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Episode 52. 雨の先で



ミュレットの背が、血と光の残る回廊の向こうへ消えていく。


その一瞬、アランは本当に動けなかった。


追わなければならない。

そんなことは分かっている。

分かっているのに、胸の奥へ突き立った喪失の気配が、信じられないほど重く身体を縫い止めていた。


「……殿下」


かすれた声がした。


振り向けば、壁を支えにディルクが立ち上がろうとしている。

傷は塞がっている。

それでも、失われた血まで一瞬で戻ったわけではない。

顔色は悪く、呼吸も浅い。


「動くな」

アランが低く言う。

「その体で――」

「追ってください」


ディルクは遮るように言った。


「殿下、行ってください」


その声音は、これまでにないほど強くアランの背を叩いた。


「彼女は、殿下の隣にいるために、自ら退路を断ったのです」

「……退路?」

「正体を明かし、救いを与えた。これまでの安寧を捨て、追われる身になることを選んだということです。……あなたのために、彼女は自分を壊した」


自分のために、自分を壊した。


その言葉が、アランの胸を鋭く貫く。


「失う前提で生きるのは、もう終わりにすると仰った……今ここで彼女を独りにすれば、ミュレット様は永遠に、ご自分を許せなくなる」


勝たねばならない。

運命にも、彼女の抱える絶望にも。


アランの目が、ようやく定まる。


「近衛を出せ」

「はっ」

「西と南の小門を確認しろ。……血のついた女が通らなかったか、番にも聞け」

「は」

「俺は西へ行く」


そう言い切った時には、もう迷いはなかった。


「何をしてでも連れ戻す」


アランは振り返らず、回廊を駆けた。


小門へ続く通路には、まだ混乱の名残があった。

走る兵の足音。

交わされる報告。

運ばれる負傷者。

だが、その中に混じって、濡れた石床に点々と小さな赤が続いている。


血だ。


誰のものかなど、考えたくもない。


アランはその痕を一目で追う。

小門の番は青ざめた顔でひざまずいた。


「先ほど、血のついたミュレット様が……」

「止めなかったのか」

「っ……お急ぎのご様子で、城内の騒ぎに関わっていたのかと……」


それで十分だった。


アランは門の外へ飛び出した。



ミュレットは走っていた。


息が切れる。

肺が焼けるように熱い。

足元は何度ももつれ、視界も揺れる。

広域治癒の直後だというのに、こんなふうに走っていていい身体ではないことくらい、自分がいちばんよく分かっていた。


それでも止まれない。


止まったら、戻ってしまう。


アランの顔が浮かぶ。

自分を抱き止めた腕。

怒りと恐怖を押し殺した声。

そして、あの光を見つめていた目。


きっと、もう知られてしまった。


自分が何を隠してきたのか。

どれほど大きなものを隠し持っていたのか。

どれほど多くの命を、見送ってきたのか。


医務室で、何人もの死者を見た。

手を尽くしても救えない人だけではない。

もし本気で力を使えば、助けられたかもしれない人もいた。


戦場で、血に濡れた兵士が、かすれた声で母を呼んでいた。

熱に浮かされた女が、幼い息子の名を繰り返しながら冷えていった。

指先を伸ばしさえすれば、間に合ったかもしれない命があった。


それでも自分は、手を伸ばさなかった。


できなかったのではない。

しなかったのだ。


怖かったからだ。

知られるのが。

奪われるのが。

それ以上に、自分が何者かを見抜かれるのが怖かった。


その結果、たくさんの人を死なせてきた。


自分の手は、ディルクを救った光ではなく、見捨ててきた人々の冷たい血で汚れている。


そんな女が、光の中に立っていいはずがない。

アランの隣で、幸福そうに笑っていいはずがないのだ。


襲撃の直後で、近衛も兵も、医務官も侍女たちも、皆それぞれの持ち場へ走っている。

怒号、報告、足音、運ばれる負傷者。

普段なら厳重なはずの夜の出入りも、今は混乱の渦中にあった。


ミュレットはその隙を縫うように走る。


誰かに見つかっても、今は呼び止める余裕がない。

すれ違う者たちも、血のついた衣と乱れた姿を見て、逆に道を空けた。

何か急ぎの役目があるのだと思ったのかもしれない。


西の小門へ続く通路は、騒ぎの中心から少し外れているぶん、人の目が薄かった。

厩舎のほうから、干し草と濡れた土の匂いが流れてくる。


門のそばにも人はいた。

けれど皆、城内から飛んでくる報せに気を取られていた。

門の開閉そのものより、今どこで何が起きているのかに意識が向いている。


ミュレットは俯いたまま、その混乱に紛れるように外へ出る。


呼び止める声はなかった。


王城の外は、すでに雨の匂いがしていた。


夜の森へ続く小道を、ただ前へ進む。

行き先は決めていない。

決められるはずもない。


ただ、離れなければならないと思った。


帝国は来る。

サンダレインも、帝国も、知れば欲しがる。

あの暗殺者の言葉が、耳の奥で何度も反響する。


また戦争がはじまるぞ。


自分がいる限り。

この力がある限り。

ここにいれば、アランを、皆を巻き込む。


そんなことだけは、耐えられなかった。


ぽつり、と頬へ何かが落ちた。


雨だった。


最初はひと粒。

次に二粒。

やがて、葉を打つ音が増えていく。


ミュレットは立ち止まらなかった。

濡れるのも構わず、ただ森の中へ進んでいく。


体力はもう限界だった。


ふら、と木の幹へ手をつく。

呼吸がうまく整わない。

脚も震えている。

魔力もかなり削られていた。


それでも、まだ行かなければと身体を起こそうとした、その時だった。


「ミュレット」


低い声が、雨音を切った。


ミュレットの肩が大きく揺れる。


振り向かなくても分かった。

分かってしまった。


けれど、振り向かないままではいられなかった。


ゆっくりと振り返る。


そこにいたのは、アランだった。


雨の中を急いできたのだろう。

髪も肩も濡れている。

塞がりきっていない傷が、濡れた衣の下でなお痛々しい。

息も乱れていた。

それでも、その目だけはまっすぐミュレットを見ている。


「……どうして」


ようやく出た声は、ひどく小さかった。


「戻ろう、ミュレット」


怒っているわけではない。

それでも、その声音の底に、抑えきれないものがあるのが分かった。


ミュレットは後ずさろうとした。

だが、濡れた土で足が滑る。

逃げるほどの余力もない。


アランはそこで足を止めた。

すぐには触れない。

逃げ場を塞ぐのではなく、まず言葉を選んだ。


「話を聞け」


雨の音の中、その声だけがはっきりと届く。


「ミュレットの力は、各国に知れ渡る」

「……」

「外交相手のサンダレインも、帝国も、その力を欲しがる」

「……」

「城を出て、どうするつもりだ」


ミュレットの喉が小さく鳴る。


アランの声は、そこでさらに低くなった。


「俺から離れて片づくと思っているなら、それは違う」

「……っ」

「ひとりで抱え込んで、ひとりで消えれば済む話ではない」


その言葉に、胸の奥へ沈めていたものが、もう止まらなかった。


「それは、アラン様に迷惑がかかる」

「迷惑なものか」

「それに……!」


震える声が、雨の中で切れそうになる。

それでも、もう飲み込めなかった。


「治せるのに、治さなくて」

「……」

「わたしは、たくさんの人を死なせてきました」

「……」

「助けを求めて手を伸ばした人も」

「……」

「名前を呼びながら死んでいった人も……」

「……」

「私は、何もできなかったんじゃない……しなかったんです」

「ミュレット」

「こんな私では……」

「……」

「アラン様だって、幻滅したはずです!」

「していない」

「します! 私は……私は、人殺しと同じなんです!」


ミュレットの叫びが、雨を裂いた。


助けられたはずの命を数え、

独り、暗い牢獄の中で震えていた少女の咆哮だった。


アランはそれを聞いて、目を細めた。

怒りではなく、ひどく深い痛みに耐えるような表情だった。


「救えなかったものだけを数えるな!」


アランは雨を裂いて一歩踏み込み、逃げようとする彼女の肩を強く掴んだ。


「今日ミュレットが救った命の中に、俺がいる」

「……」

「俺の部下がいる」

「……」

「ミュレットがいなければ、あそこで失っていた命が確かにあった」


掴む手に、熱がこもる。


「そんなに自分を許せないなら、俺が許す」

「……」

「ミュレットが背負う命の数だけ、俺が“生きていい理由”を与えてやる」


その言葉は、呪いのようであり、この上なく切実な救いだった。


雨はますます強くなる。

木々の葉を打つ音が、二人の周りだけを閉ざしていくようだった。


ミュレットは後ずさろうとした。

しかし、アランの手が逃さない。


「離して」

「離さない」

「……」

「行かせない」

「……でも」

「聞け」


アランはさらに顔を寄せた。


「救えなかったものを抱えていることも」

「……」

「それをずっと一人で背負ってきたことも」

「……」

「全部、今知った」

「……」

「だからといって、幻滅などするものか」


雨が葉を叩く音だけが、二人のあいだに落ちる。


アランはミュレットの濡れた頬へ触れ、逃がさぬように視線を重ねた。


「過去も、恐れも、罪悪感も」

低く、揺るがない声だった。

「全て、受け入れる」


ミュレットの呼吸が震える。


アランは、そのままはっきりと言った。


「愛している」


ミュレットの目が見開かれる。


雨の音さえ遠のくほど近くで、アランはそのまま口づけた。


拒絶の言葉も、自責の溜息も、すべてを飲み込んで熱に変えてしまうような、強引で静かな口づけだった。


雨に濡れた唇は冷たいはずなのに、触れた瞬間だけ妙に熱い。

呼吸が止まる。

考える暇もない。

ただ、これ以上何も言えなくなる。


離れた時、ミュレットは息を乱していた。

涙はもう止まらなかった。


アランはすぐ近くで、低く、けれどはっきりと言う。


「頼む」

「……」

「ここにいてほしい」

「……」

「もう誰も、失いたくない」

「……」

「俺がこれほど望んでいるのに、離れる理由はもうないはずだ」

「……」

「ミュレットの全てを、俺は手放さない」


その言葉が、ひとつずつ胸へ落ちるたび、

ミュレットの中で張りつめていたものが崩れていく。


「……こわい」


ようやくこぼれたのは、それだった。


「知られたら、嫌われると思ってた」

「……」

「しあわせになるのが、こわかった」

「……」

「やさしくされるたびに」

「……」

「いつか、なくなると思ってた」


アランは何も遮らなかった。

ただ、逃がさないように肩を抱いている。


「でも」


ミュレットの声はもう、泣き声に近かった。


「……」

「でも、ほんとうは……」


言葉が詰まる。

涙でうまく息ができない。

それでも、どうにか絞り出す。


「ほんとうは……いきたくないです」


その一言が落ちた瞬間、

アランの腕にこもる力が、はっきりと変わった。


「なら行くな」


低く、まっすぐな声だった。


「帰ろう」

「……」

「俺のそばにいてくれ」


ミュレットは泣きながら首を振った。

しかし、拒絶ではない。


「でも、また……」

「来るなら迎え撃つ」

「……」

「奪いに来るなら、なおさら俺の手の届く場所にいろ」


それは命令に近い言葉だった。

けれど、声の奥には祈るような響きが混じっていた。


ミュレットの膝から、すっと力が抜ける。


広域治癒の反動。

走り続けた疲労。

雨で冷えた身体。

もう限界だった。


そのまま崩れそうになったところを、アランが抱き寄せる。


「……っ」

「もういい」

「……」

「歩けるか」

「……大丈夫です」

「嘘をつくな」


わずかに叱るような口調だった。

けれどそのほうが、かえってやさしかった。


アランは自身の外套を外し、震えるミュレットの肩を包み込むようにかけた。


重い布が彼女の身体を、そして晒されてしまった力の余韻ごと、世の中から隠すように覆う。

誰にも触れさせない。

誰にも渡さない。

その明確な意思が、外套の重みとなってミュレットに伝わってくる。


「戻ろう」

「……はい」


小さな返事だった。

けれど、それで十分だった。


雨の中、二人は森を引き返す。


来た時よりも、道は遠く感じた。

隣にあるぬくもりだけが、かろうじてミュレットの意識をつなぎ止める。


王城の灯りが見えた時、ミュレットはもうほとんど歩く力を失っていた。


アランが腕を回し直す。

逃がさないように。

二度と見失わないように。


その手の強さに、ミュレットは目を閉じた。


まだ何も解決していない。

帝国のことも、自分の力のことも、城に戻ればきっともっと重くのしかかる。


それでも。


今はまだ、この手を振りほどけなかった。


振りほどきたくなかった。


王城へ戻る二人を、

門の上の灯りが静かに照らしていた。


その光は、救いのようでもあり、

凍えた夜にようやく辿り着いた、ひとときのぬくもりのようでもあった。



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