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Episode 55. 落雷

Episode 55. 落雷



その夜、ミュレットはほとんど眠れなかった。


灯りを落としても、目を閉じても、

指輪の重みだけがずっと掌に残っていた。


アランの言葉が、何度も胸の内で繰り返される。


俺が守る。

そう誓う。

ミュレットから離れたりはしない。

ずっと、そばにいてほしい。


指輪は小さく、静かで、

その言葉のすべてを閉じ込めているようだった。


眠れないまま、何度目かの寝返りを打ち、

ミュレットはそっと起き上がる。


部屋の中は静かだった。

付き添いの侍女は、隣室で控えている。

物音を立てなければ、まだ気づかれない。


ミュレットは裸足のまま、寝台を降りた。


机の上へ置いていた指輪を、もう一度手に取る。

灯りの少ない部屋の中でも、それはかすかに光を返した。


返さなければならない、と思う。


これは受け取ってはいけないものだ。

自分が持っていていいはずのないものだ。

置いていくべきだ。

ちゃんと。

何も持たずに出るべきだ。


そう思っているのに、

どうしても指先が離れてくれない。


「……置いて、いかないと」


小さく呟く。

けれど、その声は少しも自分を動かさなかった。


アランの顔が浮かぶ。

あの静かな眼差し。

優しい微笑み。

「ん?」と返してくれた声。

抱きしめてくれた腕のぬくもり。


胸が詰まる。


置いていくべきだ。

忘れるためにも。

巻き込まないためにも。


でも、できない。


指輪を返せば、きっと少しだけ楽になる。

そんな気もした。

けれど、それは同時に、

アランとのつながりを自分の手で断ち切ることでもある。


それだけは、どうしてもできなかった。


ミュレットは机の引き出しを開けた。

奥に、小さな細紐がしまってある。

もともとは薬草袋をまとめるための、何の変哲もない紐だった。


それを手に取る。


少しだけためらってから、

指輪へ通す。


かすかな金属音が、静かな部屋でやけに大きく響いた。


細紐の両端を結び、

ゆっくりと首へかける。


冷たい輪が、喉もとへ落ちる。


その感触に、ミュレットは鏡の前へ立った。


夜着の上、白い首筋の中央で、

婚約指輪がひとつ、ひっそりと光っている。


あまりにも場違いで、

あまりにも大切そうで、

胸が痛くなる。


ミュレットはそっとそれへ触れた。


触れた瞬間、またアランの顔が浮かんだ。


自分を追ってきた雨の夜。

まっすぐに「愛している」と言った声。

今日、婚約を告げた時の静かな決意。

そして、抱きしめてと言った自分に、

何もためらわず腕を伸ばしてくれたあたたかさ。


「……ごめんなさい」


鏡の中の自分に向けて言ったのか、

アランに向けたのか、

自分でも分からなかった。


喉もとの指輪を握る。


本当は、もう分かっていた。


自分がここに残れば、

たぶん、この指輪を受け入れてしまう。


アランのそばにいたい。

守られたい。

愛されたい。

その願いに、きっと抗えない。


でも、それを選んだ瞬間、もう後戻りはできなくなる。


婚約が公になれば、帝国だけでは済まない。

サンダレインも、北方の国々も、西の商業国家も、

高位治癒の力をクレスティアだけのものにしておくはずがない。


欲しがる。

探る。

奪おうとする。

あるいは、婚姻と条約の名で囲い込もうとする。


争われるのは、自分の身ひとつではない。

その中心に、アランが立たされる。

ディルクが血を流す。

セレスティアや侍女たちまで、人質のように扱われるかもしれない。


昨夜、もう見てしまった。

自分の力のために、王城の内側へ刃が入るのを。

守ると言われるたび、

その人が傷つく未来まで一緒に見えてしまう。


自分はこれまで、多くの命を見捨ててきた。

救えたかもしれない人たちに、手を伸ばさなかった。

そんな自分が、今度はアランに「守る」と言わせてしまう。


そのことが、ひどく苦しかった。


きっと、それが答えだった。


離れたいわけではない。

忘れたいわけでもない。

むしろその逆だ。


離れたくないから、

今しか離れられないのだ。


ミュレットは小さな鞄を開いた。

最低限の着替え。

少しの金。

薬草をいくつか。

水差しの残りを革袋へ移す。


荷物はわずかだった。


まるで、いつでも戻れるつもりでいるような量だと思って、

自分で苦しくなる。


戻るつもりなど、持ってはいけないのに。


それでも、手は必要なものしか選ばなかった。

冬を越えるための厚い上着も、思い出の品も、

何ひとつ増やせない。


増やせば、戻りたくなるからだ。


鞄の口を結び、ミュレットはそれを静かに寝台へ置いた。

それから、まだ温もりの残る夜着の裾を握りしめる。


このままでは出られない。


侍女たちに見つからず、夜の城を抜けるなら、

目立たない服へ着替えなければならなかった。


衣装棚を開ける。

いつか侍女仕事を手伝う時に使った、地味な濃灰の衣が目につく。

飾り気のない、動きやすい服。

貴族の令嬢にも、王城勤めの娘にも見えない、

ただの目立たないひとりになるための色だった。


ミュレットはそれを取り出し、しばらく胸の前で抱いた。


これに着替えてしまえば、

もう本当に行くのだ。


今ならまだ、寝台へ戻れる。

朝になれば、侍女が来る。

セレスティアが叱る。

アランはきっと、また静かに困った顔をして、それでも受け入れてくれる。


その未来が、あまりにも簡単に想像できて、

一歩だけ、足が止まった。


「……だめ」


誰に言い聞かせるでもなく、ミュレットは呟く。


ここで戻れば、きっと二度と離れられない。

それは幸福だろう。

でも、その幸福の代わりに、どれだけの矛先がこの城へ向くのかを、もう知ってしまった。


ミュレットは夜着の紐を解いた。

床へ落ちる布の音が、やけに小さく響く。

冷たい空気が肌を撫でる。

急いで濃灰の衣を身につけ、上から暗い外套を羽織る。


鏡の中には、さっきまでの自分とは違う姿が映っていた。


喉もとの指輪だけが、そこに残る。


その光だけがあまりに不似合いで、

かえって離れがたいもののように見えた。


髪をゆるくまとめ、目立つ飾りを外し、

外套の襟を少しだけ高くする。

旅に出る者の姿というより、

逃げる者の姿だった。


ミュレットは小さく鞄を持ち上げる。


部屋を見回す。


与えられた居場所だった。

けれど今はもう、ただ借りているだけの場所ではなかった。

ここで眠り、

ここで泣き、

ここで少しずつ笑えるようになった。


そしてこの部屋には、

自分がアランに抱きしめられた記憶まで残っている。


「……行かないと」


そう言って、ようやく足を動かす。


扉を細く開ける。

隣室の気配は静かだ。

侍女は少し休んでいるのかもしれない。

あるいは、ミュレットが落ち着いたと信じて気を緩めたのだろう。


その隙を縫うように、回廊へ出る。


夜の王城は静かだった。

けれど昨夜の襲撃以来、完全な静けさではない。

遠くに立つ見張りの影。

交代の足音。

時折交わされる低い声。


今夜は、小雨が降っていた。


屋根を打つほどではない。

石畳を薄く濡らし、夜気に湿りを含ませるには十分な雨だった。

見張りの外套もしっとりと重たげで、灯りのまわりにかすかな靄がにじんでいる。


ミュレットは壁沿いに歩きながら、西寄りの裏門へ近づいた。


そこは早朝、使用人たちが出入りするための小さな門だった。

表門ほど厳重ではない。

けれど今夜は昨夜の件もあって、見張りが二人立っている。


このままでは抜けられない。


ミュレットは物陰で足を止めた。


喉もとの指輪を思わず握る。

冷たい輪の感触が、やけに現実を引き戻した。


やりたくはなかった。

こんな形で力を使うつもりはなかった。


それでも、戻ることもできない。


視線を上げる。


見張りの少し先、門から離れた場所に一本の木が立っていた。

雨に濡れた枝先が、夜気の中で黒く揺れている。


ミュレットは息を止め、そっと指先を持ち上げた。


大きな力はいらない。

目立つほどであってもいけない。

ただ、一瞬だけ気を逸らせればいい。


湿った空気の中で、細く魔力を巡らせる。

雨粒に宿る冷気と、空に漂う微かな電気を、ひと筋に集めるように。


指先が、わずかに痺れた。


次の瞬間。


ばちっ、と鋭い音が鳴る。


小さな稲光が、見張りのそばの木へ走った。

枝先が一瞬だけ白く爆ぜ、濡れた葉が震える。


「何だ!?」

「落雷か!」


見張りたちが反射的にそちらを向く。

灯りを持った片方が駆け寄り、もうひとりも半歩遅れて視線を逸らした。


その一瞬で十分だった。


ミュレットは身を低くし、細く開いた木戸の隙間へ滑り込む。

濡れた裾が木に擦れる。

息を殺す。

足音を立てないように、外の土へ降りる。


背後ではなお、


「火は出ていないか」

「枝が裂けただけです!」


と慌ただしい声がしている。


誰も、門の外へ抜けたひとりの影には気づかなかった。


王城の外へ身を滑らせた瞬間、

胸の奥で張りつめていたものが、ほんの少しだけゆるむ。


――できた。


そんな安堵が、かすかに湧いた。

子どもじみていると思う。

こんな時なのに、ひとまず見つからなかったことへ、少しだけほっとしてしまう自分がいる。


小さな落雷ひとつで道が開けた。

それは、追いつめられた今の自分には救いのようでもあった。


けれど次の瞬間、その安堵ごと胸が痛む。


本当に、出てきてしまったのだ。


もう戻れない。

戻れば、さっきの安堵まで全部、嘘になる。


ミュレットはようやくひとつ息を吐く。

吐いた途端、胸の奥がひどく痛む。

もう戻れないのだと、遅れて身体が理解したのかもしれない。


振り返る。


高い壁の向こうに、王城の灯りが見える。

自分が今までいた場所。

守られていた場所。

帰りたいと思ってしまう場所。


喉もとの指輪が、夜気の中で小さく触れた。


「……さようなら」


もう一度だけ、そう呟く。


そしてミュレットは、踵を返した。


西へ。


明確な目的地があるわけではない。

ただ、国境から遠ざかるように。

アランの手が届かない場所へ行くために。

それだけを頼りに歩き出す。


夜の道は暗い。

草を踏む音だけが耳に残る。

小さな鞄は軽いのに、体はひどく重い。


それでも、歩くしかない。


胸元で揺れる指輪だけが、

置いてこられなかった想いのように、

ひっそりとミュレットに寄り添っていた。



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