


西の街道。

宿場町。

関所。

国境。


いくつもの記録に目を通しながらも、意識の底ではずっとひとつのことだけを追っている。


ミュレットは、どこへ行ったのか。


扉の向こうで、控えめなノックが鳴る。


「殿下」

「入れ」


入ってきたのは、ディルクだった。


傷は塞がっている。

だが以前より、わずかに動きが慎重になった。

それでも立ち、歩き、こうして当然のように報告へ来るその姿を見るたびに、アランはあの夜の光を思い出す。


「西から新しい報せが入りました」

「……読め」


ディルクは一礼し、手元の書面を開いた。


「対象と思しき女性は、西の宿場町で複数回目撃されております」

「……」

「単独ではなく、見知らぬ若い女と行動を共にしていたとのこと」

「女?」

「はい」


ディルクは淡々と続ける。


「その女については、ただの旅人にしては不自然な点が多いと」

「……」

「宿の扱いがよく、関所の通過も早い」

「町でも妙に顔が利いていたようです」


アランは地図の西側へ視線を落とした。


ミュレットがひとりでないことは、せめてもの救いだった。

だが、その相手が何者か分からない以上、安堵だけはできない。


「続けろ」

「はい」


ディルクはもう一枚の報告へ目を移す。


「対象はその女とともに、西の国境を越えたものと思われます」

「……」

「行き先は、エルニア」


その名が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。


アランの指先が、机上の地図の端で静かに止まる。


「……エルニア」


低いその呟きに、ディルクがはっきりと緊張をにじませた。


「よりにもよって、です」


短い沈黙が落ちる。


エルニアは、ただ西にある隣国ではない。


大国ではない。

クレスティアのような武力も、サンダレインのような交易の豊かさも持たない。

だが、それゆえに軽く見てよい国でもなかった。


西方とクレスティアのあいだに位置し、街道と国境を繋ぐ緩衝の要。

地理的にも政治的にも、どこかが手を伸ばせば周辺全体の均衡を崩しかねない場所にある。


何より厄介なのは、あの国がただ弱いだけではないことだった。


男尊女卑の気風が薄く、女もまた当然に学び、選び、立つものとして扱われる。

表立って力を誇示する国ではないが、恐怖ではなく、人が人らしく生きることを国の根に置こうとする気配がある。

そのぶん王家と貴族の力関係も独特で、外から見れば読みづらい。

諜報を簡単に通す国でもなければ、下手に人を入れれば、こちらの意図のほうが先に見抜かれる。


「外から探りを入れるには、最悪の相手です」

ディルクが低く言う。

「表向きは穏やかでも、内側の機微は掴みにくい」

「ああ」

「下手に人を送れば、クレスティアが何を追っているのか先に悟られます」


アランは黙っていた。


エルニアへ行った。

それが偶然とは思えない。

ミュレット自身が国を選んだのか、あの女が連れていったのかは分からない。

だが結果として、いま最も手を伸ばしにくい場所へ入ったのは確かだった。


「アラン様、いかがされますか」


ディルクの問いは静かだった。


追うか。

さらに人を入れるか。

それとも、ここで線を引くか。


アランは答える前に、しばらく窓の外を見た。


西の空は高く、遠い。

行こうと思えば行ける距離に見える。

だが実際には、国境ひとつで届かなくなるものがある。


今すぐ自分で行きたい。

そんな衝動は、この十日のあいだ何度も胸の奥で頭をもたげた。


だが、それを選ばなかった。


追いつめれば、ミュレットはさらに遠くへ行く。

無理に追えば、彼女の罪悪感を深くするだけだ。

今はまだ、その手を伸ばしてはならない。


そして、エルニアがエルニアである以上、ただ“連れ戻す”ためだけに踏み込むわけにもいかなかった。


あの国は、武威ではなく、自分の足で立つことを尊ぶ国だ。

そこへこちらの都合だけで土足で踏み込めば、帝国と何が違うのか分からなくなる。


長い沈黙ののち、アランは口を開いた。


「捜索はここで切る」


ディルクが目を上げる。


「……」

「エルニアへ入った以上、これ以上の追跡は難しい」

「はい」

「動向だけは拾え」

「……」

「無事でいることだけを確認しろ」


ディルクは静かに頭を垂れた。


「承知しました」

「……」

「では、西への人員は順次引き上げます」

「ああ」

「表向きには、通常の情報線へ戻します」

「そうしろ」


これで終わりではない。

諦めでもない。

ただ、今はここまでだというだけだ。


それでも、その判断は胸を削った。


連れ戻すと命じなかったのは、手放したからではない。

むしろ逆だった。


今は追わない。

それが、ミュレットを思う者にできる、ぎりぎりの抑制だった。


ディルクは一拍置いてから、低く言った。


「持って行かれたのです」

「……」

「指輪を」


アランは答えなかった。


忘れるはずがない。


置いていかれなかった指輪。

それだけが、まだ自分と彼女のあいだに残っている唯一の形だった。


だが、いつまでもただ見送っているわけにもいかない。


ミュレットの力は、もう隠しきれない。

帝国は動く。

他国もいずれ気づく。

その前に、クレスティアも次の一手を打たなければならなかった。


アランはゆっくりと地図を閉じる。


追えないのなら、守れる形を先に整えるしかない。

彼女が戻る時、帰る場所ごと脅かされていては意味がない。


「ディルク」

「はい」

「サンダレインへ」

「……」

「会談の申し入れの文書を出せ」


ディルクの目がわずかに見開かれる。


「サンダレインに、ですか」

「ああ」

「……」

「時が来た」


アランは立ち上がる。

窓の外へ視線を向けたまま、低く言った。


「サンダレインと同盟を結ぶ」

「……」

「帝国が動くなら、こちらも国を閉ざして守るだけでは足りない」

「はい」

「クレスティアの剣だけで支えるには、もう限界がある」

「……」

「サンダレインの交易と、西の均衡を繋いで守る」

「……」


ディルクは静かに息を呑む。


アランは続けた。


「サンダレインは、冬を越えさせる国だ」

「……はい」

「物資、商路、備蓄。戦を続ける力ではなく、国を生かし続ける力を持っている」


武力だけでも足りない。

富だけでも足りない。

人が人らしく立てる国が、立ち続けることもまた必要だ。


「国と国をつなぎ、民の明日を守る」

アランの声は低かった。

「これより、我が国を脅かすもの、全て断つ」


ディルクは深く頭を垂れた。


「承知いたしました」


アランはなお西の空を見つめていた。


届かぬ場所へ消えた背。

それでも今は、追うのではなく、守るための形を整えるしかない。


彼女が選んだ「離れる」という決断を、無意味にしないために。

彼女が戻る時、この国がまだ帰るに足る国であるために。

そして、いつかもう一度同じ場所に立つために。


朝の光はまだ淡かった。

だが、その先にある国の行く末だけは、

すでに静かに次の段階へ動き出していた。



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