Episode 46. 秋の再会
夏の名残はまだ陽射しの中にあったが、庭の空気はもう少しずつ秋へ傾きはじめていた。
咲き続けていた花々の盛りは過ぎ、葉の色もわずかに深まっている。
風が吹くたび、土と草の匂いの奥に、季節の移ろいが混じるのが分かった。
ミュレットは庭師たちと一緒に、花壇の植え替えの相談をしていた。
夏の花を抜き、秋から初冬へ向けた苗へ切り替える。
庭の見え方を大きく変える作業だ。
王城の庭は、今や城を訪れる者の目にも触れる場所になっている。
整え方ひとつで印象が変わるからこそ、手を抜けなかった。
「こちらは背の低いものを多めにしたほうが、奥が見えてきれいかもしれません」
「ああ、なるほど」
「このあたりは風が抜けるので、強いものを選んだほうがよさそうです」
庭師がうなずき、控えていた者が記録をつける。
ひと段落ついたところで、ミュレットは次の区画を見るため、庭の奥へ続く回廊へ足を向けた。
その途中だった。
「――ミュレット!?」
不意に、名前を呼ばれた。
足が止まる。
その呼び方は、この城ではまず聞かないものだった。
敬称もなく、しかし馴れ馴れしさとも違う。
昔を知る者だけが口にする、驚きとためらいの入り混じった声。
ミュレットはゆっくりと振り返る。
そこに立っていた男を見た瞬間、息が止まりそうになった。
明るい栗色の髪。
よく仕立てられた外套。
端整な顔立ちに、かつて見慣れていた面影がそのまま残っている。
「……レオ」
レオルド・ファーレン。
かつて、ミュレットの婚約者だった人だ。
レオルドは信じられないものを見るような顔で、しばらく言葉を失っていた。
それから、ようやく掠れた声で言う。
「生きていたのか……」
「……はい」
「君は、あのあと」
「いろいろあって……でも、こうして無事です」
「そうか……」
そのひと言に込められた安堵が、思った以上に重く胸へ落ちた。
婚約があったのは、もう過去のことだ。
家が傾き、立場が崩れ、すべてが流れていったあと、自分には昔を振り返る余裕すらなかった。
それでも、こうして昔を知る相手を前にすると、遠くへ押しやったものが一気に近づいてくる。
レオルドはまだどこか呆然としたまま、けれど視線をそらさずにミュレットを見ていた。
「少し、話せるか」
「……」
「積もる話もある」
ミュレットは一瞬迷ったが、小さくうなずいた。
庭に面した開放的な一角に、来客用のガーデンテーブルがある。
二人はそこへ移動し、給仕に茶だけを頼んだ。
秋の入口の風はやわらかく、日差しもまだ明るい。
完全に閉じた場所ではないぶん、かえって人目もある。
そのことが今は少しだけ安心だった。
「まさか、王城で働いているとは思わなかった」
茶器が置かれてほどなく、レオルドがようやく落ち着きを取り戻したように言う。
ミュレットは小さく笑った。
「私も、最初は驚いたけど……よくしてもらってるの」
「そうか」
「ええ」
「クレスティアが庭を改修して、美しい庭園ができているとは聞いていたが」
レオルドは周囲を見渡し、それからまたミュレットへ視線を戻す。
「君が関わっていたのか」
「少しだけ」
「少し、で済むものではないが」
昔と変わらない言い方だった。
少しだけ皮肉で、けれどきつくはない。
思わずミュレットは微笑む。
「そうかな?」
「昔の君は、土を触ったり、馬や牛と遊んでばかりだったのに」
「そ、それは昔の話です」
「庭の隅で泥だらけになって、侍女に叱られていたこともあったな」
「……忘れてください」
そのやり取りに、ミュレットはとうとう小さく笑い声をこぼした。
懐かしい。
気恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。
家が傾く前、何もかもを失う前の、自分のことを知る人だ。
それだけで、心のどこかが少しだけほどける。
レオルドはその笑顔を見て、ふっと目を細めた。
「よかった」
「……?」
「君がそんなふうに笑えるなら」
ミュレットは少しだけ目を伏せた。
その気遣いがありがたいことは、ちゃんと分かる。
けれど同時に、昔へ戻っていくような気配に、どこか落ち着かないものもあった。
「レオは、どうして王城へ?」
「領地の件で父の代理だ。昨日から滞在している」
「そうだったのね」
「ああ。だが、まさか君に会うとは思わなかった」
レオルドの声音が、そこで少しだけ低くなる。
「本当に、死んだのだと思っていた」
「……ごめんなさい」
「謝らせたいわけじゃない」
「……」
「ただ、突然すべてが途切れたから」
その言葉に、ミュレットの胸がちくりと痛む。
レオルドはしばらく茶器の縁へ視線を落としていたが、やがて静かに言った。
「こんな王城で過ごすのも、君は息苦しくないか?」
「……え?」
思わず顔を上げる。
レオルドは責めるわけでも、決めつけるわけでもない。
けれど、その問いはやさしさを装いながら、確かにこちらの足元を揺らしにくるものだった。
「君は昔から、ああいうきらびやかな場所が得意ではなかった」
「それは……」
「王城は華やかで立派だ。だが、その分、息を詰めることも多いだろう」
「……」
「皆に見られ、気を張って、立場を気にして」
「……」
「君には、もっと穏やかな場所のほうが似合うと、今でも思う」
遠回しな言い方だった。
それでも意味ははっきりしている。
ここは本当に君の居場所なのか。
もっと別の場所があるのではないか。
ミュレットは膝の上で指先をそっと重ねた。
「ここで、よくしてもらっているの」
「だろうな」
「……」
「だからこそ厄介だ」
レオルドは苦く笑う。
「恩があれば、離れにくい」
「……」
「だが、君がここへ縛られている理由がそれだけなら、考え直せるはずだ」
そこで、レオルドはまっすぐミュレットを見た。
「君が生きていたのなら」
「……」
「婚約を、結び直すこともできる」
言葉が止まった。
風が、庭の葉を揺らす音だけが遠く聞こえる。
ミュレットはすぐには返事ができなかった。
レオルドは衝動で言っているのではない。
きちんと考えたうえで口にしている顔だった。
「今さらだと分かっている」
「……」
「だが、君がここでこうしているなら、選べるはずだ」
「……」
「クレスティアを出て、私の治める領地へ来ないか」
ミュレットの指先が、膝の上で小さく強ばる。
「昔のようにとは言わない」
レオルドは静かに続けた。
「だが、今度こそ守ることはできる」
「……」
「穏やかな場所で暮らせる」
「……」
「少なくとも、こんな場所で息をひそめるように生きなくていい」
その言葉はやさしかった。
打算だけではないことも伝わる。
きっと本気で、助けたいと思ってくれているのだろう。
だからこそ、ミュレットは曖昧にできなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……行けません」
「ミュレット」
「ごめんなさい。でも、行けないの」
声は震えていなかった。
思ったよりも、ずっとはっきり言えた。
レオルドはわずかに息を止める。
ミュレットはそのまま言葉を続けた。
「昔のことを懐かしいと思う気持ちはある」
「……」
「レオに会えて、うれしかった」
「……」
「生きていてよかったと思ってくれたことも、ありがたいの」
それは本心だった。
けれど、それでも。
「でも、私はもうここを離れない」
「……」
「クレスティアで生きていくって、もう決めているの」
「それは……王城に恩があるからか」
「それだけじゃない」
その瞬間、自分でも分かった。
声の色が変わったことを。
ここにいたい。
離れたくない。
この城で、この庭で、あの人のいる場所で生きていきたい。
それが、もう揺らがないことを。
「ここに、いたいの」
「……」
「だから、ごめんなさい」
レオルドはしばらく何も言わなかった。
ただ、ミュレットの顔を静かに見つめていた。
やがて、ごく小さく息を吐く。
「そうか」
「……」
「いや、君らしいな」
その顔には失望もあっただろう。
寂しさも、きっとあった。
けれど無理に押し切ろうとする気配はなかった。
「断られるのは、やはりこたえるな」
「……ごめんなさい」
「だから謝るな」
レオルドは苦く笑った。
「無理に頷かれても困る」
「……」
「君がそう決めたなら、それでいい」
その言い方は、昔と変わらなかった。
押しつけがましくはないのに、どこかまっすぐで、ミュレットはほんの少しだけ表情をやわらげる。
「……ありがとう」
「礼を言われることでもないさ」
レオルドはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
そしてまた、穏やかな目でミュレットを見る。
「会えてよかった」
「……」
そのひと言に、ミュレットの胸が静かに揺れた。
本当に、そうなのだろうと思う。
昔の自分を知る人に、もう一度会えたこと。
死んだと思われていた相手に、生きていると伝えられたこと。
それはきっと、悪い再会ではなかった。
ミュレットは小さく微笑んだ。
「私も。おじさまにもお願いね」
「ああ。きっと驚く」
その時だった。
レオルドがふいに、テーブルの上に置いていたミュレットの手へ、自分の手を重ねる。
「レオ……」
驚いて目を上げると、レオルドはどこか名残を惜しむような顔をしていた。
「君は昔から考えすぎる癖があるし、とても臆病だ」
「……」
「だから、今すぐでなくてもいい」
「……」
「気が変わったらいつでも連絡して?」
やさしい声音だった。
けれど、その言葉はまだ終わっていないのだと告げていた。
手をほどく前に、レオルドは静かに立ち上がる。
ミュレットもつられて席を立った。
「では、もう行く」
「ええ」
「また会えたら、その時はもう少し気楽に話そう」
「……そうね」
ほんの少しだけ、笑い合う。
それから、最後にレオルドがそっと腕を広げた。
ミュレットは一瞬だけためらった。
だが、それが昔への未練ではなく、無事でいてほしいという気持ちの名残だと分かったから、静かに身を寄せた。
やわらかく、短い抱擁だった。
「じゃあな、ミュレット」
「……ええ」
すぐに離れる。
それで終わるはずだった。
ミュレットが振り返った、その瞬間までは。
少し離れた石畳の道の先で、アランと目が合った。
「――」
息が止まる。
そこに立っているのは、いつもの隙のない王太子だった。
正装も、表情も、何ひとつ乱れていない。
後ろにはディルクの姿もある。
けれど、その目だけが静かに揺れていた。
怒っているのではない。
むしろ、怒りより厄介なものがそこにあると、ミュレットにはすぐ分かった。
嫉妬。
不安。
そして、自分の知らない何かを見せつけられた時の、どうしようもない揺らぎ。
ミュレットの胸がどくりと大きく鳴る。
レオルドも気配に気づいたのか、アランのほうへ視線を向けた。
一瞬だけ、空気が張る。
だがレオルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、相手がただの通りすがりではないと察したように、ほんのわずかに目を細める。
ミュレットは何も言えなかった。
どうしてここに。
いつから見ていたのか。
どこまで見られていたのか。
問いが一気に押し寄せる。
何より苦しかったのは、アランの目だった。
静かで、いつも通りに見える。
それなのに、その奥に落ちた影だけがあまりにも近い。
レオルドはミュレットへ向き直ると、最後に小さくうなずいた。
「では」
「……ええ」
それだけ言って、その場を去っていく。
去り際、ディルクへも軽く会釈をしたが、アランには特に何も言わなかった。
ただ、すべてを察しているような目を一瞬だけ残して、庭の向こうへ姿を消す。
残されたのは、ミュレットとアラン、それから少し距離を取ったディルクだけだった。
秋の風が、さっきまでより少しだけ冷たく感じる。
ミュレットはようやく口を開いた。
「……アラン様」
「……」
返事はない。
けれど視線は外されなかった。
責めているわけではない。
問い詰めたいわけでもない。
ただ、確かめずにはいられないものがある、そんな目だった。
やがてアランが、低く口を開く。
「誰だ」
短い問いだった。
その声音に、怒気はない。
だが静かすぎるぶん、かえって逃げ場がなかった。
ミュレットの喉が詰まる。
答えなくてはと思うのに、うまく声にならない。
どう言えばいいのか分からない。
昔の婚約者で、今日偶然再会して、昔話をして、領地へ来ないかと言われて、それを断って、最後に抱きしめられた――そんなことを、どこからどうやって。
アランはさらに一歩近づく。
「どんな関係だ」
その問いに、胸がぎゅっと縮む。
怒られているのではない。
むしろ逆だ。
怒れないからこそ、余計に苦しいのだと分かってしまう。
アランの目は、さっきの抱擁の場面をまだ映したままだった。
レオルドが手を握っていたことも、
自分が「レオ」と呼んだことも、
きっと全部、聞こえていたのだろう。
「……あの」
「……」
「その……」
歯切れ悪く、言葉が途切れる。
アランの目がわずかに細められる。
ディルクは何も言わない。
その沈黙が、逃げ道をなくす。
ミュレットはとうとう観念して、ぎゅっと指先を握りしめた。
「も、元婚約者の方です」
言った瞬間、空気が変わった気がした。
アランの表情が大きく崩れたわけではない。
その静かな目の奥で、何かがはっきりと沈んだのが分かる。
「……婚約者」
低く繰り返される。
それだけなのに、ミュレットの胸はさらに苦しくなった。
「昔の、ことです」
「……」
「家がまだ、ああなる前に……決まっていた縁で」
「……」
「今日、たまたま、ここで……」
言い訳のようになっていると、自分でも分かった。
それが余計に情けない。
ミュレットは耐えきれずに、急いで続ける。
「でも、私は断りました」
「……」
「王都を出るつもりも、ありません」
「……」
「行かないと、お返事しました」
そこまで言ってから、ようやくアランの目が少しだけ動く。
だが返ってきた声は、やはり静かだった。
「……後で聞く」
そのひと言に、ミュレットの胸がまた鳴った。
怒鳴られたわけではない。
責められたわけでもない。
それなのに、ずしんと重い。
アランはそれ以上何も言わず、踵を返した。
ディルクがその後ろへ従う。
去っていく背中を見つめながら、ミュレットはその場に立ち尽くすしかなかった。
レオルドとの再会は、たしかに過去の名残だった。
けれど、自分がもうそこへ戻れないことも、はっきり分かった。
それなのに、今胸を締めつけているのは別の苦しさだった。
アランの静かな声。
揺れた目。
そして、あの問い。
――誰だ。
秋の風が、庭を抜けていく。
さっきまで穏やかだったはずの空気が、
今はもう、別の緊張を孕んで揺れていた。




