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Episode 45. 日陰の石段



人の来ない裏庭へ続く石段は、昼だというのにひんやりと冷えていた。


建物の影に入っているせいで、陽の当たる庭先とは空気がまるで違う。

風も通りにくい。

静かで、少し湿った匂いがした。


その石段の途中、日陰の奥に、ミュレットは座り込んでいた。


膝を抱え、その中へ顔を埋めている。

小さく、じっと動かない。


アランは少し離れた場所で足を止めた。


朝、食堂で自分を見上げた時のあの顔を思い出す。

驚いて、戸惑って、それでも確かにうれしそうだった。

あの時のミュレットが、数刻後にはこうして城の隅の隅まで逃げている。


ただ昼食を断っただけではない。

そのことは、この背中を見ただけで分かった。


しばらく黙って見ていたが、やがてアランは低く名を呼ぶ。


「ミュレット」


肩がびくりと揺れた。


膝に埋めていた顔がゆっくり上がる。

目元が赤い。

泣いていたのだと、ひと目で分かる顔だった。


「……アラン様」


小さな声だった。

どうして来たのかと問いたげで、けれど来るに決まっていると自分でも分かっているような、そんな声でもあった。


アランは石段の下から、そのまま言う。


「来れないなら、俺に言え」

「……」

「ディルクに言わせるな」


責め立てる声ではなかった。

だが静かに刺さる声だった。


ミュレットは視線を落とし、膝を抱えたまま小さく肩を揺らす。


「……すみません」

「謝罪の話ではない」

「……」

「ひとりで決めるな」


その言葉のあと、少し沈黙が落ちた。


石段の上はひんやりとしていた。

陽の当たる明るい庭がすぐ先に見えているのに、この場所だけが切り離されたように静かだった。


アランはそのまま立って見下ろすことをしなかった。


一段、また一段と石段を上がる。

そしてミュレットのすぐ隣、手を伸ばせば届く距離へ腰を下ろした。


衣擦れの音が、静かな日陰に小さく落ちる。


ミュレットがはっとしたように顔を上げた。

まさか隣に座るとは思っていなかったのだろう。

その目が、わずかに見開かれる。


「……アラン様」

「何だ」

「その」

「……」

「お座りになるんですか」

「ああ」


戻れと言われると思っていた。

立てと言われるか、あるいは自室へ戻るよう促されるか。

少なくとも、王太子であるこの人が、わざわざこんな人目のない石段の日陰にまで来て、自分と同じように座るとは思っていなかった。


「どうして?」


アランは前を向いたまま、淡々と言う。


「ミュレットがここにいる」


その言い方が、あまりにも当然で、

ミュレットはかえって何も言えなくなった。


石段の隣にある壁へ、昼の光が細く差している。

けれど二人のいる場所だけは、まだ影の中だった。


見下ろされているわけではない。

追い立てられているわけでもない。

ただ、隣にいる。


そのことが、ひどく静かに胸へ沁みた。


ミュレットは膝を抱いたまま、そっと息を吐く。

隣にいるアランの体温が、触れてもいないのに近く感じられる。

言葉より先に、その近さだけで、ひとりではなくなってしまうのが分かった。


「……一人がいいです」


小さく、こぼれる。


アランはそれを聞いても何も言わなかった。

ただ、ごく短く息を吐いた。


呆れたのではない。

分かっていた、というような息だった。


「一人にしたくない」

「……」

「顔を上げられるようになったら、戻ればいい」


その言葉に、ミュレットの喉がきゅっと詰まる。


やさしい。

けれど、甘やかすだけではない。

一人にしたくないと言いながら、いつまでも閉じこもることまでは許さない、そんな声音だった。


ミュレットは諦めに近い気持ちで、小さく息を呑む。


この人は、こういう時だけ本当に容赦がない。

なのに、その容赦のなさに助けられてしまう自分がいる。


膝に顔を埋め直すこともできず、ただ視線を落としたまま、小さく頷いた。


「……はい」


しばらく、どちらも何も言わなかった。


遠くで鳥の声がした。

裏庭の向こうから、風に揺れる葉の擦れる音がかすかに届く。

王城の中にいるのに、ここだけは妙に遠かった。


やがてミュレットが、ぽつりと口を開く。


「……兵士の方が、運ばれてきました」

「……」

「ひどい怪我で」

「……」

「最後まで手を尽くして」

「……」

「でも、助かりませんでした」


言葉は途切れ途切れだった。


うまく繋げようとしているのではない。

思い出すたびに胸が詰まり、ひとつずつしか出せないのだと分かる話し方だった。


「私は、補佐しかできなくて」

「……」

「湯を運んで、布を渡して、押さえて」

「……」

「それだけで」

「……」

「何も、できませんでした」


最後の一言は、ほとんど息のようだった。


アランは横目でミュレットを見る。

膝の上に置かれた指先が、強く握られている。


「行きたかったんです」

「……」

「昼」

「……」

「本当は」


そう言って、ミュレットはようやく少しだけ顔を上げた。

目元はまだ赤い。


「でも、こんな気持ちでは」

「……」

「アラン様の前に、行けませんでした」


その理由が、ただ気分が沈んだからではないことは分かる。

死を見送った。

それだけではない、もっと奥に何かが触れている。

だが今は、そこを抉るべきではない。


アランは低く言った。


「助からない命はある」

「……」

「何もしていないわけではない」


ミュレットの肩が、また小さく揺れた。


それは分かっている。

だが、それでも自分を許せない。

そんな顔だった。


「……ミュレット?」


返事がない。


アランは少しだけ身を傾けて様子をうかがう。

ミュレットは黙ったまま、膝を抱きしめる力を少し強めた。

それから、ようやく絞り出すように言う。


「……会ったら」

「……」

「弱いところが、たくさん出そうで嫌だったんです」


アランは何も挟まず、その続きを待った。


「アラン様は、いつもちゃんと、立っていらっしゃるから」

「王太子として、皆の前で……」

「苦しくても」

「そんな方の前で、私だけ取り乱すのが、どうしても嫌だった」


声が少しずつ弱くなっていく。

最後は、ほとんど自分へ言い聞かせるみたいだった。


アランはその横顔を見つめた。

少しだけ間を置いてから、静かに言う。


「泣いてもいい」


ミュレットがはっと顔を上げる。


けれど、返ってきたのは頼りないほど弱い声だった。


「……アラン様の前で? できない」


その声に、アランの目がわずかにやわらいだ。


以前は、自分の腕の中でおとなしく泣いていた。

片想いだったあの頃のほうが、むしろ素直に縋ってきたのかもしれない。


今は違う。


距離が近づいたからこそ、

ミュレットは自分の前で崩れることを怖がる。


それが分かるから、アランは余計に目を逸らせなかった。


「なぜだ」

「……」

「アラン様は、皆が敬う完璧な王太子です!」

「……」

「なのに、私だけ……」


少しの沈黙のあと、アランは低く返す。


「ミュレットの前では、平気な顔などしていない」


その言葉に、ミュレットの呼吸が止まる。


アランは前を向いたまま、続けた。


「王太子として立っている時はある」

「……」

「だが、ミュレットの前では違う」

「……」

「取り繕っていない」

「……」

「だからミュレットも、俺の前で無理をするな」


その一言一言が、静かに、深く落ちた。


アランはわずかに目を細める。


「俺を崇高なもののように言うが」

「……」

「そんなふうに見られるのは、正直、あまり好きではない」


ミュレットが小さく息を呑む。


「ずっと、ミュレットの隣で見ている」

「……」

「遠くから見上げられたいわけじゃない」


その言葉には、苛立ちというより、長く飲み込んできた本音が滲んでいた。


ミュレットが自分を崇め奉るたび、

そこに距離が生まれる。

線が引き直される。

それが、アランは本当に嫌だった。


ミュレットの目が揺れる。

何かを堪えるように唇が震えた。

それからとうとう、ひと粒だけ涙が零れる。


アランはそれを見ても、慰めるようなことは言わなかった。

ただ、石段の上で冷えていたミュレットの手へ、自分の手をそっと重ねる。


「……冷たい」


大きな手だった。

包み込まれるように触れられるだけで、張りつめていた身体の力が少し抜ける。


ミュレットはそのぬくもりに、ようやく小さく息を吐いた。


「……すみません」

「また謝るのか」

「……」

「癖になるな」

「……はい」


ほんの少しだけ、アランの声音がやわらぐ。

それだけで、ミュレットは泣きそうなまま、かすかに笑ってしまった。


涙が頬を伝う。

でも、さっきまでの苦しさとは少し違う。


ひとりではない。

そのことを、ようやく身体が理解し始めていた。


アランはミュレットの手を離さず、石段の先の明るい場所へ視線を向けた。


「少し落ち着いたら戻るぞ」

「……はい」


すぐには立てない。

けれど戻るつもりにはなれた。


ミュレットは小さく頷く。


石段の先には、午後の光が明るく落ちている。

そこへ戻るには、まだ少し時間が要る。


けれど今は、それでよかった。


膝に顔を埋めていたミュレットは、隣に座るアランのぬくもりを感じながら、少しだけ顔を上げる。


同じ日陰の中に、もうひとりいる。


それだけで、さっきまでどうしようもなく深かった沈みが、

ほんの少しだけ、浅くなっていた。



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