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Episode 49. 戻らない夜



アランが「すぐ戻る」と言って城を出たその日。

結局、夜が更けるまで彼が帰ってくることはなかった。


ミュレットは医務室で働きながらも、ずっとどこか上の空だった。


包帯を切る。

薬草を仕分ける。


軽症の兵に塗り薬を渡し、熱のある侍女の額へ濡れ布を当てる。


手は動くし、間違いもない。

けれど、胸の内だけがどうしても落ち着かなかった。


北東の監視所。

帝国側の結界反応。

不審な騎影。


昼に飛び込んできた報告の断片が、頭の中で何度も反芻される。


――すぐ戻る。


あの言葉を、信じていないわけではない。

アランは嘘をつかない。

戻るつもりで出ていったのだと分かっている。


それでも、帰りを待つ時間が長くなればなるほど、不安は静かに胸へ積もっていく。


「ミュレット様、こちらを」

「あ……はい」


呼ばれて、ミュレットははっと我に返った。

年配の医務官が差し出したのは、若い騎士の腕だった。

手甲の下で皮膚が擦れて赤くなっている。


「塗り薬を薄く。締めつける癖があるようです」

「分かりました」


丁寧に薬を塗りながら、ミュレットは騎士へ微笑みかけた。

騎士は礼を言ったが、その目の下には濃い疲れが見えた。


最近、こういう顔が増えた。

戦場ではない。

まだ国中が騒然としているわけでもない。

それでも、何かが少しずつ人を削っている。


日が傾く頃には、医務室へ来る者たちの会話にも、ちらほらと帝国の名が混じるようになっていた。

誰も大声では言わない。


けれど、皆が同じものを薄く警戒している。

日が落ちると、王城はいつもなら少しずつ静けさを取り戻す。


だが、その夜は違った。


廊下を行き交う足音が途切れない。


近衛の気配が増え、文官たちの部屋の灯りも、いつもより遅くまで消えなかった。


夕食の時間を過ぎても、アランは戻らない。


ミュレットは食堂へ行く気になれず、医務室の隅で簡単なパンだけを口にした。


喉を通っているのかもよく分からない。

セレスティアがそれを見つけて何か言いたげな顔をしたが、結局その日は何も言わなかった。

ただ、小さな包みをひとつ置いていってくれた。


「温かいうちに飲みなさい」

「……これは?」

「厨房から。あなたがこういう時にまともに食べないのは、もう皆よく知ってるの」

「……」

「殿下のこと、心配でしょうけど」

「……はい」

「だからって、あなたまで倒れたら叱られるわよ」


包みの中には、小さな器に入ったスープがあった。


立ち上る湯気だけが、冷えかけていた身体にやさしく触れる。


深夜が近づくころ、ようやく医務室の戸締まりが終わった。


その後もミュレットは、自室へ戻る気になれなかった。

戻ったところで、眠れる気がしない。

それなら、少しでも帰り道に近い場所にいたかった。


誰を待っているのか、自分で認めてしまうようで少しだけ恥ずかしい。


けれどもう、取り繕う余裕もなかった。


ミュレットは、人の少なくなった回廊の端にある控え室へ入った。


窓の外には夜の庭が広がっている。

遠くの詰所の灯りだけが、小さく揺れていた。


椅子へ腰を下ろし、膝の上で手を組む。


静かだ。


静かすぎて、余計に落ち着かない。


どれほどそうしていただろう。


廊下の向こうから、足音がした。

ひとつではない。複数。


けれど、その中に混じる気配を、ミュレットはすぐに分かった。


弾かれたように立ち上がる。


「……アラン様」


声に、アランが足を止めた。


振り向いたその顔を見た瞬間、ミュレットは息を呑む。


――ひどく、疲れている。


目元の影は濃く、上着には夜気と土埃が残っていた。

怪我はない。

けれど、それがかえって、休む暇すらなかったことを物語っていた。


「起きていたのか」

「……はい」

「もう遅い」

「……」

「待つなと言ったはずだ」


その声に叱責の響きはない。

言い切れないような、わずかな苦さだけが残っている。


ミュレットは一歩近づいた。


「お怪我はありませんか?」

「ない」

「本当に?」

「本当だ」


淡々と返す彼に、ミュレットはすがるように見上げた。


「少しだけでも、お休みください」

「そのつもりだ」

「……」

「ひと刻ほどだが」


短すぎる時間に、胸が重くなる。


「心配するな」

「……します」

「……」

「しないほうが、おかしいです」


アランは何も返さなかった。

ただ、ほんの少しだけ目元をやわらげる。


「ミュレット」


その名を呼ぶ声は低く、静かだった。

次の瞬間、手を取られる。


強くはないが、拒ませない力で。


そのまま歩き出され、ミュレットは何も言えずに後を追った。


向かった先は、アランの私室だった。


灯りは抑えられ、静まり返っている。


机の上には書簡が積まれたまま――休息から遠い部屋だ。


アランは上着を脱ぎ、ソファへ腰を下ろした。

その動作が、わずかに重い。


ミュレットはすぐに近づいた。


「お茶を淹れます」

「……ああ」

「何か、食べられますか?」

「今はいい」

「でも」

「少ししたら食べる」

「……分かりました」


お茶を淹れて戻ると、アランは目を閉じていた。

眠ってはいない。

けれど、その疲れは隠しきれていなかった。

ミュレットはそっと杯を置き、彼の前にしゃがみこんだ。


「今日は、何があったのですか」


問いかけると、アランはゆっくりと目を開けた。


「街道の攪乱が増えている。結界の反応も不自然だ」

「帝国、ですか」

「ああ」

「戦になるのですか」

「まだ違う」


即座に否定したものの、アランの声は重い。


「だが、偶然とも思えん。帝国は、ただ押してきているわけではない。試している」

「こちらの動きを」

「どこまで反応するか、誰が出るか、何を守るか」


背筋が冷える。

ミュレットは小さく息を呑んだ。


「それだけ、でしょうか」


アランは否定しなかった。


「俺も同じことを考えている。奴等は、何かを探すように動いている」

「何を、ですか」

「まだ分からない」


分からない――その事実が、いちばん恐ろしい。


ミュレットは視線を落とした。

そこには、アランの手があった。

今日一日、休まず動いていた手。


「……冷たい」


思わず、そう呟いていた。

ためらいながら、その手を両手で包み込む。


「冷えています」

「そのくらいは普通だ」

「普通ではありません」

「医務官らしいことを言うな」

「もうじき正式にそうなるのですから」


むっとしたように返すと、アランの口元がわずかに緩んだ。

その変化だけで、胸があたたかくなる。


「無茶ばかりなさいます」

「していない」

「しています」

「していない」

「昼食も二口でした」

「……見ていたのか」

「見ていました」


アランから小さく息が漏れる。


「厳しいな」

「心配しているので」

「……ああ」


短い言葉が、深く落ちる。


やがてアランは手を引き、ミュレットを隣へ座らせた。

そのまま、彼女の肩へと額を預ける。

一瞬だけ、時間が止まった気がした。


ミュレットはそっと腕を回し、その重みを受け止めた。


「少し、こうしていろ」

「……はい」


アランの呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。

ほんの数分。

それでも、その数分だけが彼にとっての確かな休息だった。

やがて、控えめなノックが響いた。


「殿下」


ディルクの声だ。

アランはすぐに身を起こした。

眠りは一瞬で消える。


「入れ」


報告は短く、重かった。

休息は終わる。


ミュレットは静かに手を離した。


アランが立ち上がる。


さきほどより、わずかに顔色が戻っているように見えた。


「戻れ」

「……はい」

「今夜は休め」

「……アラン様は」

「あとで休む」

「その“あとで”は、いつ来るのですか」


ミュレットの切実な問いに、控えていたディルクが目を伏せた。

アランはミュレットを見つめる。


「来させる」


その言い方に、わずかな苦笑が滲んでいた。

彼は一歩近づき、ミュレットの頬に触れた。


「そんな顔をするな」

「どんな顔ですか」

「俺を引き止めたい顔だ」


図星を突かれ、否定できない。


「戻る」

「……はい」

「次こそは、もう少し長く」


その言葉を残して、アランは去っていった。

部屋に静けさが戻る。


ついさっきまであったぬくもりが、遠い。


帝国は何かを探している。

何を。

誰を。

どうして。


分からないまま、近づいてくるものほど恐ろしい。

窓の外、夜の庭は穏やかだった。

風もない。

空も静かだ。

それでも――

見えないところで、何かが確実に近づいている気がした。


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