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Episode 42. 守られる理由



ミュレットはもう、

この城に、いつまでいられるかも分からない存在ではなくなっていた。


クレスティアへ来て、もうすぐ一年になる。


最初は、身を寄せるようにして与えられた小さな居場所だった。

城の中で働くことも、庭へ出ることも、医務室で手を貸すことも、

どこか「しばらくのあいだだけ許されていること」のように感じていた。


今はもう違う


庭師にとっては、荒れていた庭へもう一度季節を戻してくれた人だった。

医務室にとっては、忙しい日々の中で確かな手と気づかいを持つ働き手だった。

厨房にとっては、王太子にきちんと昼食を取らせることのできる、ほとんど唯一の切り札だった。

侍女たちや近衛にとっても、ミュレットは、ただの客人ではなかった。


そして皆、口にこそ出さないが、薄々思っていた。


この国で、あれほど婚期を遠ざけてきた王太子アランが、

ようやく心を留めた相手がいるのなら。

この先、その隣へ立つのは、たぶんミュレットしかいないのだと。


そんな空気を、本人だけがうまく受け取れていない。


その日も、ミュレットは昼前の回廊で、ひとりで城下へ出ようとしていた。


ほんの少し茶葉を見たいだけだった。

ほんの少し布を見て、小さな焼き菓子でも買えたらいいと思っただけだ。

城門を出てすぐの城下町で、長く外へいるつもりもない。


あいにく、いつも付き添うセレスティアは、今日は別の用で手が離せない。


「近くですし、すぐ戻りますから」


そう言って外套を整えたところで、静かな声が落ちた。


「それを、もう誰も許さなくなったのですよ」


振り向くと、ディルクが立っていた。


いつもと変わらぬ落ち着いた顔で、けれど視線だけはまっすぐにミュレットを見ている。


「ディルク様」

「ひとりで行かれるおつもりですか」

「少しだけです」

「少しでも、です」


きっぱりと言われて、ミュレットは小さく口をつぐんだ。


「でも、城下町はすぐそこです」

「分かっています」

「すぐ戻ります」

「それも分かっています」

「でしたら」

「だからこそです」


ディルクは一歩だけ近づき、声を少し落とした。


「殿下だけではありません」

「……え?」

「皆、もうあなたをひとりで行かせたがらないのです」


ミュレットは目を瞬いた。


からかわれているふうではない。

むしろディルクは、ひどく真面目な顔をしていた。


「大げさです」

「そう思っておられるから困るのです」

「困る、って……」

「あなたはご自分が思っているより、ずっとこの城に必要とされています」


その言葉に、ミュレットは返事を失った。


必要とされている。

そんなことは、頭では分かっているつもりだった。

こうしてはっきり言われると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


「……私なんか」

「そういうところです」


ディルクはため息にも似た、ごく浅い息をついた。


「医務室では頼りにされ、庭師たちとも意思疎通ができ、厨房では半ば救世主のように扱われている」

「救世主って」

「大袈裟ではありません。殿下がまともに昼食を召し上がるかどうかは、最近あなたにかかっていますから」

「それは、たまたまです」

「厨房の者たちはそうは思っておりません」


真顔で返され、ミュレットはうつむいた。


そこまで言われると、何だか自分だけが状況を分かっていないようで、少しだけ恥ずかしい。


その時、向こうの回廊から、セレスティアの声が聞こえてきた。


「私がいない時は、ちゃんと別の人をつけてください」

「それは殿下にも言いつけられたばかりだ……」


低く答えたのは、騎士団長だった。


ミュレットは咄嗟に足を止める。

聞くつもりはなかったが、ちょうど声が届く位置だった。


「城門から城下までの短い往復でも、ひとりは駄目よ」

「しかし、ミュレット様は“少しくらいなら”と行ってしまわれる」

「首輪でもつけないと駄目なのかしら」

「それはさすがに殿下でも嫌がられよう」

「でしょうね。でも、あの方、隙があればするりと抜けるのよ」

「……困ったことに、馬までミュレット様の言うことをよく聞く」

「あの暴れ馬が?」

「そうだ」

「悔しいけれど、分かる気もするわ」

「近衛を撒かれかねん」

「城の外へ出たら城中に警報が鳴る術式でも組めないかって、魔導士たちが本気で頭を抱えていたわ」

「殿下も黙認している研究だ……」

「でも、縛ったら縛ったで怒っていなくなりそうな超頑固者だし」

「……」

「ほんとうに、扱いが難しい方よね」

「軽々しく扱える方ではない、ということだ」


騎士団長は短く沈黙したのち、静かに答えた。


「この城の誰ひとりとして、あの方を粗略には扱いますまい」


その一言が、妙に胸へ深く落ちた。


ミュレットは思わず立ち尽くす。

ディルクは何も言わなかった。

ただ、少しだけ目を伏せたまま、聞こえてしまったものを否定しなかった。


「……皆、そう思っているのですか」

「ええ」


ディルクは静かに言った。


「あなたが思っているより、ずっと前からです」


ミュレットはうまく返せなかった。


それからも、その日は何かと気を配られた。


医務室へ戻れば、重い薬箱は先に持たれた。

高い棚の包帯を取ろうとすれば、近くにいた年配の医務官が「呼んでください」と手を伸ばした。

庭へ出れば、庭師が足元の悪い場所を先に教えてくれる。

厨房へ顔を出せば、総料理長バスティアンに「今日は無理に持たなくていい、重いものはこっちで運ぶ」と真顔で言われた。


大げさだと思う。

しかし誰ひとり、冗談では言っていなかった。





数日後、医務室からの戻り道だった。


庭の一角から、小さな鳴き声が聞こえた。


「……猫?」


ミュレットが目を向けると、庭木の上、細い枝の先で、灰色の小さな猫が身を縮めて鳴いていた。

どうやら高いところまで登ってしまい、降りられなくなったらしい。


下には侍女が数人と、庭師がひとり。

皆、困ったように見上げている。


「どうしたのですか?」

「木の上に」

「降りられないみたいで……」


たしかに、あの位置では人の手も届かない。

梯子を持ってくるには少し時間がかかるだろう。

そのあいだに猫がさらに奥へ行けば危ない。


ミュレットは少しだけ木を見上げ、それから外套を脱いだ。


「ミュレット様?」

「私、行きます」

「えっ」

「このくらいなら登れます」


止める声が上がる前に、ミュレットはすでに低い枝へ手をかけていた。


庭の木に登るくらい、昔なら珍しくもなかった。

枝の選び方も分かる。

足の置き場も見える。

だから、本人にはそれほど危険なことに思えなかった。


「ミュレット様、お待ちください!」

「大丈夫です」


下からの声に答えながら、ひとつ、またひとつと枝を上がっていく。

猫は怯えたように鳴いていたが、ミュレットが近づくと、意外にも逃げなかった。


「よしよし……怖かったですね」


そっと抱き上げると、猫は細く鳴き、胸元へ顔を埋める。

それにほっとして、ミュレットは下を見た。


思ったより、少し高い。

けれど降りられないほどではない。


その時にはもう、下が騒がしくなっていた。


セレスティアがいつの間にか駆けつけている。

庭師は青ざめ、侍女たちは今にも泣きそうな顔で見上げていた。

さらに近衛が二人、回廊の向こうから走ってくる。


「ミュレット様!」

「今、梯子を!」

「そのまま動かないで!」


そこまで大ごとだろうか、とミュレットは困ってしまう。


「大丈夫です、これくらいなら――」


言い終える前だった。


「飛ぶな、ミュレット!」


鋭い声が、庭へ響いた。


空気が凍る。


ミュレットは息を呑んで、その声の主を見た。


アランだった。


回廊の向こうからまっすぐ歩いてくる。

表情は抑えられているのに、その目だけがひどく険しい。

普段ほとんど声を荒げない人が、これほどはっきりと語気を強めたのを、ミュレットは初めて聞いた。


「アラン様……」

「動くな」

「……」

「そのまま待て」


低い声なのに、有無を言わせない響きがあった。


アランはすぐに近衛へ指示を飛ばす。


「梯子を」

「はっ」

「下で支えろ。枝を揺らすな」

「承知しました」


騎士たちが即座に動く。

庭師も侍女も道を空け、誰もが息を詰めて見上げていた。


梯子がかけられ、近衛が支えにつく。

アランはその真下で、一歩も動かずミュレットを見上げていた。


「ゆっくり降りろ」

「……はい」

「足元を見ろ」

「はい」


その声に従って、一段ずつ下りる。


猫は腕の中でおとなしくしていた。

地面が近づいてきたところで、ふいに身をよじった。


「……っ」


驚いて抱き直した、その瞬間だった。


足がわずかに滑る。

次の段を踏み外し、身体が後ろへ倒れる。


「ミュレット!」


鋭い声が響く。


咄嗟に、ミュレットは猫を胸へ抱き込んだ。

落とさないように。

せめてこの小さな命だけは、と反射のように腕へ力を込める。


次の瞬間、強い衝撃が来るはずだった身体は、

硬い腕の中で止まっていた。


「……っ」


息が詰まる。


アランだった。


いつの間にかすぐ下まで踏み込み、そのまま落ちてきたミュレットを抱き止めていた。

片腕が背を支え、もう一方の腕が膝裏へ回っている。

ほとんど抱え上げるような形で、しっかりと受け止められていた。


「アラン様……」

「動くな」


低い声だった。

その声には押し殺した焦りがはっきり滲んでいた。


アランはそのまま確実に地面へ足をつける。

ミュレットもようやく、自分が完全に支えられているのだと分かり、遅れて心臓が激しく鳴り始めた。


「……ご、ごめんなさい」

「後だ」

「……はい」


アランの腕の中で身を固くしたまま頷いた、その時だった。


腕の中の猫が、何事もなかったようにひらりと身を翻す。


「あっ」


ミュレットの腕から抜け出した猫は、地面へ軽やかに降り立つと、

そのままぴょん、と一度跳ねて、何事もなかったように庭の奥へ駆けていった。


その場に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちる。


侍女たちも庭師も、近衛たちも、呆気にとられたように猫の消えた方角を見た。


そしてアランが、ミュレットを抱えたまま、低くひと言こぼす。


「……恩知らずなやつだ」


あまりにも真顔で言うものだから、ミュレットは思わず目を瞬いた。


さっきまであれほど張り詰めていた空気の中で、そのひと言だけが少しだけ場違いで、

だからこそ余計に胸の奥が熱くなる。


「ね、猫にそこまで言わなくても……」

「危ない目に遭わせておいて、礼もなしに逃げた」

「猫ですから……」

「分かっている」


分かっている顔ではなかった。

少しだけ本気でむっとしている。


その表情があまりにも珍しくて、ミュレットはこんな時だというのに、

ふっと小さく笑ってしまう。


するとアランの視線が戻ってくる。


「笑うな」

「……ごめんなさい」

「反省していない」

「少しは、しています」

「少しか」

「……はい」


アランは呆れたように息をついた。

その腕はまだミュレットを離さない。


ようやくセレスティアが胸へ手を当てたまま、大きく息を吐く。


「もう……本当に、心臓に悪いわ」

「申し訳ありません……」

「謝るのはあと。まず無事でよかった」


庭師も侍女たちも、ようやく顔色を戻しはじめていた。

誰ひとり、大げさに騒いでいたわけではない。

本気で心配していたのだと、ミュレットはその顔を見てようやく思い知る。


アランはなおもしばらくミュレットを抱えたままだったが、

やがてゆっくりと地面へ下ろす。


完全に離すことはせず、腕はすぐ取れる距離に残したまま、低く言った。


「次からは、自分で飛ぶ前に呼べ」

「……はい」

「猫でも何でもだ」

「はい」

「分かったならいい」


そう言いながらも、声の奥にはまだ消えきらない緊張が残っていた。


少し離れたところで、先ほどの猫がまた一声だけ鳴いた。

まるで何事もなかったような、のんきな鳴き声だった。


アランがそちらを見もせず、ぼそりともう一度言う。


「やはり恩知らずだな」


今度こそ、ミュレットは堪えきれずに小さく笑った。


やがて人が散っていき、庭の騒ぎがようやく落ち着いた頃、

ミュレットはぽつりと呟いた。


「……皆、そんなに心配していたのですね」


セレスティアが手を止める。


「そうよ」

「ここまでとは思っていませんでした」

「思っておきなさい」

「……」

「まったく、あなたってそういうところが鈍いのよ」


その言い方は、呆れたようでいて、でもやわらかかった。


「殿下だけじゃないわ」

「……」

「医務室も、庭も、厨房も、侍女たちも、近衛も」

「……」

「皆、あなたに、ここにいてもらわないと困るの」


胸の奥が熱くなる。

くすぐったくて、少しだけ苦しい。

そんなふうに思われているなんて、まだどこか信じきれないのに、

今ここで起きたことが、それを否定させてくれない。


セレスティアはまっすぐミュレットを見た。


「自分のこと、軽く見ないで」

「……」

「皆が大事にしてるものを、あなただけが雑に扱ってどうするの!」


その言葉に、ミュレットは何も返せなかった。


アランはそのやり取りを黙って聞いていた。

やがて、ミュレットの肩へ手を置き、低く言う。


「ミュレットは、自分が思っているよりずっと大事にされている」

「……」

「俺だけではない」

「……はい」


ミュレットはようやく、小さく頷いた。


その夜。


ディルクは珍しく、アランへ話しかける前に念入りに周囲を確認していた。


王太子の私室へ続く、奥まった回廊。

人の気配はない。

扉の向こうにも、柱の陰にも、近くに聞き耳を立てる者がいないことを確かめたうえで、ようやく口を開く。


「殿下」

「何だ」

「ひとつ、お尋ねしても」

「言え」


ディルクは一拍置いた。

そして、静かに言った。


「ミュレット様はなぜ、あのようにご自分を過小評価なさるのでしょう」


アランはすぐには答えなかった。


夜の静けさの中、わずかに目を伏せる。

その沈黙は長くはなかったが、軽くもなかった。


「理解できません」と、ディルクは続ける。


「これほど皆が示している」

「医務室も、庭も、厨房も、侍女たちも、騎士たちも」

「今日の一件でも明らかでした」

「それでもなお、ご本人は、ご自分がいつかここからいなくなるかもしれないように振る舞われる」


その声音には責める色はない。

ただ純粋な疑問と、少しばかりのもどかしさがあった。


「なぜ、あれほどまでに」

「……」


アランはしばらく考えたのち、ようやく口を開く。


「ミュレットは、何かを恐れている」

「……」

「何かは分からない」

「はい」

「ずっと、ここへ居続けてよいとは思っていない」

「……」


ディルクは黙って聞いていた。


アランの声は低く、静かだった。

感情を荒立てることなく、ただ事実を拾い上げるような言い方だった。


「追い出されることを恐れているのか」

「失うことを恐れているのか」

「自分で壊すことを恐れているのか」

「そこまでは分からない」

「だが」

「……はい」

「ずっと、待っている」


ディルクがかすかに眉を寄せる。


「待っている、とは」

「自分がここにいてはいけないと告げられる時をだ」

「……」


その答えは、静かだった。

けれど、胸へ沈むには十分すぎる重さがあった。


「だから、与えられても受け取りきれない」

「必要とされても、信じきれない」

「……」

「愛されても、どこかで終わりを待つ」


ディルクは息を呑まなかった。

その表情が、わずかに固くなる。


今日、木の上から落ちかけた時でさえ、

自分に何かあればこれほどの騒ぎになるのだと、本気では思っていなかったように見えた。


「殿下は、それをご存じで」

「……ああ」

「待っておられるのですか」


アランは目を上げる。


その視線はまっすぐで、迷いがなかった。


「待つ」

「……」

「待って、何度でも教える」

「ここにいていいと」

「失う前提で生きなくていいと」


ディルクはそこで、ようやくほんのわずかに目を伏せた。


「それは、長い戦いになりますね」

「ああ」

「ですが」

「何だ」

「殿下なら、勝たれるのでしょう」


その言葉に、アランはかすかに口元をゆるめた。

笑ったというほどではない。

冷えた夜気の中で、それは確かにやわらいだ表情だった。


「勝つつもりだ」

「はい」


短い返答ののち、二人の間に静かな沈黙が落ちる。


王城の中で、ミュレットはもう仮の客人ではなかった。

皆が必要としている。

皆が残ってほしいと思っている。

皆が、無事でいてほしいと願っている。


そのことを本人の胸へ届かせるには、

まだ少しだけ時間がいるのだろう。


それでも、もう独りではない。


待つ人がいる。

守る人がいる。

必要だと、繰り返し示す人たちがいる。


そして、その中心にはアランがいる。


夜の回廊に射す灯りは静かだった。

けれどそのぬくもりは、もう簡単には消えないものになっていた。





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