Episode 50. 庭の眠り
アランがまた城を出てから、ミュレットは何日か、ひどく浅い眠りしか取れていなかった。
医務室の仕事は、いつも通りこなしている。
包帯を切り、薬草を選び、熱のある者へ水を持たせ、疲れた兵へ塗り薬を渡す。
手は動く。
間違いもない。
なのに、胸の奥だけがずっと落ち着かなかった。
帝国は何かを探すように動いている。
あの夜、私室でアランが口にした言葉が、何度も心へ引っかかったままだった。
何を。
誰を。
どうして。
答えは分からない。
分からないまま、ただ嫌な気配だけが近づいてくる。
それが、眠る前になるといっそう大きくなるのだ。
眠らなくてはと思うほど、眠れない。
目を閉じれば、遠くの街道、結界、不穏な騎影、疲れ切ったアランの顔が浮かんでしまう。
その日の昼下がりも、ミュレットは少し重い頭のまま医務室を出た。
城の中庭は、日差しのある場所ほど人が多い。
洗い物を運ぶ侍女、書類を抱えた文官、休憩中の兵。
けれど、奥へ進むにつれて、人の気配は薄くなっていった。
ミュレットが足を止めたのは、中庭の隅にある、少し奥まった一角だった。
風の通り道が少なく、日当たりもあまりよくない。
庭師が多少は手を入れた形跡があるものの、まだ十分には整っていない場所だ。
草木の伸び方も、花のつき方も、陽のよく当たる場所とは違っている。
「……でも」
ミュレットはその場を見回した。
悪くない、と思う。
この影の多さは、夏ならむしろ心地いいだろう。
周囲の枝を少し払って、風の通りを作ってやれば、涼しい場所になるかもしれない。
土も完全に痩せているわけではない。
ここに合う植物を選べば、十分やっていけそうだった。
「手を加えれば、いい場所になりそう」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
華やかな庭ではない。
けれど、こういうひっそりした場所は嫌いではなかった。
むしろ、陽のよく当たる明るい花壇より、少し影があって静かなところのほうが、今の自分には落ち着く気がした。
ミュレットはしゃがみ込み、足元に咲く小さな花へそっと触れた。
名も知らない、丈の低い花だった。
白とも薄紫ともつかない色の小さな花弁が、葉陰に慎ましく揺れている。
やわらかい。
草の匂い。
土のぬくもり。
日向ほど熱を持っていない空気。
ずっと張っていた気持ちが、その場所ではじめて少しだけ緩んだ。
「ここ、好きかもしれない」
そう思ってしまった途端、急に身体が重くなる。
疲れていたのだと、そこでようやく気づく。
夜ごと眠れていなかったのだから、当然だった。
けれど医務室にいれば、やることがある。
人の前では平気な顔もできる。
こうして静かな場所へ来てしまうと、隠していた疲れが一気に表へ出てしまうらしい。
ミュレットはそっと草の上へ身を横たえた。
地面は少し冷たくて、でも硬すぎない。
視界の端に、小さな花と葉先が揺れている。
見上げた空は枝に切り取られて狭かったが、それがかえって心地よかった。
もしアランが戻ったら、この場所のことを話そう。
ここを少し整えれば、夏の間はいい休息の場になるかもしれない。
風の通し方も、植えるものも、少し考えて――
そこまで考えたあたりで、眠気が急に深くなる。
ミュレットは小さな花へ指先で触れたまま、ゆっくりと目を閉じた。
その頃、アランは城門をくぐっていた。
遠征というほど大きな動きではなかった。
だが、街道の様子を見て、監視所の報告を受け、いくつかの確認を終えて戻るころには、思っていたより時間が経っていた。
馬を降りる。
近衛が付き従う。
ディルクが横で何か報告している。
それでもアランの意識の一部は、すでに別のところへ向いていた。
戻ったら、ミュレットの顔を見る。
それは別に、口に出した約束でも何でもない。
けれど、いつの間にか自分の中では当然のようになっていた。
まず医務室へ向かう。
いない。
食堂へ目をやる。
いない。
中庭の明るい側も見る。
いない。
そこで、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
「殿下?」
ディルクが気づいたように声をかける。
アランは返事をしなかった。
いない。
その事実だけが、妙に引っかかる。
こんな時期に、ひとりでどこへ行く。
また外へ出たのではないか。
城の中といえど、今は何が起きてもおかしくない。
帝国は何かを探すように動いている。
見えていないだけで、こちらの内側へ手を伸ばしていても不思議ではない。
悪い想像が、一気に頭を駆け抜ける。
歩幅が速くなる。
ほとんど走るように、中庭の奥へ向かう。
近衛たちも、何か異変を察したのか無言でついてくる。
その時、気配を感じた。
薄い。
だが、確かにそこにいる。
奥まった一角。
風通しの悪い、少し暗い場所。
その先に見えたのは、草のあいだからのぞく脚だった。
一瞬で、身体が冷えた。
地面に横たわる脚。
動かない身体。
最悪の想像が、あまりにも簡単に頭をよぎる。
「ミュレット!!」
叫びながら駆け寄る。
しゃがみ込み、肩へ手をかけて仰向けにする。
だらんとした手。
閉じたまぶた。
乱れた髪。
手が震える。
髪を払う。
頬に触れる。
首へ指を当てる。
そしてようやく、規則正しい寝息に気づいた。
「……っ」
遅れて、死ぬほど深いため息が漏れた。
全身の力が抜ける。
その場へ座り込むようにして、アランはしばらく動けなかった。
生きている。
ただ、眠っていただけだ。
それだけのことに、心臓はまだ乱れている。
さっきまでの恐怖が、今さら遅れて身体の奥を揺らしてくる。
「…………こんなところで」
低く呟く。
草花に囲まれたその姿は、あまりにも無防備だった。
本気で失うと思った直後だからか、その寝顔の穏やかさが余計に胸へ刺さる。
「無防備だ」
返事はない。
当然だ。
眠っているのだから。
「……心臓に悪い」
自分でもおかしいと思う。
助かったことに安堵しながら、その同じ胸の奥で、まだ恐怖の余韻が冷たく残っている。
そして、その恐怖を忘れさせるように、眠るミュレットがあまりにも可愛らしい。
陽のよく当たる場所ではなく、こんな影の多い一角を見つけて、気に入って、そのまま寝てしまう。
いかにも彼女らしい。
よく見れば、目の下に薄い疲れもある。
ちゃんと眠れていなかったのだと、すぐに分かった。
自分がいない間、不安を抱えていたことも。
怒れない。
むしろ胸の奥が痛い。
アランは静かに腕を差し入れ、ミュレットの身体を抱き上げた。
軽い。
眠ったまま、彼女は小さく息をするだけだった。
よほど深く眠っているらしい。
腕の中のその重みが、かえって現実感をくれる。
生きている。
あたたかい。
ここにいる。
立ち上がる。
そのまま城内へ歩き出す。
途中ですれ違う者たちが、ぎょっとしたように目を見開く。
道が自然に開く。
侍女も、兵も、文官も、誰ひとり声をかけられない。
王太子が、眠る娘を抱いて歩いている。
それがどれほど目立つか、アラン自身が気づいていないわけではない。
だが、今はどうでもよかった。
気にする余裕もなかった。
ミュレットの自室へ入る。
室内は静かだった。
薄い光が差し込み、寝台も整えられている。
アランはそっと彼女を寝台へ横たえた。
乱れた髪を整える。
頬へ触れる。
眠ったままのミュレットは、少しだけ安堵したように息をした。
それだけで、さっきまでの焦りがようやく少し落ち着く。
「おやすみ」
低く、静かに告げる。
そして、眠るミュレットの唇へ、ごくやわらかく口づけた。
熱を奪うような口づけではない。
ただ、無事でよかったと確かめるためのような、短い口づけだった。
離れてからもしばらく、その顔を見ていた。
眠っている。
何も知らずに。
こちらがどれほど肝を冷やしたかも知らず、ただ穏やかに。
アランは小さく息を吐く。
「今夜は、ちゃんと眠れ」
独り言みたいにそう言って、ようやく立ち上がる。
扉へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
寝台の上で眠るミュレットは、さっき庭で見た時よりもずっと安心した顔をしているように見えた。
それが少しだけ、救いになる。
部屋を出る。
外の廊下は静かだった。
だが静かであることが、かえって不穏を強くする夜だった。
帝国は何かを探している。
その言葉が、また頭の中で繰り返される。
何を。
誰を。
どうして。
まだ何も分からない。
しかし、分からないまま近づいてくるものほど恐ろしい。
庭の一角では、小さな花が夜風にかすかに揺れていた。
次にその不穏が城の中へ刃となって入り込む時、
ミュレットはもう、ただ見送るだけではいられなくなる。
アランもまた、
彼女をただ守るだけでは足りないことを知る。
ただひとつ確かなのは、
ようやく眠った彼女を、今夜だけは誰にも脅かさせないということだけだった。




