Episode 56. 雷の痕
夜が明ける前から、アランは眠れていなかった。
眠るというより、目を閉じていただけに近い。
傷は塞がりつつあったが、肩にはまだ鈍い痛みが残っている。
だが、それ以上に重かったのは、胸の奥に巣くう得体の知れない不安だった。
ミュレットは戻ってきた。
雨の中、ようやく連れ戻した。
抱きしめた時、たしかにその体温を感じた。
声も聞いた。
――ほんとうは……いきたくないです。
たしかに、そう言った。
それなのに、落ち着かなかった。
失うかもしれないものを、ようやく腕の中へ戻したはずなのに、
そのぬくもりがまだどこか危ういままに思えてならなかった。
薄暗い自室の中で、アランは静かに目を開けた。
窓の外はまだ青白い。
夜明け前の、最も静かな時間だ。
その時だった。
控えめな、しかし切羽詰まったノックが扉を打つ。
「殿下」
侍女の声だった。
緊張に張った声だった。
アランは寝台から起き上がる前に、もう分かっていた。
嫌な予感ほど、当たる時は妙に早い。
「何だ」
「……ミュレット様が」
「……」
「お部屋に、おられません」
胸の内側で、何かが静かに落ちる。
叫ぶことも、怒ることもなかった。
ただ、予感が現実になったのだと、
その冷たさだけが骨の内側へしみ込んだ。
アランは立ち上がる。
扉を開ける。
侍女は顔を青ざめさせていた。
「いつ気づいた」
「たった今、交代で様子を見に――」
「セレスティアは」
「現在、ミュレット様のお部屋に」
それ以上は聞かず、アランは歩き出していた。
回廊の空気は、夜の名残をまだ抱えている。
だが、その静けさの下で、異変はもう広がり始めていた。
侍女たちは口数少なく動き、
近衛たちは異様なほど足を速めている。
まだ誰も大声では騒いでいない。
これは嵐の前の沈黙ではなく、すでに始まってしまった混乱を押し殺している静けさだった。
ミュレットの部屋の前には、セレスティアが立っていた。
その顔を見た瞬間、状況は聞くまでもなかった。
「殿下」
「中か」
「……はい」
扉の向こうは、きれいに整っていた。
荒らされた形跡はない。
争った跡もない。
寝台の乱れは、夜中に起きた人間のそれとして自然だった。
机の上も、鏡台も、一見すれば普段と大きくは変わらない。
ただ、いない。
たしかにこの部屋にいたはずの気配だけが、きれいに抜け落ちていた。
アランは部屋の中央で足を止める。
呼吸がひどく静かになる。
「昨夜のうちに……」
セレスティアが低く言う。
「おそらく」
「見張りは」
「つけていました」
「……」
「ですが、気づけなかったようです」
悔しさがにじんでいた。
セレスティア自身、まさかまた同じことが起きるとは思っていなかったのだろう。
いや、思っていたからこそ人をつけた。
それでも抜けられたのだ。
アランは答えず、机の方へ視線を向ける。
そこに、小さな箱が置かれていた。
昨夜、婚約指輪を収めていた箱だ。
アランはゆっくり近づく。
手に取る。
蓋は閉じられていたが、中身の重みがない。
開ける。
空だった。
ほんの一瞬だけ、指先に力が入る。
置いていかなかったのか。
胸の奥に走ったのは、安堵に似た何かだった。
それと同じくらい鋭い痛みでもあった。
ミュレットは去った。
それでも、指輪だけは置いていけなかった。
つまり、全部を断ち切ったわけではない。
だが同時に、それを持ったまま去るほどには苦しかったのだ。
「……持って行ったか」
アランの低い呟きに、セレスティアが顔を上げる。
「殿下?」
「いや」
指輪を箱へ戻し、蓋を閉じる。
その動作だけは妙に丁寧だった。
「荷物は」
「最低限です」
セレスティアが答える。
「着替えが少しと、薬草と、旅に出るには足りないほどの金だけ」
「……」
「まるで、遠くまで行くつもりはないみたいな量です」
その言葉に、アランは何も返さなかった。
遠くまで行くつもりがないのではない。
戻るつもりを、どこかで捨てきれていないのだ。
そう思うことができる自分を、今は責めたかった。
希望にすがっている場合ではないのに、胸のどこかがそれだけを拾い上げようとする。
「殿下」
背後で別の声がした。
振り向けば、ディルクが立っていた。
顔色はまだ悪い。
だが、立っている。
歩いている。
声も出ている。
昨夜あれほどの傷を負った人間とは思えない回復だ。
それを可能にしたのが誰なのかを思えば、なおさら胸が重くなる。
「寝ていろ」
アランが低く言う。
「寝ている場合ではありません」
「……」
「ミュレット様がいないのでしょう」
アランは否定しなかった。
それだけで十分だった。
ディルクは部屋へ入り、短く周囲を見渡す。
そして机の上の箱へ視線を止めた。
「指輪は」
「持って行った」
ディルクの目が、ほんのわずかだけやわらぐ。
「なら、完全に捨てたわけではありません」
「分かっている」
そう答えたものの、その言葉に救われている自分を、アランは認めたくなかった。
ディルクはすぐに表情を戻す。
「門の見張りから報告が上がっています」
「何だ」
「西寄りの裏門付近で、夜半、小さな落雷があったと」
「落雷?」
セレスティアが眉を寄せる。
「昨夜は小雨だったでしょう」
「ええ」
ディルクが頷く。
「雷雲が来るような空ではなかったそうです」
「……」
「木の枝先にだけ、不自然に落ちたと」
部屋の空気が、そこでわずかに変わった。
アランは無言のままディルクを見る。
ディルクもまた、アランの視線を受け止めていた。
「雷が落ちるほどの空模様ではなかった」
アランが低く繰り返す。
「はい」
「……」
「見張りの目が逸れたのは、そのほんの一瞬だけだそうです」
セレスティアが息を呑む。
「それは……」
「偶然とは思いにくいでしょう」
ディルクが言う。
「誰かが意図的に注意を逸らしたと見るべきかと」
アランはすぐには答えなかった。
胸の内に走ったのは、驚きだった。
ミュレットは治癒の力を隠していた。
それだけでも十分に知らなかったことばかりだ。
そのうえ今、さらに別の何かがあるのではないかと示されている。
そんなはずはない、と即座に切って捨てられない自分がいた。
昨夜、あの回廊で見た光。
雨の中で見た顔。
そして、今朝きれいに抜け落ちていた部屋。
あまりにも静かに、あまりにも迷いなく、ミュレットは城を出ていった。
ただ衝動で逃げたのではない。
考えて、選んで、隙を作って去った。
そこに、偶然にしては出来すぎた落雷が重なる。
「……まさか」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
セレスティアが不安そうにアランを見る。
「殿下?」
「……いや」
低く返した声には、かすかな硬さが混じっていた。
疑いたいわけではない。
だが、知らなかったことが多すぎる。
ミュレットは昨夜、自分が思っていたよりずっと深い場所で、長く何かを抱えていた。
その一端がようやく明かされたと思った矢先に、また別の影が見える。
驚きと、不審に近い引っかかりが、胸の底に冷たく沈んだ。
それでも、嫌悪ではなかった。
恐れでもない。
知らなければならない、という感覚に近かった。
ミュレットが何を隠してきたのか。
何をひとりで抱え、どこまで自分を追い詰めていたのか。
その全てを知らないまま、もう二度と手放したくなかった。
「殿下」
ディルクが声を落とす。
「どうなさいますか」
アランは部屋を出た。
ミュレットの部屋ではなく、その先の廊下へ。
そこから見える、まだ薄明の王城全体へ視線を向ける。
騒ぎは広げられない。
大々的に探索をかければ、それだけで昨夜の件を城外へ知らせることになる。
ミュレットの力を狙う者がいると分かった今、派手な動きはむしろ危険だった。
だが、何もしないわけにもいかない。
「西だ」
アランが言う。
「……はい」
ディルクが応じる。
「追うなら、まだ西だ」
「宿場へ出る前に拾える可能性があります」
「ああ」
「ただし、大きくは動けません」
「分かっている」
アランは振り返る。
「信頼できる者だけ使え」
「承知しました」
「城内には、失踪ではなく療養中と通せ」
「はい」
「門の見張りには口を閉ざさせろ」
「かしこまりました」
矢継ぎ早の命令にも、ディルクは一切迷わない。
昨夜、死にかけたばかりとは思えぬほど、その声は落ち着いていた。
アランは一度だけ目を閉じる。
喉もとにかけて持って行ったのだろうか。
それとも懐に隠したのか。
指輪を、置いていけなかったミュレットの姿が胸に浮かぶ。
あたたかくて、苦しい想像だった。
「殿下」
セレスティアが静かに呼ぶ。
「……何だ」
「必ず、お戻しください」
「……」
「今度こそ、勝手にいなくならないように」
その声音は強かった。
騎士としてではなく、ミュレットを想うひとりの女としての願いだった。
アランは短く息を吐く。
「当然だ」
その一言だけで十分だった。
王城の朝は、まだ完全には明けきっていない。
だがもう、昨日までの朝ではない。
ミュレットが残した空白は、
静かに、それでも確実に、城全体を揺らしていた。
そしてアランは知っている。
彼女はもう、ただ守られるだけの娘ではない。
自分で決めて、自分で去ることのできる人間だ。
だからこそ、追わなければならない。
止めるためにではない。
もう一度、同じ場所に立って話すために。
ひとりで全部を背負わせないために。
「馬を」
アランが言う。
「すぐに」
低いその声に、近衛が一斉に動き出す。
窓の外では、夜の名残の雨がようやく途切れはじめていた。
西の空はまだ重い雲を抱えたままで、
その向こうへ消えたひとつの背を、簡単には返してくれそうになかった。




