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Episode 47. 後で聞く



その日、ミュレットはひどく落ち着かなかった。


手は動く。

返事もできる。

医務室の仕事にも、目立った失敗はなかった。


それでも胸の奥だけが、ずっと浅く波立っていた。


秋へ向かう庭での再会。

レオルドの言葉。

最後に手を握られたこと。

抱擁。

そして、それを見たアランの目。


――後で聞く。


あのひと言が、何度も胸の内で繰り返される。


怒っていたわけではない。

声を荒げたわけでもない。

だからこそ、余計に苦しかった。


怒りならまだ分かる。

あの時アランの目にあったのは、もっと静かで、もっと深いものだった。


日が落ち、医務室の戸締まりが終わる頃には、ミュレットの肩は自分でも分かるほど固くなっていた。


侍女たちが先に下がり、室内が静かになる。

その時、控えめな足音が廊下の向こうで止まった。


胸がどくりと鳴る。


戸が開き、現れたのはアランだった。


昼間と変わらぬ正装。

乱れのない姿。

ただそこに立っているだけで、空気が変わる。


「……アラン様」


ミュレットが名を呼ぶと、アランは短く言った。


「少し、いいか」

「……はい」


断れるはずもなかった。


二人が向かったのは、医務室から少し離れた小さな談話室だった。

来客を通すほどではないが、立ち話をするには不向きな時に使われる部屋だ。

灯りは落ち着いていて、窓の外には夜の庭が静かに沈んでいる。


戸が閉まる音がして、二人きりになる。


ミュレットは無意識に指先を握りしめた。


アランはすぐには口を開かなかった。

少しだけ間を置き、ようやく低く言う。


「後で聞く、と言った」

「……はい」

「あの男のことだ」


逃げられないと思った。


ミュレットは小さく息を吸い、正面からその視線を受け止める。


「レオルド・ファーレン様です」

「……」

「昔、婚約していました」

「元婚約者、だったな」

「はい」


アランはそれ以上すぐには何も言わなかった。

ただ、静かにミュレットを見ている。


その沈黙の中に、責める色はない。

知りたいという意志だけが痛いほど伝わってくる。


もうひとつ。

あの男を思い出している時の、わずかな硬さ。


「どこまでの仲だった」


問いは落ち着いていた。

それだけに、胸に刺さる。


ミュレットは唇を湿らせる。


「家同士で決められた婚約でした」

「……」

「小さい頃から何度か顔を合わせていて……昔の私を知っている人です」

「だから、ああいう呼び方をするのか」

「……はい」


アランの目がわずかに動く。


「レオ、と呼んでいた」

「……」

「昔からか」

「昔から、です」


答えた瞬間、自分でも分かる。

そのひとつが、アランの胸に引っかかっている。


知らない名。

知らない呼び方。

自分の知らない時間。


ミュレットは急いで続ける。


「でも、それは本当に昔からの呼び方で……」

「……」

「今日会うまで、もうずっと会っていませんでした」

「……そうか」


短い返事。


それだけなのに、まだ何かが残る。


やがて、低い声が落ちる。


「抱きしめられていた」

「……っ」


胸が詰まる。


見られていた。

やはり、最後まで。


ミュレットは視線を伏せる。


「あれは、別れ際に……」

「断ったあとでも、か?」

「……」

「手も握られていた」


責める口調ではない。

それでも、言葉の奥にあるものが痛い。


ミュレットは息を整えながら言う。


「突き放すべきだったでしょうか」

「そういう話ではない」


即座に返る。


その声には、昼間とは違う熱があった。


「責めたいわけじゃない」

「……」

「ただ、見た」

「……」

「見て、気になった」


最後のひと言だけ、ひどくまっすぐだった。


ミュレットは息を呑む。


アランはわずかに視線を逸らし、続ける。


「知らない呼び方で、あの男を呼び」

「……」

「知らない話で笑っていた」

「……」

「そのうえ、あの男は――」


言いかけて、言葉を止める。


小さく息を吐く。


「……ミュレットを、連れて行こうとした」


その言葉に滲むのは、嫉妬だけではなかった。


ミュレットはそこで初めて気づく。


不安なのだ。

この人は。


怒っているのではない。

奪われることを恐れている。


「アラン様」


静かに呼ぶ。


「私は、断りました」

「聞いた」

「ここを離れないと、言いました」

「ああ」


それでも苦しそうなのは、分かる。


聞いたから消えるものではない。


ミュレットはゆっくりと一歩、近づく。


「昔、婚約していたのは本当です」

「……」

「でも、それは昔のことで」

「……」

「今の私が離れたくないと思う場所は、別にあります」


アランの視線が戻る。


逃げない。


「王城だから、というだけではありません」

「……」

「庭があるから、というだけでも」

「……」

「ここにいたいのは」


喉が震える。


それでも言う。


「アラン様が、いるからです」


静まり返る。


その言葉だけが残る。


アランはすぐには反応しなかった。

ただ見ている。


やがて、静かに息を吐く。


「……そうか」

「はい」

「それを、あの時も思っていたのか」

「……はい」

「はっきり断った時も」

「はい」


張りつめていたものが、少しだけほどける。


「なら、よかった」

「……」

「いや、よくはない」

「え?」


わずかに困った顔。


「元婚約者だと後から聞かされるのは、あまり心臓によくない」

「……」

「しかも、レオ、か?」

「……っ」


顔が熱くなる。


「あれは昔からの呼び方で」

「分かっている」

「……でも」

「そこまでは言っていない」


即答。


「ただ、気になっただけだ」

「……」

「知らない名で呼ぶのを聞くのは、落ち着かない」


短く、正直だった。


「それに」

「……?」

「あの男は、昔の縁だけでは片づけたくない」


言葉を選ぶ。


「元婚約者だと知る前から、気に入らなかった」

「……」

「何かが引っかかる」


断定ではない。

それでも軽くない。


「……」


ミュレットはゆっくり頷く。


「ごめんなさい」

「……」

「でも、もうお断りしました」

「ああ」

「行きません」

「……ああ」

「それに」


一歩近づく。


「私は、あの方を信じません」

「……」


アランの目がわずかに揺れる。


「アラン様の言葉を信じます」


静かに言う。


「今思えば、懐かしいのに、どこか違っていました」


「……そうか」


その声に、わずかな安堵が混じる。


ミュレットはもう一歩近づく。


「不安にさせてしまったなら、ごめんなさい」

「……」

「でも、私がそばにいたいのは」


「アラン様です」


言い切る。


その瞬間。


アランの腕が動く。


引き寄せられる。


「……っ」


抱きしめられる。


今度は、ためらいがない。


「悪い」


低い声。


「思ったより……余裕がなかった」


ミュレットは胸が締めつけられる。


「怒ってはいない」

「……はい」

「気になった」

「……」

「かなり」

「……はい」

「見たくなかった」


そのまま、言葉が落ちる。


「それに、あの男は近づけたくない」


ミュレットはその衣をそっとつかむ。


「もう、大丈夫です」

「……」

「私はここにいます」

「……ああ」


静かな返事。


「今度から、昔の男が現れるなら先に教えてくれ」

「……そんな機会、ないと思います」

「そうは言い切れない」

「……そう、でしょうか」

「特に、あの男は」


言葉はそこで止まる。


それでも、意味は十分だった。


ミュレットは小さく笑う。


その気配に、アランの腕が少しだけ緩む。


目が合う。


「……俺ばかり、妬いている」

「……えっ!?」

「昔のミュレットを、この目で見る術はないだろうか」


真面目な顔。


思わず笑ってしまう。


空気がやわらぐ。


夜は静かに深まっていた。


ミュレットはアランの胸元へ額を寄せる。


帰る場所は、もう決まっている。




その確信だけが、静かに残った。

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