Episode 51. 繋いだ命、千切れた絆
その夜、王城へ戻ってきた空気は、ひどく冷えていた。
風が強いわけではない。
夜気がことさらに厳しいわけでもない。
けれど、アランたちが城門をくぐった瞬間から、どこか肌の内側を撫でるような薄い悪寒があった。
長い一日だった。
北東の監視所。
街道沿いの不自然な攪乱。
帝国側の結界反応。
表向きはまだ戦ではない。
だが、偶然にしては出来すぎた不具合と足止めが重なりすぎていた。
アランもディルクも、そして同行した近衛たちも、疲労を隠しきれていなかった。
それでも、王城へ戻れば終わりではない。
報告を整理し、夜のうちに詰めるべきことがいくつも残っている。
「まずは内報をまとめます」
ディルクが低く言う。
「ああ」
「近衛の入れ替えも」
「任せる」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
アランは回廊へ足を踏み入れる。
灯りは落ち着いている。
警備も普段通りに見える。
だが、だからこそ妙だった。
城へ戻ったばかりの安堵が、どうしても胸へ落ちきらない。
その少し離れた場所で、ミュレットもまた足を止めていた。
眠れなかったのだ。
戻った気配を聞いて、自室にとどまってはいられなかった。
遠くからでも、無事な顔だけでも見られればと思った。
そんな言い訳を胸の内で並べながら、夜の回廊へ出たところだった。
そして、見つけた。
アランの姿。
ディルクと近衛たちの姿。
戻ってきたのだと、ようやく少しだけ息がつけた、その瞬間だった。
空気が、びり、と鳴った。
「――っ」
青白い閃光が、回廊の石床に走る。
落雷ではない。
もっと低く、もっと意図的な、広く薄く広がる魔術だった。
次の瞬間、体の内側へ強引に雷を流し込まれたような痺れが全身を駆け抜ける。
「……っ!」
近衛のひとりが膝をつく。
もうひとりは壁に手をついて辛うじて倒れずにいる。
ディルクもわずかに顔をしかめ、動きを止めた。
アランでさえ、一瞬だけ反応が遅れた。
低級の広範囲雷魔法。
殺すほどではない。
だが、一瞬、体を鈍らせるには十分だった。
その一瞬を待っていたように、闇から影が飛び込んでくる。
黒衣。
短い刃。
息を殺した、訓練された動き。
「殿下!」
最初の一撃は、まっすぐアランを狙っていた。
ディルクが割って入る。
痺れの残る体で、それでも迷いなく。
鈍い音。
肉を裂く音。
「ディルク!」
刃が、深く入る。
脇腹から腹部を抉るような一撃だった。
ディルクの体がわずかに傾ぐ。
同時に別の暗殺者が近衛へ飛び込み、二人、三人と血が上がる。
回廊が一気に戦場へ変わった。
「囲め!」
誰かの怒号が飛ぶ。
しかし痺れの残る体では、踏み込みが半歩遅い。
灯りが揺れる。
剣戟が石壁へ反響する。
狭いはずの回廊が、妙に広く、遠く感じられた。
「……っ」
ミュレットは物陰で息を呑んだ。
血。
倒れる人影。
ディルク。
近衛たち。
そして、その先にいるアラン。
駄目だと思った。
見ているだけでは駄目だと、頭より先に体が動いた。
まだ終わっていない。
暗殺者のひとりが、二撃目を狙っていた。
痺れと混戦の隙を縫って、今度こそアランへ届く軌道だった。
「アラン様!」
叫んで、飛び出す。
考えるより先に走っていた。
何ができるか分からない。
それでも、立って見ていることだけはできなかった。
ミュレットが前へ出た、その瞬間。
アランの顔色が変わる。
「来るな!」
叫ぶより早く、アランの腕が伸びる。
ミュレットの体を抱き寄せるように引き込む。
そのまま背を向けるようにして庇った直後、刃が走った。
「――っ」
鈍い裂傷音。
アランの肩口から腕にかけて、赤が散る。
「アラン様!」
「動くな……!」
低い声だった。
けれど、今まで聞いたことのない温度がそこにあった。
怒り。
焦り。
恐怖。
それを全部、底へ沈めたまま、なお冷えきった声。
ミュレットを腕の中へ抱き込んだまま、アランが顔を上げる。
その目を見た瞬間、暗殺者のひとりが一歩たじろいだ。
「……下がれ」
誰に向けたのかも分からないほど低い声が落ちる。
次の瞬間、空気そのものが裂けた。
アランの力が解き放たれる。
複数の見えない刃が走る。
回廊いっぱいに、あらゆる物質と魔法の事象すらも切り捨てる『断界』が吹き荒れた。
暗殺者たちがとっさに展開した防御魔法ごと、空間がまるで薄紙のように裂ける。
灯りが揺れ、石壁の影まで切り裂かれたように歪む。
ひとり。
ふたり。
暗殺者の体が音もなく崩れる。
逃れようとした者の腕が飛ぶ。
踏み込んだ者の足元が割れる。
最後まで刃を向けようとした男の喉元に、見えない断裂が走る。
容赦がなかった。
普段のアランならまだ抑える一線を、今夜は何ひとつ残さなかった。
それは怒りというより、本能に近い拒絶だった。
ミュレットへ触れるものを、許さない。
ほんの数息で、襲撃は終わっていた。
生き残った暗殺者は一人だけ。
壁際で血を吐き、まだかろうじて息をしている。
だが、それを確かめるより先に、ミュレットの視界は別のものへ奪われた。
「ディルク様……!」
倒れたままのディルク。
近衛たちも数人、床に伏している。
血の量で分かる。
普通の処置では間に合わない者が、複数いる。
ミュレットはアランの腕を振りほどくようにして駆け寄った。
「待て、ミュレット!」
呼ぶ声が背から飛ぶ。
もう足は止まらなかった。
ディルクのそばへ駆けつけた時には、すでに医務官がひとり膝をついていた。
止血の布を押し当て、必死に傷を見ている。
けれど、その顔は青ざめきっていた。
「どいてください……!」
ミュレットは医務官の脇へ滑り込み、震える手をディルクの傷口へ伸ばした。
指先に触れたのは、生温かく、おびただしい量の血。
そして回廊にむせ返るような、濃い鉄の匂い。
「ディルク様……!」
声をかけても、返事はない。
ひどく冷えきった肌。
胸の上下動は今にも止まりそうで、かすかな呼気は血の泡が弾ける音に掻き消されている。
医務官が顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。
その目には、どうしようもない諦めが滲んでいた。
「……っ」
――間に合わない。
普通の医術では、もうこの命を繋ぎ止めることはできない。
ディルクの傷は深い。
出血も多い。
息が浅い。
意識は、あるのかないのか分からない。
近くの兵士も肩から胸へかけて大きく裂かれ、別のひとりは足をやられている。
もうひとりは血泡を吐いた。
普通の医術では、救えない。
そう理解した瞬間、ミュレットの指先が宙で止まった。
ここで力を使えば、どうなるか。
隠し続けてきたものをすべて明かせば、自分はもう、この場所にはいられない。
脳裏に、ディルクの穏やかな声が蘇る。
『殿下にとって、あなたは唯一の存在ですから』
『あなたはご自分が思っているより、ずっとこの城に必要とされています』
『あなたが思っているより、ずっと前からです』
いつも背中を押し、ここにいていいのだと教えてくれた言葉たち。
そのすべてを自分から手放し、否定することになる。
この城での温かい日々も。アランのそばにいるという未来も。
――でも。
目の前で命を散らそうとしているのは、その言葉をくれたディルク自身だ。
ミュレットは、きつく唇を噛んだ。
震えていた指先から、ゆっくりと力が抜けていく。
伏せられていた睫毛が上がり、その瞳がまっすぐにディルクを見つめた。
そこに怯えはない。
すべてを失うと分かった上で、それでも手を伸ばす。
静かに、けれど絶対に揺るがない、覚悟を決めた目だった。
迷いは、完全に消え去っていた。
「ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ミュレットはディルクの傷口へ両手を重ねる。
次の瞬間、光が溢れた。
やわらかい色ではない。
凛と研ぎ澄まされた、まっすぐな光だった。
傷が塞がっていく。
流れていた血が止まる。
裂けた肉が、ありえない速度で結び直される。
途切れかけていた呼吸が深く戻る。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
魔法だ。
だが、誰もが知る治癒魔法とは違う。
医務官が用いる補助的な癒やしではない。
死の淵へ沈みかけた命を、力ずくで引き戻すような光だった。
ディルクの胸が、はっきりと上下する。
「……殿、下……」
かすれた声がこぼれる。
助かったのだ。
ミュレットはそれを確認した瞬間、肩を大きく揺らした。
けれど、そこで終わらなかった。
壁際で倒れていた暗殺者が、血の混じる笑いを漏らしたのだ。
「……あ、あ……」
皆の視線がそちらへ向く。
男は自らの死が迫っていることなど気にも留めず、光の中心にいるミュレットを狂気に満ちた目で見つめていた。
「まさか……本当に『あれ』が存在したとは……」
ぞっとするような、歓喜の笑いだった。
「見つけたぞ……化け物め……!」
「黙れ」
アランの声が刃のように落ちる。
だが、男は喉の奥で嗤い続けた。
「また戦争がはじまるぞ……」
その一言が、ミュレットの胸へ深く沈んだ。
また。
その力を持つ者がいる限り。
帝国は止まらない。
この国を探る動きも、アランを削る動きも、ここで終わらない。
自分のせいで。
自分がいるから。
その考えが、言葉より早く胸の奥で形を取る。
ミュレットはゆっくり立ち上がった。
さっきまでの彼女ではなかった。
震えていない。
泣いてもいない。
怯えてもいない。
ただ、静かに覚悟を決めた顔をしていた。
その表情を見た瞬間、アランの胸に冷たいものが走る。
違う、と本能が告げた。
この顔は、ただ誰かを助けようとしている顔ではない。
何かを守るために、自分から遠ざかることを決めた顔だ。
「ミュレット」
アランが名を呼ぶ。
けれどミュレットは、振り返らなかった。
両手を静かに前で重ねる。
目を閉じる。
次の瞬間、その足元に、巨大な魔法陣が広がった。
光の輪が石床を覆う。
幾重もの文様が回廊いっぱいに展開され、さらに中庭へまで滲むように広がっていく。
誰も、動けなかった。
ミュレットの髪が、風もないのに揺れる。
開いた瞳は静かで、底知れない光を宿していた。
「……っ」
魔法陣から放たれた光が、倒れた兵士たちを包む。
胸を裂かれた者の傷が塞がる。
足を貫かれた者の血が止まる。
息も絶え絶えだった者の顔色へ、ゆっくりと生気が戻る。
ひとり。
またひとり。
重傷も軽傷も関係なく、光は味方だけを選んで癒やしていった。
死にかけていた兵士が、苦しげに息を吸い込む。
うめき声が戻る。
誰かが涙声で名を呼ぶ。
その光の端は、アランの肩の傷にもわずかに触れた。
裂けた皮膚が閉じ、流れていた血が止まる。
だがその癒やしは、兵たちへ向けられたものよりずっと浅い。
自分より先に救うべき者たちがいると、ミュレットは最初から選んでいた。
だが、同じ空間に倒れている暗殺者たちには、その光はひとしずくたりとも触れなかった。
広範囲。
選別。
そして、死の淵から命を引き戻すほどの治癒。
もはや隠しようがない。
この場にいる誰もが、見てしまった。
ミュレットはただの医務官ではない。
ただのやさしい娘でもない。
国ひとつを揺るがしかねない力を持つ存在だと。
光の中に立つミュレットは、ひどく美しく、そして遠かった。
アランはその姿から目を離せない。
救われている。
ディルクも兵士たちも、皆。
この光がなければ失っていた命が、確かに今、繋ぎ止められている。
それなのに、胸へ込み上げてきたのは安堵ではなかった。
恐ろしいほどはっきりと分かったのだ。
この光を見せた瞬間に、ミュレットはもう以前のままではいられない。
そして彼女自身も、それを分かってしまった。
遠くへ行ってしまう。
距離ではない。
もう腕の中へ抱き寄せるだけでは、引き留められない場所へ。
やがて魔法陣の光が、ゆっくりと薄れていく。
静寂が落ちた。
そこに残ったのは、救われた命と、消えない現実だった。
倒れていた兵士たちは息を取り戻している。
ディルクも壁を支えにしながら、信じられないものを見るようにミュレットを見ていた。
近衛たちも、誰も言葉を発せない。
暗殺者だけが、癒やされぬまま冷たい床に転がっていた。
ミュレットは静かに息を吐く。
少しだけ顔色は悪い。
なのに、その目は揺らいでいなかった。
そして、ゆっくりとアランへ視線を向ける。
そのあと、ディルクへ。
救われた兵士たちへ。
「ありがとうございました」
静かな声だった。
普段の彼女なら、泣いていただろう。
声を震わせ、謝りながら立ち尽くしていただろう。
なのに、ミュレットは微笑んでいた。
痛いほど穏やかで、
もう泣くことさえ決めていない顔だった。
その微笑みを見た瞬間、アランの中で何かが凍りつく。
「……ミュレット」
名を呼ぶ。
けれど、その声は自分でも信じられないほど弱かった。
止めなければならない。
行かせてはいけない。
今すぐ抱きしめて、何も言わせずにこの場へ留めなければならない。
そう分かっているのに、足が動かない。
ミュレットはそのまま踵を返した。
「待て!」
ようやくアランが声を上げる。
聞こえているはずなのに、ミュレットは振り返らない。
裾を翻し、
血と光の残る回廊を抜け、
そのまま夜の王城を駆けていく。
止める者はいなかった。
止められる者もいなかった。
あまりにも静かで、あまりにも決意に満ちた背中だった。
城の外へ向かって、走っていく。
アランは一歩も動けなかった。
追うべきなのに。
叫んで、その腕を力ずくで掴むべきなのに。
だが、先ほど彼女が向けた『すべてを諦めたような、完成された微笑み』が、アランの足を鎖のように縛り付けていた。
今ここで追いかければ、彼女の悲壮な決意ごと粉々に壊してしまう気がして。
あらゆる魔法や物質を切り裂く絶大な力を持っていながら、ただ一人の少女の心を引き留める術を、自分は持っていないのだと叩きつけられて。
伸ばすべき手も、踏み出すべき足も、すべてが遅れていた。
ただ、立ち尽くす。
頬に触れた温度も、
腕の中へ抱き込んだ重さも、
さっきまでたしかにそこにあったはずなのに。
今はもう、夜の闇に溶けていく背中だけが遠い。
この夜、多くの命は救われた。
それでもアランは知ってしまった。
癒やしの光がどれほど鮮やかでも、
それが照らし出すものが、必ずしも希望だけではないのだと。
守りたかったものは、いま、
自分の手の届かない場所へ走り去ろうとしている。
その現実の前で、
アランはただ、立ち尽くすことしかできなかった。




