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Episode 43. 約束の前に



朝の食堂は、まだ一日のざわめきが本格的に膨らむ前の、少しだけ気の緩んだ空気に包まれていた。


焼きたてのパンの香り。

温かなスープの湯気。

侍女たちの小さな笑い声と、遠くで椅子の引かれる音。


ミュレットはいつものように、隅寄りの席で簡素な朝食を取っていた。

夜はやはり浅い眠りしか取れなかったけれど、それでも手を動かし、仕事へ向かえば一日は進んでいく。

そう思って、静かに匙を動かしていた時だった。


食堂のざわめきが、不意にひとつ、浅く止まる。


何事かと思って顔を上げたミュレットは、そのまま動けなくなった。


入口に、アランが立っていた。


「……っ」


食堂のざわめきに似合わない人だった。


王太子として、城のどこに立っていても違和感はないはずなのに、この朝の食堂だけは別だった。

磨き上げられた広間でも、政務の席でも、夜会の灯りの下でもない。

湯気と食器の音の中に、その静かな存在感は妙に異質で、だからこそ周囲の者たちは違和感とおもしろみを隠せない顔になっている。


アランはそんな視線など意に介さず、まっすぐミュレットのいる席へ歩いてきた。


「ア、アラン様……」


ミュレットが慌てて立ち上がろうとすると、アランはそれを制するように短く言った。


「そのままでいい」

「は、はい」


その低い声だけで、余計に周囲の空気がざわつくのが分かった。

けれどアランは気にせず、いつも通りの落ち着いた顔でミュレットを見る。


「昼食は俺の部屋で取ろう」


短く、それだけだった。


言い方は穏やかだった。

けれど、相談というよりは決定事項に近い響きがある。


「……え」

「昼だ」

「……」

「時間を空けておけ」


そう言って、アランはほんの一瞬だけ目元をやわらげる。

それだけで、ミュレットの胸はあっという間に落ち着きを失った。


「……は、はい」


それしか言えなかった。


アランは小さく頷くと、本当にそれだけを伝えるために来たらしく、そのまま踵を返した。

食堂を出ていくまで、周囲はなんとも言えない空気のまま静まっている。


そして、扉が閉まった瞬間、堰を切ったようにざわめきが戻った。


「見た!?」

「見たわよね今の!?」

「昼食は俺の部屋で取ろう、ですって!?」


すぐ隣の席から、セレスティアが身を乗り出してきた。

目が完全に面白がっている。


「アラン様が食堂に立つ姿、初めて見たわ……」

「セ、セレスティア」

「だってそうでしょう!? 朝の食堂にわざわざご自分の足で来るような人じゃないもの」

「……」

「しかもあなたに直接お誘い?」

「お誘いというか、あれはもう決定事項だったわね」

「……もう、やめて」


ミュレットは顔を伏せたくなる。

けれど伏せれば、余計に図星だと認めるようで、それも悔しい。


セレスティアはそんなミュレットを見て、ますます愉快そうに笑った。


「朝から赤くなりすぎ」

「仕方ないでしょう……」

「まあ、仕方ないわね」

「……」

「でもいいじゃない。昼食を俺の部屋で取ろう、なんて、あの殿下が言うのよ?」

「……」

「私なら三日は浮かれる」

「浮かれてません……」

「浮かれてる顔よ」


否定しようとしても、たぶん無駄だった。

自分でも分かる。

胸の奥が、ひどく落ち着かない。


昼。

アランの部屋で。

一緒に。


その言葉だけで、朝の食堂の空気まで変わってしまったみたいだった。


医務室へ戻ったあとも、ミュレットの心は少しも静まらなかった。


薬棚の整理をしながら、ふと昼のことを思い出す。

包帯を切り分けながら、あの低い声を思い出す。

昼食は俺の部屋で取ろう。

あんなふうに当然のことみたいに言われたら、断れるわけがない。


「ミュレット、その布を」

「っ、はい」


呼ばれて我に返る。

慌てて布を手渡しながら、自分は何を考えているのだろうと内心で呆れた。


昼に何を話すのだろう。

また向かい合って座るのだろうか。

あの執務机のそばで、ふたりきりで。


思い浮かべた瞬間、耳まで熱くなる。


落ち着かなければ。

仕事中なのだから。


そう思った矢先、医務室の外で慌ただしい足音が響いた。


「急患です!」


張り上げられた声と同時に、医務室の空気が一変する。


運び込まれてきたのは、若い兵士だった。


血の匂いが、先に入ってきた。


兵士の身体は担架の上でぐったりとしている。

衣服は裂け、腹部から脇にかけての布は血で濡れ、下に敷かれた布まで赤く染まっていた。

顔色は土気色で、唇も白い。


「湯を!」

「清潔な布をもっと!」

「押さえて、そこだ、もっと強く!」


医務長の声が飛ぶ。

周囲が一斉に動き出す。


ミュレットも反射的に走った。

指示に従って布を運び、器具を渡し、血で濡れたものを下げる。

補佐として手を動かすことしかできない。

それでも止まってはいけない。


「呼びかけを続けろ!」

「意識が落ちる!」

「まだだ、押さえろ!」


兵士の呼吸は浅い。

喉の奥でかすかな音がするたび、胸が詰まる。


医務長たちは忙しなく処置を続けていた。

けれど、途中から、誰も口にはしないまま、空気の質が変わり始める。


顔が、青ざめていく。


手は止まらない。

止血も、圧迫も、縫合の準備も、できることは続いている。

なのに、その場にいる全員が少しずつ気づいてしまう。


もう、間に合わない。


失血がひどすぎた。

損傷が大きすぎた。


「……っ」


ミュレットは布を握ったまま、息を詰める。


まだ処置は続いている。

けれど、それは希望へ向かう手つきではなくなりつつあった。

最後までやめないための手つきだ。

見送ると決めるその瞬間まで、手を止めないための。


兵士の呼吸が、ひとつ途切れる。


「……」


一瞬の静寂。


それから医務長が、低く時刻を告げた。


誰かが兵士の目を閉じる。

誰かが濡れた布を取り替える。

道具を下げる音が、妙に遠く聞こえた。


ミュレットの手だけが、少し遅れて止まる。


兵士は運び出された。

血のついた布も、器具も片づけられていく。

医務室はすぐまた動き始める。

次の患者は来るし、やることはなくならない。


それでも、ミュレットはその場からすぐに動けなかった。


何もできなかった。


補佐として手を動かしただけだった。

湯を運び、布を渡し、支え、見送っただけ。


その時になって、記憶が唐突に蘇った。


幼い頃の光景だった。


母は、気がつくとそばにいなかった。


その不在の形は、今でもはっきり思い出せない。

ただ、ある日からいなかった。

温もりも、声も、匂いも、もう届かないところへ行ってしまったように、ただいなくなっていた。


そして父。


優しくて、温厚で、大好きだった父が、

あの日だけは、ひどい顔をしていた。


「隠しなさい!」


忘れられない声だった。


怒鳴られたからではない。

あの父が、あんな顔をするほど恐れていたことが、幼いミュレットには何より怖かった。


「もし誰かに見られたら」

「怖い鬼がやってくる」


そう言い聞かされてきた。


何度も、何度も。


その記憶が、死を見送った後になって胸の奥からせり上がってくる。


それに重なるように、戦争の記憶も滲んだ。


家族も、家も失って逃げる民衆。

子どもを抱えて走る母親。

足の悪い老婆を背負って走る兵士。

傷を負い、血を流し、それでも前へ進くしかなかった人たち。


見て見ぬふりをしてきた。

隠してきた。

そうして自分は、この城へ流れ着いた。


そして今も、いついなくなるか分からない身でありながら、

アランが差し伸べてくださる手に、甘えている。


これでよいのだろうか。


昼の約束を思い出す。


朝、わざわざ食堂まで来てくださった。

あの一言が、どれほど嬉しかったかも分かっている。

本当は行きたい。

本当は、楽しみにしていた。


けれど、今の自分では行けない。


人がひとり死んだ直後に、

何もできなかった自分のまま、

あの人の向かいに座って笑うことなどできない。


昼の鐘が近づいていた。


迷った末、ミュレットは執務室のある廊下まで来た。

ここまで来ても、扉を叩く勇気は出ない。

中へ入って、自分の口で断ることなどもっと無理だった。


重い扉を見つめて立ち尽くしていると、ちょうどその時、中から扉が開いた。


「――っ、ディルク様!」


書類を抱えて出てきたディルクは、本気で目を見開いた。


「ミュレット様?」

「お願いがあります!」

「……は?」


ミュレットはほとんど反射的に、ディルクの腕をとっ捕まえていた。


「アラン様に、昼食は食べられないと伝えてください」

「……」

「お願いいたします」

「ご自分でお伝えください」

「無理です」

「はい?」

「無理です!」

「何があったんです」

「……」

「ミュレット様?」


ディルクはすぐに、ただの気まぐれではないと察したらしい。

けれど、それでもこんな役目は引き受けたくないのだろう。

露骨に困った顔をしていた。


「中へどうぞ」

「行けません」

「いえ、入っていただければ、あとは殿下が何とか」

「それが困るんです!」

「何とかなるのなら結構なことでは」

「結構じゃありません!」


ミュレットは必死だった。


このまま中へ入れば、たぶん表情ひとつで全部見抜かれる。

そして、何があったのか問われる。

そうなれば、きっと黙っていられない。

泣いてしまうかもしれない。

そんな顔を、今は見せたくなかった。


ディルクが半ば強引にでも扉のほうへ通そうと動く。


「ほら、どうぞ」

「行けません!」

「ミュレット様」

「無理です! 本当に無理なんです!」


その勢いのまま、ミュレットはディルクの腕をさらに強く掴む。


ディルクの目が、ぎょっとするほど大きく開かれた。


こんなところを殿下に見られたら、自分が叱られる。

そう言いたげな顔だった。

だが、目の前のミュレットがただならぬ様子であることも、さすがに分かったらしい。


「……」

「お願いします!」

「……」

「伝えてください、お願いです!」


言うだけ言って、ミュレットはぱっと手を離した。

それ以上何か言われる前に、そのまま踵を返す。


「ミュレット様!」

呼ばれても、止まれなかった。


その背を見送りながら、ディルクは小さく息を吐いた。


「……頑固者だ」


たちの悪い頑固者。


以前、セレスティアがミュレットをそう評していたことを思い出す。

まったくその通りだった。

普段はおとなしく引き下がるくせに、いったんこれは駄目だと決めた時だけ、妙に頑として動かない。


しかも今日のそれは、ただの意地ではない。

何かよほどのことがあったのだ。


ディルクはしばらく閉じた扉を見つめ、それからようやく覚悟を決めたように息を整える。


恐る恐る、もう一度執務室へ入る決心をする。


殿下に、どう伝えるべきかを考えながら。


そこで、昼の鐘が鳴った。



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