Episode 44. 来ない昼
ようやく、ひと息つけるはずだった。
ここ数日は、朝から晩まで報告と決裁に追われていた。
国境沿いの小競り合い未満の不穏。
街道の攪乱。
会議、書簡、確認、差し戻し。
どれも捨て置けないものばかりで、ひとつ片づけばすぐ次が積み上がる。
だが今日は、昼前までに片をつければ、昼食の時間くらいは取れると踏んでいた。
だから朝、自分で食堂へ行った。
思い返してみれば、あれは少しばかり馬鹿げていたかもしれない。
わざわざ食堂まで出向く必要は、本来なかった。
伝令をやって呼べば済む。
あるいは一筆送るでもいい。
それでもそうしなかったのは、
ミュレットの顔を見たかったからだ。
忙しさを言い訳にして会わないまま日が過ぎていくのが、思っていた以上に煩わしかった。
昼だけでも、向かいに座らせたかった。
それで十分だと思った。
昼食は俺の部屋で取ろう。
そう言った時、食堂の空気がわずかに止まったのは分かった。
だが、気にしてはいなかった。
ミュレットが赤くなりながらも頷いた、それだけで十分だった。
執務室へ戻ってからも、手は止めなかった。
書類を開く。
報告を読み、決裁を下し、必要なものへは注記を入れる。
一見すれば普段と変わらない。
だが意識の一部は、ずっと別のところへ向いていた。
そろそろか。
まだか。
窓から入る光の角度を見るたび、無意識にそう考えている自分に気づく。
机の脇へ運ばせた昼食用の準備が、視界の端に入るだけで、妙に落ち着かない。
自分でも呆れる。
「殿下」
声がして、アランは顔を上げた。
ついさっき部屋を出たはずのディルクが、もう戻ってきていた。
早すぎる。
その瞬間、小さな嫌な予感が胸をかすめる。
急な仕事か。
また何か動きがあったのか。
昼の時間はやはり潰れるのか。
アランは短く問うた。
「何だ」
「……」
「急ぎか」
ディルクは一拍、言葉を選ぶように黙った。
その間が、すでに良くなかった。
「ミュレット様が」
「……」
「本日の昼食は食べられない、と」
そこで、思考が一瞬だけ止まった。
何を言われたのか、理解はできる。
だが、すぐには意味が繋がらない。
「……食べられない?」
「はい」
まず来たのは意外さだった。
次に来たのは、静かな苛立ちに似たものだ。
怒りではない。
ただ、わずかに刺さる。
俺には直接言わず、ディルクへ伝言を託した。
その事実だけが、小さく引っかかった。
けれど、その感情は長く続かなかった。
すぐに別の違和感が前へ出る。
ミュレットは、約束を無造作に反故にするような女ではない。
断るにしても、本来なら申し訳なさそうに自分で来る。
少なくとも、逃げるような形は取らない。
それをしなかったのは、
しなかったのではなく、できなかったからだ。
「どこにいる」
アランは即座に問うた。
「それが」
「何があった」
「……執務室前でお待ちになっていて」
「……」
「私が出たところを、ほとんど捕まえるように」
その言い方に、アランの眉がわずかに動く。
「捕まえるように?」
「はい」
「それで」
「殿下に、昼食は食べられないと伝えてほしいと」
「……」
「ご自分では無理だと、はっきりおっしゃっていました」
それだけで十分だった。
ただの予定変更ではない。
ただの体調不良でもない。
ディルクはさらに続ける。
「中へお通ししようとしましたが、かなり強く拒まれました」
「……」
「私の腕を掴んでまで」
「何?」
今度こそ、アランははっきりと顔を上げた。
ディルクはごくわずかに肩をすくめる。
「相当、切羽詰まっているように見えました」
「……」
「ただの仕事都合には見えません」
アランはそこで椅子を引いた。
まだ目を通していない書類が残っている。
決裁待ちのものもある。
だが、どうでもよかった。
朝の食堂を思い出す。
ミュレットは、あの時ちゃんと嬉しそうだった。
戸惑いながらも、頷いていた。
ならば、午前中に何かあったのだ。
医務室か。
そこまで考えたところで、嫌な想像がいくつも走る。
誰かに何か言われたのか。
具合が悪いのか。
それとも、医務室で何かあったのか。
「会議は」
ディルクが一応の確認のように言う。
「あとで見る」
「次の報告書は」
「あとだ」
「……承知しました」
それ以上のやり取りは不要だった。
医務室へ向かう廊下は、昼前の光に明るかった。
窓から差し込む日差しは穏やかで、城の中も一見すれば普段通りに見える。
だが、アランの中には、その明るさとは噛み合わない嫌な静けさが広がっていた。
医務室の扉を開けた途端、血と薬草の混じった匂いが残っているのを感じる。
つい先ほどまで、重い処置があったのだと分かる空気だった。
「殿下」
医務長が頭を下げる。
アランは挨拶を返さず、短く問うた。
「何があった」
「……急患が一名」
「助からなかったか」
「はい」
それだけで、だいたいの輪郭は見えた。
若い兵士だったということ。
失血がひどく、損傷が大きすぎたこと。
最後まで手は尽くしたが、間に合わなかったこと。
医務長の説明は簡潔だった。
それ以上は聞く必要がなかった。
「ミュレットは」
「さきほどまでこちらに」
「今はいない」
「……はい」
やはりか、とアランは思う。
ミュレットは、こういう死に弱い。
表に出すことは少ない。
だが、死を見送った後の沈み方を、アランはもう知っている。
静かになる。
言葉が少なくなる。
そして、人のいない方へ寄っていく。
「どこへ行った」
「分かりません」
「……」
「少し前に、ディルク様を探しておられるようでした」
それでつながる。
直接ここへ来られなかったのではない。
来たのだ。
来たうえで、どうしても入れなかった。
そこまで追い詰められていた。
アランは踵を返した。
城の中を歩きながら、頭の中で場所を絞る。
自室にこもるか。
いや、違う。
本当に沈んだ時のミュレットは、部屋へ閉じこもるよりも、人の少ない場所へ逃げる。
医務室の近くでは駄目だ。
人目がある。
庭の中央でも違う。
あそこは明るすぎる。
もっと端だ。
気配の薄い方へ行く。
回廊を曲がり、さらに奥へ向かう。
使われる頻度の低い渡り廊下。
裏庭へ続く通路。
その先には、人がほとんど来ない石段がある。
普段なら誰も意識しないような場所だ。
けれど、ミュレットならそういう場所を選ぶ。
外へ出ると、昼の光は強かった。
だが建物の陰へ入ると、空気は急にひんやりとする。
裏庭へ続く石段のあたりは、枝と壁に遮られて日陰が多い。
静かで、少し湿った匂いがした。
そして、いた。
石段の途中、影の落ちる場所に、ミュレットは座り込んでいた。
膝を抱え込むようにして、そこへ顔を埋めている。
小さかった。
ひどく小さく見えた。
陽の当たる食堂で、自分の言葉に赤くなっていた朝の姿とはまるで違う。
医務室にも、自室にもいられず、こんな城の隅の隅まで来てしまうほど沈んでいる。
アランは足を止めた。
ここでようやく、胸の奥に張りつめていたものが、別の形に変わる。
やはり来るべきだった。
伝言だけで済ませるつもりなど、最初からなかったのかもしれない。
石段の下でしばらくその背を見つめる。
ミュレットはまだこちらに気づいていない。
影の中で膝に顔を埋めたまま、じっと動かないその姿が、
ひどく痛々しく見えた。
アランはゆっくりと、石段へ足をかけた。




