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Episode 58. 喉もとの秘密



夢を見た。


静かな部屋だった。


窓の外には、王城の庭が見える。

朝露に濡れた葉と、白くやわらかな光。

その中で、アランだけがまっすぐにミュレットを見ていた。


何も急かさない顔だった。

責めるでも、問い詰めるでもない。

ただ、そこにいてくれるだけで、胸の奥の痛みが少しやわらぐような、あの静かな顔。


「愛している」


低い声が、まっすぐに落ちる。


それだけだった。


それでも、そのひと言だけで、夢の中のミュレットは泣きそうになった。


伸ばしかけた指が、届くより先に光が揺れる。


目が覚めた。


薄い天井が見える。

見慣れない梁。

鼻先にかすかに残る煮込みの匂い。

遠くから聞こえる荷車の軋み。

王城ではない。

宿だ。


夢の余韻だけが、胸の内にひどく鮮やかに残っていた。


ミュレットはしばらく動けなかった。

喉の奥が苦しい。

泣いたわけでもないのに、呼吸が少し浅い。


やがて、そっと手が喉もとへ伸びる。


服の下、細紐に通した指輪が、そこにあった。


冷たいはずなのに、触れるとどこかあたたかい。

置いてこられなかったもの。

忘れられなかったもの。

自分で断ち切れなかった、たったひとつの証。


それを握ったまま、ミュレットはゆっくりと身体を起こした。


昨夜よりは、少しだけ楽だった。

温かい食事と寝台が、ぎりぎりの身体をどうにか人の形へ戻してくれたのだろう。

けれど、心のほうは何も変わっていない。


むしろ、夢のせいで余計に苦しかった。


扉の向こうで物音がする。

すぐに、軽い足音が近づいた。


「起きた?」


返事をする前に、扉が開く。

リリナだった。


今日も黒髪をきちんと整えている。

宿場の宿にいるのに、そこだけ切り取ればどこかの宴席の帰りでもおかしくないような女だ、とミュレットは思う。


「……おはようございます」

「おはよう」

リリナはそう言って、ミュレットの顔をひと目見た。

「寝た顔してるけど、あんまり眠れてないわね」

「……分かりますか」

「分かるわよ。その顔は」


容赦がない。


リリナは卓の上へ湯気の立つ器を置く。

薬草を少し混ぜた粥のようだった。

胃にやさしい匂いがする。


「食べなさい」

「……ありがとうございます」

「礼はいいの。倒れられるほうが困るから」


ミュレットは器を受け取った。

手の中に温もりが広がる。

それだけで、少しだけ気持ちがほどけそうになる。


だが、匙を持つ前に、また無意識に喉もとへ手が行った。


その動きを、リリナは見逃さなかった。


「それ」

「……」

「ずいぶん大事そうね」


ミュレットの指先が止まる。


ごまかそうとしても無理だと、もう分かっていた。

この女はそういうものを見抜く。


「……はい」

小さく答えると、リリナはふうん、とだけ言った。

「形見、ではなさそう」

「……」

「なら、男かしら」


ミュレットの肩が、わずかに揺れた。


それだけで十分だった。


リリナは苦笑する。


「正直ね」

「……すみません」

「だから、なんで謝るのよ」


ミュレットは俯いた。

匙を持つ手に力が入らない。

指輪を隠しているつもりだった。

でも、たぶん隠し方からして下手なのだろう。


リリナは向かいの椅子へ腰を下ろした。


「あなた、捨てられて逃げてきた顔じゃないの」

「……」

「捨てたくないのに、自分から離れた顔してる」

「……」

「それで、その喉もとの物だけは置いてこられなかった」

「……はい」


認めるしかなかった。


ミュレットは指輪を服の上から握りしめる。


「置いていかなきゃ、いけなかったんです」

「でも持ってきた」

「……」

「本当は返さないといけないって思ってる」

「……はい」


それ以上は言えなかった。


言葉にしてしまえば、自分で決めたことが揺らいでしまいそうだった。

離れた理由も。

離れられなかった気持ちも。

どちらも、自分の中ではもうぐちゃぐちゃだった。


リリナはしばらく黙ってミュレットを見ていた。

その目は、からかっているようでいて、どこか真面目だった。


「食べなさい」

「……はい」

「泣くのは食べてから」

「泣いてません」

「今にも泣きそうよ」


ミュレットは返事に詰まった。


言われた通り、少しずつ粥を口に運ぶ。

温かい。

味は薄いのに、胃へ落ちていくたびに身体が人心地ついていく。


しばらくして、扉の外で控えめな気配がした。


リリナが短く「入って」と告げると、付きの者がひとりだけ入ってくる。

耳打ちされる内容を聞くうちに、リリナの表情が少しだけ変わった。


軽さは消えない。

だが、その下にある判断の速さが、急にはっきり見える顔だった。


「……やっぱりね」


付きの者が下がると、リリナは立ち上がった。


「どうしたんですか」

「ここに長居はできないわ」

「え……?」


リリナは窓辺へ歩み寄り、外の通りを一度だけ見た。

そのまま振り返らずに言う。


「昨夜から東の街道で見張りが増えてるの」

「東の……」

「ええ。王都側から来る道」

リリナはようやくミュレットを見た。

「宿場に入る荷馬車も旅人も、いつもより細かく見られてる」

「……」

「若い女を探してるふうだって、うちの者が拾ってきたわ」


ミュレットの指先が、器の縁で止まった。


東の街道。

クレスティアの内側から来る道。

つまり――


「私を……」

「名指しじゃなくても、似たようなものね」

リリナは肩をすくめる。

「この宿場は小さいの。人目も、噂も、広がる時は早い」

「……」

「昨日の時点でも危なかったけど、今日からはもっと面倒になる」


ミュレットは息を呑んだ。


もう、こんなに早く。


見つけてほしくない。

でも、見つけてほしいと願う自分もいる。

そんな矛盾ごと胸の奥で軋んで、苦しくなる。


リリナはその顔を見て、小さくため息をついた。


「ちゃんと言ってなかったわね」

「……?」

「私はエルニア第一王女、リリナよ」


ミュレットの目が大きく見開かれる。


言葉が出ない。


たしかに、ただの旅人ではないとは思っていた。

仕草も、口のきき方も、宿の者たちの態度も、どこか普通ではなかった。

でも、まさか王女だとは思わない。


「お、うじょ……」

「そう。びっくりした?」

「……はい」

「でしょうね」


リリナはあっさりと言った。


そのまま近づいてきて、卓の端に軽く腰を預ける。

王女だと名乗ったあとでも、妙に気安いままだ。


「で、本題」

「……」

「あなた、このままここにいたら、あっという間に拾われるわ」

「……」

「東から目が来てる。冬も近い。街道が閉じる前に動くなら、今しかない」


その言葉で、ミュレットの中にあった迷いが、別の形を取り始めた。


冬が来れば、国境を越えるのは今よりずっと難しくなる。

雪が降れば道は細り、宿場も閉じ、見張りも厳しくなる。

今のうちにクレスティア領内を離れなければ、もう機会はないかもしれない。


そして何より。


クレスティアの中にいる限り、

アランの手が届いてしまう。


それは本当は、うれしいことのはずだった。

追いついてほしいと願ってしまう自分も、たしかにいる。

でも今、優先しなければならないのはそこではない。


離れること。

まず、アランの手が届く場所から出ること。

見つかれば、戻ってしまう。

戻れば、きっともう自分からは離れられない。


それでは意味がない。


今は、遠ざからなければならない。


「来なさい」

リリナが言う。

「え」

「エルニアへ」

「……」


言葉が止まる。


リリナは、ミュレットの反応を急かさなかった。

ただ、まっすぐに言葉を続ける。


「人ってね、苦しいことばかりは続かないのよ」

「……」

「つらい思いをした分、ちゃんと嬉しいことも、楽しいことも来るわ」

「……」

「だから、まずはここを離れなさい」

「……」

「外へ出て、自分を知って、人を知り、花を愛でなさい」


その声は、思ったよりやさしかった。


説き伏せるようでもなく、

甘やかすようでもない。

ただ、前に道があると教える声だった。


リリナは少しだけ顎を上げる。


「エルニアは、男尊女卑のない国よ」

「……」

「女だからって、誰かの顔色だけ見て生きる場所じゃない」

「……」

「清く、強く、自分の足で立つ女を、ちゃんと誇れる国」


その言葉は、どこか誇らしげだった。

綺麗ごとだけではなく、本気でそう信じている人間の声だった。


リリナは少しだけ身を屈め、ミュレットの顔を覗き込む。


「外の空気、吸ってみたくない?」

「……」

「おすすめよ」


軽く言うのに、その中身は妙に重かった。


外の空気。

今まで知らなかった場所。

誰の視線にも、誰の期待にも、すぐには縛られない国。


そんなものを考えたこともなかった。

いや、考えないようにしてきたのかもしれない。


ミュレットは喉もとの指輪へ、そっと触れた。


行っていいのだろうか。

これ以上、誰かの手を借りて。

これ以上、誰かを巻き込んで。


その迷いを見抜いたように、リリナが先に言う。


「遠慮しなくていいの」

「……」

「助けるって決めたのは私」

「……」

「それに」

少しだけ目を細める。

「今のまま一人で歩かせたら、次に倒れるのは道端よ」


言い方は容赦ない。

でも、その実、逃げ道を塞ぐような優しさだった。


ミュレットは小さく息を呑む。


エルニアへ。

王女に連れられて。

そんな道が、自分に用意されるとは思っていなかった。


少しの沈黙のあと、ミュレットは視線を落とし、器の中の残りを見つめる。


冬が来る前に、国境を越えなければならない。

クレスティア領内から、離れなければならない。

それができる道が、いま目の前に差し出されている。


迷っている時間は、もう長くない。


ミュレットは喉もとの指輪をぎゅっと握りしめた。


「……行きます」


リリナが目を細める。


「うん」

「冬が来る前に……クレスティアから、離れたい」

「そう」

「……手が届く場所にいたら、私はきっと、戻ってしまうから」


最後のひと言だけ、小さく掠れた。


リリナはそれを聞いても、茶化さなかった。

ただ、静かに頷いた。


「賢い判断ね」

「……」

「つらいでしょうけど」

「……はい」


それでもミュレットは、もう一度頷く。


「でも」

小さく息を吸う。

「全部は、まだ話せません」

「いいわよ」

リリナは即答した。

「話したくなったら話しなさい」

「……」

「話したくないなら、しばらくはそのままでもいい」


その気軽さに、ミュレットは少しだけ救われる。


リリナは満足そうに頷いた。


「よし」

そして扉のほうへ顔を向ける。

「昼前には出るわ。馬車を回して」

「承知しました」


外から控えめな返事が返る。


本当に、決まってしまったのだ。


ミュレットはまだ実感のないまま、喉もとの指輪にそっと触れる。

冷たい輪は、今日もそこにあった。


捨ててこられなかったもの。

忘れられないもの。

そのままで、別の国へ行く。


そんなことが許されるのだろうかと思う。

でも今は、その道しか思いつかなかった。


リリナはそんなミュレットを見て、ふっと笑った。


「そんな顔しないの」

「……どんな顔ですか」

「全部終わったみたいな顔」

「……」

「終わらないわよ」

リリナはあっけらかんと言う。

「時には逃げることも、勝つために必要なのよ」


その言い方が、妙に胸へ残った。


窓の外では、宿場町の朝がもうすっかり動き始めていた。

そのざわめきの向こうに、まだ知らない国への道が続いている。


逃げた先で、また別の風を吸うことになる。

それが救いになるのか、罰になるのかは、まだ分からない。


それでもミュレットは、もう一度だけ静かに頷いた。



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