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Episode 54. 守るための指輪



襲撃の翌朝、王城は不思議なほど静かだった。


誰も大声では話さない。

廊下を行き交う足音も、報告の声も、どこかひとつ分だけ低く抑えられている。


だが、それは落ち着いているからではなかった。


近衛たちは警備の配置を変え、

文官たちは夜のうちに上がった報告を抱えて走り、

侍女たちは普段より口数少なく持ち場を整えている。


昨夜、王城の内側へ刃が入り込んだ。

ディルクが倒れ、兵たちが血を流し、

そしてミュレットが、誰も見たことのない光でその命を救った。


その事実が、まだ誰の胸にも整理されないまま沈んでいた。


ミュレットはその日、医務室へ行かせてもらえなかった。


「駄目よ」


と、セレスティアが朝いちばんにはっきり言った。


「今日は休んで」

「でも」

「でも、じゃないの」

「……」

「あなた、顔色が最悪よ」

「それはセレスティアも」

「わたしはいいの」


きっぱりと言われて、ミュレットはそれ以上強く出られなかった。


昨夜ほとんど眠れていない。

広域治癒の反動は想像以上に深く、身体の芯がまだ妙に重い。

けれどそれ以上に、落ち着かなかった。


城の空気が変わってしまったこと。

もう、何も隠しきれないこと。

それでもなお、自分がここにいること。


それらが、目を閉じても胸の奥で重く揺れていた。


昼過ぎ、セレスティアが少しだけ改まった服を持ってきた時、ミュレットは目を瞬いた。


「……これは?」

「着替えて」

「どうして」

「殿下がお会いになるから」


そのひと言だけで、心臓が跳ねる。


うれしい、と、思ってしまった自分がいた。

同時に、怖い、とも思った。


昨夜、雨の中で引き止められた。

愛していると告げられた。

それでも朝になれば、何かが変わってしまっているかもしれないと、どこかで怯えていたのだ。


セレスティアは、それ以上余計なことは言わなかった。

ただ髪を整え、襟元を直し、最後にじっとミュレットの顔を見る。


「泣かないでよ」

「……泣いてません」

「今は、ね」

「……」

「ちゃんと行ってきなさい」


その声は、珍しくやさしかった。


夜になる頃、ミュレットはアランの私室へ通された。


重厚な執務室ではなく、もっと奥の、小さな談話室だった。

灯りは落ち着いていて、窓の外には静かな夜が沈んでいる。

ここなら、余計な耳も目も届かないのだろう。


扉の向こうには、アランがひとりで立っていた。


怪我は応急処置が済んでいる。

なのに、顔色は万全にはほど遠い。

それでもまっすぐにこちらを見ている目だけは、少しも揺れていなかった。


ミュレットは一歩入って、すぐに頭を下げた。


「昨夜は……」

「それを聞くために呼んだのではない」

「……」

「謝罪は要らない」

「……でも」

「要らない」


低い声だった。

けれど、冷たくはなかった。


ミュレットは言葉を失い、その場で立ち尽くす。


アランは少しだけ近づくと、静かに言った。


「ミュレットの力は、もう隠せない」

「……はい」


ミュレットの指先がわずかに震える。


力を使った時点で、そうなると自分でも分かっていた。


「曖昧な立場では守れない」

「……」

「個人の情だけでは、もう届かない」

「……」

「俺はどうしても、ミュレットを守りたい」

「……」

「そのためなら、国の名で守るしかない」


その言葉に、ミュレットはゆっくり顔を上げた。


アランの表情は、驚くほど静かだった。

衝動でも、感傷でもない。

昨夜のうちに考え、痛みごと呑み込み、もう決めた人の顔だった。


「ミュレット」

「……はい」

「婚約しよう」


息が止まる。


ミュレットは瞬きさえ忘れて、アランを見つめた。


次の瞬間、アランが小さな箱を差し出す。


開かれた中には、指輪がひとつだけ収められていた。


派手ではない。

けれど、目を離せないほど整った意匠だった。

王太子の婚約指輪として不足はなく、同時に、ミュレットの手に馴染むようにも思える、不思議な静けさを持っていた。


「守りの術を編んである」

アランは続ける。

「手放すな」


そのひと言が、静かに落ちる。


ミュレットの目がわずかに見開かれた。


アランはまっすぐに続けた。


「俺が守る」

「……」

「そう誓う」

「……」

「ミュレットから離れたりはしない」

「……」

「ずっと、そばにいてほしい」


声は低い。

けれど、そのどの言葉にも迷いがなかった。


婚約の申し出。

誓い。

保護の宣言。


その全部がひとつになって、まっすぐミュレットへ差し出されていた。


胸が熱くなる。


うれしい。

こんなにも、と思うほど。


本当なら、すぐにでも頷きたかった。

その手を取って、はい、と言いたかった。


けれど喉が動かない。


もし受け取れば、もう隠れてはいられない。

王太子の婚約者として公に名が出れば、帝国も、サンダレインも、今まで以上にこちらを見る。

その視線の中心に、自分だけではなくアランを立たせることになる。


自分を守るための婚約が、アランをさらに巻き込む。

その現実が、幸福のまんなかに黒く沈んでいた。


「……そんな」

ようやく出た声は、かすれていた。

「……」

「私には」

「……」

「返事、が……」


それ以上、続けられない。


アランはその沈黙を責めなかった。


少しだけ目を伏せる。

期待していなかったわけではない。

それでも、今ここで返事をもらえないことが、まったく痛くないはずもなかった。


その一瞬だけ、痛みの色がよぎる。

けれど、すぐに消えた。


「今すぐ答えろとは言わない」

「……」

「だが、受け取ってほしい」

「……」

「俺が守ると決めたことは、変わらない」


その言葉に、ミュレットはとうとう泣きそうになる。


震える手を、どうにか持ち上げる。

指輪はあまりにも静かに光っていた。


恐る恐る受け取ると、掌に小さな重みが乗る。


その重みが、苦しかった。

やさしすぎて、苦しかった。


ミュレットは指輪を見つめたまま、唇を噛む。


「……うれしい、です」

「……」

「ほんとうに」

「……」

「でも」


そこでまた、言葉が切れる。


でも、受け取ってはいけない。

でも、そばにいたい。

でも、自分は資格がない。


言葉にならないその全部を、アランはおそらく察していた。


「無理に言うな」

「……」

「今は、それでいい」


静かな声だった。


アランは無理に指へはめようとはしなかった。

ただ、受け取ったその手ごと包むように、短く触れる。


「失くさないように」

「……はい」


それだけで、もう胸がいっぱいだった。


部屋を出たあと、ミュレットはしばらく自室へ戻ることができなかった。


指輪を握ったまま、人気のない回廊の窓際へ立つ。

夜の庭は静かで、風だけが木々を揺らしている。


掌を開く。

そこにある指輪は、さっきと変わらぬ光を湛えていた。


そっと触れる。


アランの声がよみがえる。


俺が守る。

そう誓う。

離れたりはしない。

ずっと、そばにいてほしい。


目を閉じれば、そのまま泣いてしまいそうだった。


うれしい。

どうしようもなく、うれしい。


それなのに、返事ができなかった。


指輪を握る指先へ力がこもる。

あたたかい。

守りの術が織り込まれているからなのか、さっき触れたアランの体温が残っている気がするからなのか、自分でも分からない。


そのあたたかさが、まるで今の自分には過ぎたもののように思えて、苦しい。


そばにいたい。


そう願うほど、離れなければならない気がした。


ミュレットはしばらく迷ったあと、指輪をそっと胸元へ引き寄せた。

近くに置いていたい。

けれど、まだ指にはめる勇気はない。


その夜、ミュレットはほとんど眠れなかった。


指輪を胸元で握ったまま、何度も目を閉じ、

何度も開き、

そのたびに胸の奥で、

同じ答えの出ない問いだけが静かに揺れていた。



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