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Episode 53. ふたつの決意



雨の中を戻ってきた二人を見た時、王城の者たちは誰もすぐには言葉を発せなかった。


夜更けの門。

濡れた石畳。

まだ完全には拭いきれていない血の痕。

その先の灯りの下を、アランはミュレットを支えるように抱き寄せたまま、ゆっくりと歩いてくる。


門番は慌てて頭を下げ、近衛たちは一歩引き、侍女たちは息を呑む。

通りかかった文官も、その場で足を止めた。


静かだった。


誰もが今夜の襲撃を知っている。

王城の内側にまで刃が入り込んだことも、ディルクが倒れ、兵士たちが血を流したことも。

そして、ミュレットが常識を超えた光でその命を繋ぎ止めたことも。


恐れているのではない。

軽々しく口にしてはいけないと、皆が本能で悟っていた。


何かが起きてしまった。

この夜を境に、王城の均衡が少しずつ変わっていく。


そのことだけが、重く共有されていた。


アランは誰の視線も気に留めない。

いや、留める余裕がないのかもしれなかった。


腕の中で、ミュレットの歩みは危うい。

意識はある。

けれど広域治癒の反動と、雨の中を走った疲労で、今にも崩れそうだった。


「部屋を」


アランが低く言う。


「すぐに整えます」


セレスティアが答える声はいつもより鋭かった。

だが、その動きに迷いはない。


自室へ通されると、ミュレットは椅子へ座る前にふらついた。

セレスティアが素早く支え、侍女たちが濡れた外套を外し、乾いた布と湯を運ぶ。


「じっとして」

セレスティアが低く言う。

「……はい」

「はい、じゃないわ」

「……」

「勝手に消えないで」


その一言だけが、静かに落ちた。


怒鳴るわけでもない。

責め立てるわけでもない。

なのに、ひどく胸に刺さる声音だった。


ミュレットは視線を落とす。


「今は温まりなさい」

「……」

「襲撃があって、殿下が傷を負って、ディルク様も倒れて」

「……」

「その上、あなたまでいなくなったら……」


そこから先は言わなかった。

けれど言葉にしなくても十分だった。


ミュレットは返事の代わりに、ただ小さく肩を縮める。


セレスティアはそれ以上は責めなかった。

叱ってどうにかなる顔ではないと分かったのだろう。

代わりに温かな飲み物を手渡し、侍女たちへ目配せする。


「今夜は、部屋でひとりにしないで」

「はい」

「でも騒がないこと」

「承知しました」


それだけ言うと、セレスティアは一度だけミュレットの頬へ触れた。


「あなたはここに居ていいの」

「……」

「それを忘れないで」


ミュレットの唇がかすかに震えた。

けれど返せたのは、やはり小さな謝罪だけだった。


「……ごめんなさい」

「だから、それはあと」


セレスティアはそこでようやく、ほんの少しだけ苦く笑った。


部屋を辞したアランは、医務官による最低限の処置だけを受けた。


傷は深くはない。

だが浅くもない。

それでも彼自身は、そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、次々と上がってくる報告へ目を通していた。


襲撃経路。

死んだ暗殺者たちの身元。

門と回廊の警備。

今夜この王城で何が起きたのか。


それらの報せのどれよりも、頭の中心にあるのは別のことだった。


ミュレットが消えようとしたこと。

そして、あの雨の中で吐いた言葉。


――治せるのに、治さなくて。

――わたしは、たくさんの人を死なせてきました。


その言葉が離れない。


処置を終え、ようやく人払いした部屋で、アランは椅子へ腰を下ろした。


ほどなくして、ディルクが入ってくる。


まだ顔色は悪い。

だが立っている。歩いている。声も出ている。

それだけで、本来なら奇跡だった。


「無理をするな」

アランが言う。

「殿下ほどではありません」

ディルクは低く返す。

「少し、お話を」

「ああ」


扉が閉まり、部屋の中には二人きりになる。


しばらく沈黙が落ちたのち、ディルクが口を開いた。


「ミュレット様のことですか」

「ああ」


アランは少しだけ目を伏せた。


「俺は感謝している」

「……」

「ミュレットが、戦後の混乱の中、俺のもとへ来たことに」


ディルクは静かに聞いていた。


「あの時――」

アランの声は低かった。

「没落した領地の人間を、雇うと言ったのを覚えているか」

「覚えております」

「お前は反対したな」

「……はい」


ディルクは否定しなかった。


「情でそんなことを始めれば、戦後の再建にさらに負荷がかかる、と申し上げました」

「ああ」

「間違っていたとは、今でも思っておりません」

「分かっている」


アランはそこで、ゆっくりと言葉を継いだ。


「遠征先で、ひとりの若者に石を投げられた」

「……」

「領地の息子だった」

「……」

「何が戦争を終わらせただ、と叫ばれた」

「……」

「家族も、子どもも死んだ。植えた花は何度も燃やされた」

「……」

「俺たちは何のために生きているのか、と」


静かな部屋の中に、その言葉だけが残る。


ディルクはわずかに目を伏せた。

あの頃のことを、彼もまた忘れてはいないのだろう。


「城へ戻ってから、考えた」

アランは言う。

「戦を終わらせたと口にするだけでは足りない」

「……」

「奪われた者が、その後の生き方を選べる国でなければ意味がない」

「……」

「だから雇うと決めた」


ディルクは短く息をついた。


「やってみるしかない、と」

「ああ」


アランは顔を上げる。


「ミュレットも同じだ」

「……」

「幼い頃から隠し、戦時中も、戦後も、この城へ来てからも、ずっと隠してきた」

「……」

「隠さなければ、生き方を選べなかったからだ」


その一言に、ディルクの目がわずかに動いた。


「だから、いつもどこか冷静だった」

アランは続ける。

「一歩引いて、諦めたように慎重で」

「……」

「幸せそうに見えても、どこかで終わりを待っていた」


それは、ようやく辿り着いた理解だった。


ミュレットは恐れを抱えていただけではない。

ずっと、自分を小さくし、奪われる前提で生きてきたのだ。


「聡明ですから」

ディルクが低く言う。

「晩餐会へ出れば、他国の王子にも目をつけられる」

「ああ」

「力を知られずとも、人としてすでに目立つ」

「……」

「まして今夜の件があれば、もう放ってはおかれますまい」


アランは頷く。


「想いだけでは守れない」

「……」

「肩書きだけでも足りない」

「……」

「必要なのは、国だ」

「……」

「そして、誰にも軽々しく手を出させない名だ」


短い沈黙ののち、アランは言った。


「……婚約する」


ディルクの目が、はっきりとアランを見る。


「殿下」

「このままでは守れない」

「……」

「守るなら、クレスティアの名で守る」

「……」

「誰にも奪わせない立場を与える」


それは衝動ではなかった。

王太子としての決断だった。


ディルクはしばらく黙っていたが、やがて静かに頭を垂れた。


「それが、もっとも重く、もっとも正しいでしょう」

「……」

「ただし、ミュレット様は拒まれるかと」

「ああ」

「ご自身に、その資格はないとお考えでしょうから」

「分かっている」

「……」

「それでも、決めた」


アランの声は低く、揺るがなかった。


それから少しして、アランは再びミュレットの部屋を訪れた。


灯りは落とされ、室内は静かだった。

侍女たちは外へ下がり、セレスティアも今は席を外している。

ひとりにならないよう配慮はされているが、今だけは二人きりにしたのだろう。


ミュレットは寝台に半身を起こしていた。

着替えは済んでいる。

髪も乾かされている。

けれど顔色はまだ悪く、目元も赤い。


アランが入ると、ミュレットは慌てて起き上がろうとした。


「起きるな」

「……でも」

「そのままでいい」


アランが低く言うと、ミュレットは動きを止めた。


しばし沈黙が落ちる。


ミュレットは視線を伏せたまま、小さく言う。


「申し訳、ありません」

「それを聞きに来たんじゃない」

「……」

「謝るなとは言わない」


ミュレットの指先が、寝台の布をきゅっとつかむ。


アランは少しだけ近づいた。


「ようやく分かった」

「……」

「ミュレットが何をしてきたのか」

「……」

「何を隠してきたのか」

「……」

「どうして、泣いていたのかも」


その言葉に、ミュレットの睫毛が揺れた。


「驚かなかったとは言わないが」

「……」

「ディルクと、皆の命を繋いでくれたこと、全てを明かしてくれたことに感謝している」

「……」

「俺は、ミュレットを手放さない」


その声は静かで、けれど不思議なくらいあたたかかった。


ミュレットはようやく、少しだけ顔を上げる。


「アラン、さま」


小さく、確かめるような呼び方だった。


「うん?」


アランは、ごくやわらかく微笑んだ。


怒りも焦りも、今はそこにない。

ただ、まっすぐに彼女を見るやさしい目だけがある。


その微笑みを見た瞬間、ミュレットの中で、もう少しだけ欲が出た。


まだ嫌われていないのなら。

まだここにいていいのなら。

もう少しだけ、甘えてもいいのではないかと。


「……だき、しめて?」


言ったあとで、ミュレット自身が目を見開く。


子どものような言い方だった。

情けないほど弱いお願いだった。

でも、今の彼女にはそれが精いっぱいだった。


アランの表情が、ほんの一瞬止まる。

次の瞬間には、もう迷いなく手が伸びていた。


「ああ」


そう言うと、アランは寝台の端へ腰を下ろし、そのままミュレットをそっと抱き寄せる。


やさしい抱擁だった。

雨の中で引き留めた時のような必死さではない。

失わないよう確かめながらも、今はただ落ち着かせるための腕だった。


ミュレットはその胸へ額を押しつける。

それだけで、張っていたものが少しずつほどけていく。


「……帰ってきてくれて、よかった」

「……帰りたかったんです。アラン様のところへ」


その返事を聞いた瞬間、アランの腕にこもる力が、はっきりと強くなった。

失いかけたものを、ようやくこの手の中へ取り戻したのだと確かめるように。

痛いほどではない。けれど、もう二度と離さないという意思だけは、いやというほど伝わってくる。


「……愛している」

「……私も、愛しています」


最後のひと言だけ少し強くて、それがかえってやさしく響いた。

まっすぐに抱き締められたまま、ミュレットはようやく、自分はもう戻ってきたのだと信じることができた。


やがてアランがそっと身を離す。

完全には離れないまま、額へ触れるような距離で言う。


「休め」

「……」

「今夜はもう、何も考えなくていい」

「……はい」


ミュレットはその言葉に、小さく頷いた。


アランが部屋を出たあと、室内にはようやく少しだけ穏やかな静けさが戻った。


しかし、城の外ではすでに別の夜が動いていた。




グランツェル帝国。


王都の奥深く、豪奢でありながらどこまでも冷えた空気に満ちた一室で、ひとりの男が静かに椅子へ身を預けていた。


黒に近い灰髪には、ところどころ白が混じっている。

病んだような白い顔色。

鋼色の目だけが死んでいない。

むしろ、弱りきった肉体に反して、その眼差しだけが異様なほど冴えていた。


オルディウス。

グランツェル帝国皇帝。


彼の前へ、黒衣の男が膝をついている。


「クレスティアより報告です」

「……」

「確認されました」

「何がだ」

「高位治癒に相当する力」

「……」

「広域展開、選別も可能かと」


オルディウスは、すぐには答えなかった。


細い指先が、椅子の肘掛けを静かに叩く。

その動きすら、妙に無機質だった。


「確証は」

「はい、陛下」

「……そうか」


そのひと言だけで、部屋の空気がさらに冷えた気がした。


オルディウスはゆっくりと目を閉じる。

結界術の代償で蝕まれた身体は、もう長くはもたない。

誰もがそう思っている。

だが、本人だけはその終わりを受け入れていない。


生き延びることは正義だ。

帝国を維持することは正義だ。

そのために必要なものは、手に入れなければならない。


それが人であっても。


やがて、彼は目を開けた。


「……やはり、いたか」


声は静かだった。

喜びでも興奮でもない。

ただ、長く探していたものの所在がようやく確認された時のような、冷たい納得だけがあった。


「壊すな」

「……」

「生きたまま、連れてこい」


跪いた男が深く頭を垂れる。


「承知いたしました」


クレスティアでは、ある男が守るために名を与える決意をした。

帝国では、ある皇帝が所有するために奪う決意を固めた。


同じ夜、まったく違う二つの意志が、ひとりの娘へ向かって静かに動き出していた。



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