Episode 57. 西の宿場で
リリナは、嘘と建前の匂いに敏い女だった。
誰が笑いながら腹の底では別のことを考えているのか。
誰がへりくだるふりをして、相手を値踏みしているのか。
誰が綺麗な言葉で、本心を隠しているのか。
そういうものは、見ようとしなくても目についてしまう。
だから、城の中はときどき息が詰まった。
磨かれた廊下。
整えられた言葉。
正しく美しい顔ばかりが並ぶ場所。
だが、その水面の下では、誰もが少しずつ違う欲を抱えている。
だからリリナは、時々こうして城を抜け出す。
息抜き半分。
情報収集半分。
クレスティア西境に近い宿場町は、昼を過ぎてもなお、人の熱でぬるくざわめいていた。
荷馬車の車輪が石を鳴らし、
馬のいななきと、
値を張り上げる商人の声と、
焼いた肉と香草の匂いとが、
狭い通りの上でごちゃごちゃに混ざり合っている。
こういう場所のほうが、よほど息がしやすい。
城の中では隠されるものが、
ここではだいたい、そのまま顔に出るからだ。
リリナは外套の襟元を少しだけ整える。
旅装に紛れるよう控えめにしていても、
腰まで流れるまっすぐな黒髪と、
耳元で揺れる古風な耳飾りまでは隠せない。
けれど、だからといって、ここで彼女をただの旅人ではないと見抜ける者はそう多くないはずだった。
表通りを一周し、宿場へ入った隊商の荷札をいくつか目で拾う。
西からの流れは細くなっている。
冬が近いからだろう。
それでも、いくつか気になる名があった。
あとで宿へ戻ったら、付きの者へ拾わせよう。
ついでに、サンダレインから入った品の動きも確認したい。
クレスティアは静かだ。
静かすぎる時ほど、ろくなことがない。
そんなことを考えながら路地へ差しかかった時だった。
男の声がした。
「だから、手伝ってやるって言ってんだろ」
酒気を帯びた、べたつく声だった。
面倒くさい。
そう思いながら視線を向け、
リリナは足を止めた。
路地の奥、壁際に若い女がひとり追い詰められていた。
男は二人。
どちらも旅人風だが、身なりの崩れ方と笑い方に品がない。
それだけなら、宿場町では珍しくもない。
珍しかったのは、その女のほうだった。
服は汚れている。
裾も傷んでいる。
顔色も悪い。
今にも座り込んでしまいそうなくらい疲れきっている。
なのに、立ち方だけが妙に崩れていなかった。
壁へ追い詰められていても、背を丸めきらない。
声をかけられても、媚びるような目をしない。
痩せているくせに、どこかで最後の線だけは守っている。
ああ、これは。
リリナは片眉を上げた。
ただの旅娘じゃない。
服の質は、泥に汚れていても分かる。
もともとは悪くない。
歩き方も、疲労で乱れてはいるが、染みついた所作までは消えていない。
声を出さなくても見える。
育ちがいい。
しかも、守られて育った娘の崩れ方ではない。
追いつめられているのに、なぜかまだ自分より別の何かを庇っているような顔をしている。
見なかったことにしたい。
でも、そうできる顔ではなかった。
「そのへんにしなさいよ」
よく通る声でそう言うと、男たちが振り返った。
「あ?」
「なんだ、お前」
リリナは路地の入口に立ったまま、ため息をつく。
「昼間から、ずいぶん情けないもの見せてくれるじゃない」
「……あ?」
「弱ってる娘ひとりに二人がかり、それで男のつもり?」
「てめえ、何なんだ」
「見ての通り、あなたたちより少しはまともな女よ」
「喧嘩売ってんのか」
「いいえ」
そこでリリナは、にっこり笑った。
「みっともないものを、みっともないって言ってあげてるだけ」
男のひとりが、舌打ちする。
「……ちっ」
「行くぞ」
もうひとりは、ようやく相手を見直したように目を細めた。
こういう時、相手がただの女ではないと察する男はいる。
脅し文句より先に、本能のほうが危険を拾うのだ。
たったそれだけだった。
けれど、空気が変わる。
華奢に見えるくせに、隙がない。
踏み込めば、ただでは済まない。
そんな気配が、言葉より先に伝わったのだろう。
吐き捨てるように言って、二人は去っていった。
路地に静けさが戻る。
リリナは女へ目を向けた。
近くで見ると、やはりひどい顔だった。
疲れきっている。
頬は少し痩せ、唇の色も薄い。
それなのに、目元だけが壊れきっていない。
「大丈夫?」
そう聞くと、女は一拍遅れて頷いた。
「……はい」
「はい、じゃないでしょ。全然大丈夫そうに見えないわよ」
「……」
「まあいいか」
リリナは腕を組み、じっと相手を見た。
若い。
自分とそう歳は違わないだろう。
けれど、目だけが妙に静かだった。
泣きはらした顔ではない。
泣く余裕もないまま、ここまで来た顔だ。
ふと、その手が喉元へ動く。
服の内側へ、庇うように。
リリナの目が細くなる。
なるほど。
何かある。
金か、形見か。
捨ててこられなかったものだということだけはよく分かった。
「……あなた、ただの旅娘じゃないわね」
「……」
「服はぼろぼろ、顔色は悪い。でも所作が死んでない」
リリナは淡々と言う。
「隠してるつもりでも、そういうのは出るの」
「……すみません」
「なんで謝るの」
「……」
「……仕方ないわね、事情ありそうなのは分かった」
そう言って、リリナは踵を返す。
「ついてきなさい」
「え?」
「その顔で、ふらふら立ってるほうが危ないわ」
「でも」
「でも、じゃないの」
「……」
「倒れたいなら別だけど」
「……」
「後味悪いの嫌いなのよ」
女はしばらく迷っていた。
断るべきだと思っている顔だった。
遠慮と警戒と、行き場のなさが全部一緒くたになっている。
こういう顔をされると弱い。
でも、リリナはこういう顔を知っていた。
追いつめられて、助けられる資格まで自分から取り下げている顔だ。
「ほら」
とだけ言うと、女はようやく小さく頷いた。
宿は、表通りから少し外れた旅籠だった。
いつも使っている場所だ。
王女の名は出さない。
それでも、顔を見れば店主が少しだけ姿勢を正す程度には、顔が利く。
「裏、使うわ」
「承知しました」
そう言って通された小部屋へ入るなり、女は力が抜けたように椅子へ沈んだ。
「ほらね」
リリナは肩をすくめる。
「限界だったじゃない」
「……そう、かもしれません」
「かもじゃないわよ」
卓の上に水差しと布を置く。
「まず顔」
「……ありがとうございます」
「それから食事」
「そんな、申し訳なく」
「申し訳ない顔してる暇があったら食べなさい」
女は言われるまま顔を拭いた。
水が肌を伝うたび、少しずつ輪郭がはっきりしていく。
整っている。
そしてやはり、ただの娘ではない。
ほどなくして運ばれてきた温かなスープとパン、それに簡単な肉料理を前に、
女は一瞬だけ目を閉じた。
ああ、とリリナは思う。
本当に、ぎりぎりだったのだ。
「食べて」
「……はい」
最初のひと口を飲み込んだ時、
女の喉が小さく動く。
泣きはしない。
でも、泣きそうには見えた。
その泣かなさが、かえってリリナには痛かった。
向かいに座り、頬杖をつく。
「あなたみたいな子、たまにいるのよね」
「……」
「戦やらなんやらで家をなくして。でも育ちだけは消えないの」
「……そう、見えますか」
「見える」
「……」
「どこかで見た気もするんだけど」
その言葉に、女の肩がわずかに跳ねた。
図星か。
だが、今はそこまででいい。
「安心して。売ったりしないわ」
「売っ……」
「顔、ほんとに正直ね」
「……」
そこでようやく、女は少し困ったような顔をした。
初めて、表情がひとつ動いた気がする。
「名前は?」
「……ミュレット、です」
「へえ。綺麗な名前」
「……あなたは?」
「リリナ」
名字は言わない。
肩書も言わない。
まだその段階ではなかった。
「リリナ、さん」
「さん、いらない」
「……リリナ」
「そう」
食事が少し進む。
ミュレットは本当に空腹だったらしく、遠慮しながらもちゃんと食べた。
食べ方まできれいだ。
雑に育った者の手つきではない。
そのくせ、途中でふと窓の外へ目を向けた。
小さな鉢植えの花が、裏庭の隅に置かれている。
たいして見事な花でもない。
宿の女将が趣味半分で置いているようなものだ。
それを見た時の目が、少しだけやわらいだ。
リリナは黙ってその横顔を見る。
弱っているくせに、まだ花を見る余裕がある。
それだけで、この子は全部を失いきっていないのだと分かった。
「……その顔のほうがまし」
ぽつりと言うと、ミュレットが目を上げた。
「え?」
「さっきより、ね」
「……」
「暗い顔ばっかりしてると、美人が台無しよ」
ミュレットは少しだけ目を丸くする。
それから、ごく小さく笑った。
ほんの少し。
でも確かに、笑った。
それを見て、リリナは内心で息をつく。
ちゃんと笑えるなら、まだ引き返せる。
壊れきる前だ。
まだ、間に合う。
その夜、ミュレットが寝台へ入ったあとも、リリナはしばらく部屋に残っていた。
眠りに落ちるまでのあいだ、ミュレットは何度か無意識に喉元へ手をやった。
服の下に隠した何かを、確かめるように。
金かもしれない。
形見かもしれない。
あるいは、男。
でも、どれでも同じことだった。
捨ててこられなかったものがある。
それだけは、よく分かった。
寝顔は静かだった。
それでも、安らかではない。
苦しそうに眉が寄るたび、
リリナは少しずつ確信に近づいていく。
この子は、誰かを捨てきれなくて、
でもその誰かのために、自分から離れてきた顔だ。
面倒なことこの上ない。
リリナは小さく息を吐いて、椅子へもたれた。
「……面倒な子、拾っちゃったかも」
眠るミュレットの指先は、
そのひと言が聞こえたみたいに、かすかに喉元の下で止まった。
窓の外では、宿場町の夜が静かに更けていく。
城の中は息が詰まる。
だから抜けてきた。
情報も拾った。
息もついた。
そのはずだったのに。
気づけばリリナは、
明日、どうやってこの娘の口を少しだけ軽くしてやるかを考えていた。
まったく、拾うつもりのなかったものを拾った夜だった。




