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Episode 48 きな臭い風



数日、王城の空気はどこか落ち着かなかった。


誰かが声高に騒いでいるわけではない。

廊下を行き交う侍女たちも、近衛たちも、表向きはいつもと変わらぬ顔をしている。

なのに、ほんの少しだけ足が速い。

交わされる報告の声が低い。

扉の開閉が増え、地図や封書を抱えた文官の姿が目につく。


見えないところで、何かが動いている。


ミュレットにも、それは分かった。


医務室へ運び込まれるのは、戦場の負傷者ではない。

遠征準備に駆り出された騎士の擦り傷や、急ぎの訓練で無理をした兵の打撲、夜通し働いた文官の頭痛が、いつもより増えていた。


そして何より、アランの姿だ。


ここ数日、まともに休めていないのが一目で分かった。

朝は早くから執務室に入り、昼も席を立たず、夜は夜で報告を受ける。

時に城外へ出て、そのまま戻りが遅くなる。

帰ってきても、休むより先に別の書類へ目を落とす。


寝不足なのだろう。

目元にうっすらと影が落ちている。

けれど本人は、そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、さらに先へ進もうとする。


ミュレットは、それが心配でならなかった。


「北の街道で、またですって」

「また?」

「帝国側の商隊と、こちらの荷馬車がぶつかったとか何とか」

「偶然にしては、続きすぎじゃない?」

「しっ……」


昼前の医務室で、薬草を仕分けていた侍女たちが、ひそやかにそんな話をしていた。

ミュレットが顔を上げると、侍女たちは慌てて口をつぐむ。


「……何かあったのですか?」

「い、いえ」

「ただ、街道のほうが少し騒がしいようで」

「帝国、ですか」

「はっきりは分かりません。でも、近衛の方々も、騎士団も、ずいぶん慌ただしくて……」


その言葉の続きを、誰も軽々しくは言わなかった。


グランツェル帝国。


その名は、クレスティアにとって、ただ遠くの大国というだけではない。

強大で、冷たく、気づけばこちらの首元へ手を伸ばしているような、そういう不穏を帯びた名前だった。


ミュレットは手元へ視線を落とす。

薬草の葉をそろえる指先に、知らず力が入っていた。


午後になる前に、医務室へ厨房から小さな盆が届いた。


「これ、殿下の昼食よ」

総料理長バスティアンの補佐をしている年若い料理人が、当たり前のように言う。

「今日はちゃんと食べていただかないと困るの」

「……私がですか」

「あなた以外に誰がいるの」


もはや問答の余地はないらしい。

焼きたてのパン、温かなスープ、薄く切った肉と、簡単だが栄養のある副菜。

忙しい時でも口に入れやすいよう整えられた献立だと分かる。


「でも、お忙しいなら――」

「だからよ」

料理人は真顔だった。

「今日はとくに駄目。絶対に何か食べていただいて」


そこまで言われると、断れない。


ミュレットは盆を受け取り、小さく頷いた。


執務室前まで来ると、すでに扉の向こうから何人かの声が聞こえていた。

低く、短い報告。

紙をめくる音。

地図か何かを広げる気配。


その空気だけで、足が少し重くなる。


けれど戻るわけにもいかず、ミュレットは控えめに扉を叩いた。


中から返ったのは、ディルクの声だった。


「どうぞ」


入ると、室内にはやはり張りつめた空気があった。

大きな机の上には書類が積まれ、開かれた地図の端には重し代わりの短剣まで置かれている。

アランは机の前に立ったまま、何枚かの報告書へ目を通していた。

ディルクはその傍らに控え、さらに二人の文官が壁際で待機している。


ミュレットが入った瞬間、数人の視線がこちらへ向いた。

けれど、それもほんの一瞬だった。

すぐに皆、目を逸らす。

邪魔をするなというより、今はそれどころではないという空気だった。


「……昼食を、お持ちしました」


控えめに言うと、アランがようやく顔を上げた。


その視線がミュレットを認めた瞬間だけ、硬かった空気がほんの少しやわらぐ。

けれど次の言葉は、案の定そっけなかった。


「今はいらない」

「……」

「置いていけ」


やはり、と思う。

けれど、それで引き下がるのは今日ばかりはためらわれた。


ミュレットは盆をそっとテーブルへ置く。

それから、少しだけ勇気を出して言った。


「せめて、ひと口だけでも」

「ミュレット」

「すぐでいいんです」

「今は――」

「お願いします」


言ったあとで、自分でも少し驚いた。

ここまで食い下がるつもりはなかったのに、声が止まらなかった。


アランがわずかに眉を寄せる。

叱られるかと思った。

けれど、次に落ちてきたのは、ごく短い溜め息だった。


「……ひと口だな」

「はい」


それだけで、胸の奥が少しだけほどける。


文官たちが気を利かせたように、少し距離を取った。

ディルクだけが変わらぬ顔でその場にいる。


アランは椅子へ腰を下ろし、ミュレットが差し出したスープへようやく手を伸ばした。

その指先に、ほんのわずかな疲れが見える。

ミュレットはそれがつらかった。


「熱いので、お気をつけて」

「……分かっている」


低く返される。

けれど、匙はちゃんと動いた。


一口。

二口。


それだけでも、食べてくれたことに胸が軽くなる。


「もう少し――」


言いかけた、その時だった。


扉が強く叩かれる。


「殿下!」


室内の空気が一変した。


返事を待つより早く、近衛がひとり飛び込んでくる。

顔色が違った。

ただの伝言ではないと、ミュレットにもすぐ分かる。


「北東の監視所より急報です。帝国側の結界反応が増大、あわせて街道沿いで不審な騎影を確認」

「数は」

アランの声が一瞬で冷える。

「まだ小規模です。ただ、誘いの可能性が」

「分かった」


椅子が引かれる。

先ほどまで昼食を取っていた人と、同じ人物とは思えないほど早い動きだった。


アランはもう立ち上がっている。

ディルクもほとんど同時に動き、机上の地図を巻き、必要な書類だけを抜き取る。

文官たちも散開し、それぞれの役目へ走った。


ミュレットだけが、その場に取り残される。


ほんの少し前まで、匙を持っていた手。

それが今は剣を取るために伸びる。


アランは上着を替えるため、隣室へ向かおうとした。

ミュレットは、その背中を見て、気づけば一歩踏み出していた。


「アラン様」


呼び止める声が、自分でも驚くほどかすれる。


アランが振り返る。


その目に、一瞬だけ、戦場へ向かう人ではなくこちらを見るやわらかさが戻る。

それを見た途端、胸が詰まった。


行かないで、とは言えない。

危ないです、も違う。

気をつけて、では軽すぎる。

何もできないのに、何か言わなければいけない気がして、でも言葉がひとつも出てこない。


ただ、手だけが勝手に伸びた。


アランの袖を、そっとつかむ。


それだけだった。


けれど、その手を離せなかった。


アランは何も言わず、少しだけ目を見開いた。

それから、ゆっくりと視線を落とし、袖をつかむミュレットの指先を見る。


「……ミュレット」

「……」

「どうした」


どうした、ではない。

心配なのだ。

寝ていないことも、食べていないことも、またすぐ城外へ出ることも。

帝国、という言葉の響きそのものが嫌だった。

何か悪いことが起こる気がして、胸の奥が落ち着かなかった。


でも、それをどう言えばいいのか分からない。


ミュレットは唇を開いた。

声にはならなかった。


「……」


黙ったままのミュレットを見て、アランは一瞬だけ目を伏せる。

何かを察したような、静かな表情だった。


次の瞬間、アランの手が伸びる。


袖をつかんでいたミュレットの手を、今度は自分のほうから包み込むように取り上げた。

そのまま、そっと握り込まれる。


強くはない。

けれど、離すつもりのない力だった。


「すぐ戻る」


低い声が、まっすぐに落ちる。


ミュレットはその言葉を聞くだけで、かえって胸が苦しくなった。

すぐ、という言葉ほど、信じたいのに怖いものはない。

それでも、嘘ではないと分かる声音だった。


アランは手を握ったまま、もう片方の手でミュレットの頬へ触れる。

ほんの一瞬、親指が肌を撫でた。


そして、かがむようにして、そっと頬へ口づける。


「……っ」


呼吸が止まる。


それは長いものではなかった。

けれど、ひどくあたたかくて、静かで、

まるで何かを言葉の代わりに刻むような口づけだった。


ミュレットの指先が震える。


アランはすぐに身を離した。

けれど手だけは最後の瞬間まで握っていて、

ほんのわずかに力を込めてから、ようやく離す。


「待っていろ」

「……はい」


ようやく出た声は、あまりにも小さかった。


アランはもう振り返らない。

ディルクを伴い、近衛たちとともに執務室を出ていく。

扉が閉まる。

足音が遠ざかる。


室内は急に広く、静かになった。


そこに残っているのは、積み上がった書類と、広げられたままの地図と、

半分も減っていない昼食だけだった。


スープから立っていた湯気は、もう薄い。

パンも、置かれたまま少しずつ冷えていく。


ミュレットはしばらく、その場から動けなかった。


頬に残るぬくもりへ、そっと指先で触れる。

まだ消えていない。

けれどそれがかえって、今ここにもうアランがいないことをはっきり教えてきた。


「……すぐ、戻る」


小さく繰り返してみる。


それは祈りのようでもあった。

言い聞かせる言葉のようでもあった。


窓の外では、秋へ向かう風が庭の木々を揺らしている。

穏やかな昼のはずなのに、その音の奥に、どこかきな臭いものが混じっているような気がした。


守られていると知ったばかりのぬくもりが、

今度は、失うかもしれないものとして胸へ迫ってくる。


ミュレットは冷えかけたスープを見つめたまま、静かに息を吸った。


無事でいてほしい。


それだけなのに、

それだけの願いが、どうしてこんなにも苦しいのだろうと、

この時のミュレットには、まだ分からなかった。



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