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Episode 41. 風のように広がる



それは、誰かが触れ回ったわけではなかった。


けれど王城の中では、風向きが変わるように、いつの間にか伝わることがある。


誰も確かめない。

誰も無粋に問いたださない。

それでも、庭であった一件のあと、城の者たちの目つきや声音は、少しずつ変わっていた。


ミュレットに向けられる視線は、どこかやわらかい。

アランに対しても、表立って何かを言う者はいないくせに、妙に納得したような沈黙が増えている。


隠していたわけではない。

けれど、わざわざ告げてもいなかったことが、今ではもう、暗黙のものになりつつあった。


その変化を、ミュレットがもっともはっきり感じたのは、昼前の厨房だった。


「まぁ〜た戻ってきたの!?」


総料理長バスティアンの声が、石造りの厨房へ響く。


大きな身体に白い調理衣をまとった壮年の男は、戻された食事盆を見て、今にも頭を抱えそうな顔をしていた。

その周囲では副料理長や給仕たちが、一斉に気まずそうな顔をしている。


「殿下が、お手をつける暇がないと……」

「暇がない、で済む話ではない!」

「本日は朝から会議続きで」

「だからこそ食べていただかねば困る!」


バスティアンは唸るように言うと、大鍋の前で腕を組んだ。

料理人たちにとって、作った食事をまともに食べてもらえないことほどつらいことはない。

それが王太子となれば、なおさらだ。


ちょうどその時だった。


厨房の前を通りかかったミュレットを、バスティアンの目がとらえる。


「ミュレット殿!?」

ぎくりとして足が止まる。


嫌な予感しかしなかった。


「はい……?」

「ちょうどいい! 殿下にお食事を運んでくれないか!」

「えっ」

「ミュレットが持っていけば殿下も召し上がるわ!」

「そうよ!」

「何なら一緒に食べて、空にしないと戻ってきちゃ駄目だ!」


周囲の料理人たちまで口々に言い出して、ミュレットは完全に引いた。


「い、いえ、あの」

「お願い!」

「今の殿下の執務室へは、正直ちょっと行きたくないの!」

「皆、用事があるのに、さらに怖い顔をされるのは避けたいのよ!」


最後のほうは本音だった。


ミュレットは思わず沈黙する。


その気持ちは、分かる。

というより、自分だって入りたくない。

忙しい時期のアランの執務室は、ただでさえ空気が張りつめる。

昼食を運ぶだけと分かっていても、足がすくむ場所だ。


「でも、私なんかが……」

「何を言ってるの!」

「今いちばん適任じゃない」

「ええ、どう見てもそうよ!」


どう見ても、とは何だろう。

ミュレットは言い返したかったが、厨房中のまなざしがあまりにも真剣で、口をつぐむしかなかった。


結局、丁寧に整えられた昼食をワゴンへ載せられ、

「お願いね!」

と両手を握られるように送り出されることになってしまった。


執務室前まで来た時には、ミュレットはすでに半分泣きそうだった。


重いワゴンの取っ手を握りしめたまま、目の前の扉を見上げる。

重厚な木の扉はぴたりと閉ざされていて、中の気配までは分からない。


どうしよう。


本当に、このまま入るのだろうか。

いま忙しい最中だったら。

機嫌が悪かったら。

いや、機嫌が悪いというより、公務に集中していて、昼食どころではなかったら。


「……やっぱり、戻ろうかな」


小さく呟いた、その時だった。


執務室の扉が開く。


「……ミュレット様?」


出てきたのはディルクだった。


書類を抱えたままの姿で、扉の前に立ち尽くすミュレットと、昼食のワゴンを見比べる。

その理解の早さは、さすがとしか言いようがない。


「あ、あの」

「バスティアン殿の差し金ですか」

「……どうして分かるんですか」

「最近、厨房の風向きも変わりましたから」


ごく自然に言われて、ミュレットは返事に詰まる。


ディルクは少しだけ目元をやわらげた。

からかっているわけではない。

ただ、事情を察しただけだという顔だった。


「殿下はまだ昼食を?」

「ええ、立て込むと、いつも召し上がりません」

「そう、ですか……」

「ですので、ちょうどよかった」

「えっ」

「どうぞ、中へ」

「で、でも、許可を」

「取っていません」

「取ってないんですか!?」

「はい」

「だ、大丈夫なんですか、本当に?」

「なんとかなります」

「なんとかなる、では困るんですが……」


小声で抗議したが、もう遅い。

ディルクはすでに半歩引いて、通れるよう道を空けていた。


「どうぞ」

「……っ」


重い足と、重いワゴンをどうにか動かし、ミュレットは執務室の中へ入った。


背後で扉が閉まる音がする。


その瞬間、逃げ道がなくなった気がした。


室内は静かだった。


部屋の奥には大きな執務机があり、その上には書類が幾重にも積まれている。

窓から差し込む昼の光が、その端を白く照らしていた。

そして机から少し離れた窓際には、食事や簡単な打ち合わせに使うための丸テーブルと椅子が二脚置かれている。


アランは執務机に向かったまま、まだミュレットの入室に気づいていないようだった。


いや、気づいていても、今は視線を上げられないほど集中しているのかもしれない。


ミュレットは息を潜めたまま、音を立てないようワゴンを窓際のテーブルまで押していく。

床を滑る車輪の小さな音さえ、この静けさの中では気になるほどだった。


丸テーブルのそばでワゴンを止め、器をひとつずつ並べる。

汁物を置き、パンを添え、小皿の位置を整える。

昼の光が近いせいか、料理はいつもより少しやわらかく見えた。


その間もアランは顔を上げなかった。


どうしよう。

気づかれないまま終わるのだろうか。

それならそれで助かるような、でも少しだけさびしいような、妙な気持ちになる。


料理を並べ終え、ワゴンを壁際へ寄せる。

そこでようやく、ミュレットは小さく息を吸った。


「……落ち着いたら、昼食をお召し上がりください」


控えめな声だった。


その声に、ようやくアランの手が止まる。


視線が上がる。

そして、窓際に立つ人物を認めた瞬間、その静かな目が、はっきりと見開かれた。


「……ミュレット?」


ひどく意表を突かれた顔だった。

本気で驚いたのだと、一目で分かるほどに。


低い声が、名を呼ぶ。


ミュレットは思わず背筋を伸ばした。


「は、はい」

「なぜ、ここにいる」

「そ、その……」


ここから先を説明するのが、いちばん恥ずかしい。

だが黙っているわけにもいかない。


「総料理長バスティアン様に、昼食をお運びするよう頼まれて……」

「バスティアンが」

「はい」

「……そうか」


そこで何か察したらしい。

アランはほんのわずかに眉を寄せ、それから窓際の食事用テーブルへ視線を向けた。


整えられた料理は、どれもまだ温かい。

香ばしい匂いが、静かな執務室へゆるやかに広がっていく。


けれど次の瞬間、その視線はまたミュレットへ戻ってきた。


じっと見つめられる。


ミュレットはどきりとして、思わず料理へ目を逸らした。


このまま公務へ戻るべきか、ここにいるミュレットとの時間を取るべきか。

そんなふうに、アランの内側で一瞬だけ天秤が揺れたのだと、言葉にされなくても分かってしまうような沈黙だった。


「……戻っていい」


そのひと言に、ミュレットは一瞬だけ固まった。

けれど、すぐに首を振る。


「い、いえ」

「……?」

「完食していただかないと、戻ってはいけないそうなので……」

「……は?」

「何なら一緒に食べて、空にしないと駄目だと……」


だんだん声が小さくなる。


数秒の沈黙ののち、アランが目を伏せたまま、ごく短く息を吐いた。

呆れたのかと思ったが、その口元はほんのわずかにやわらいでいた。


「……城の風は、思ったより回るのが早いな」

「え?」

「いや」


ミュレットは意味が分からず瞬く。


アランは椅子を静かに引いて立ち上がった。

そのまま歩み寄りながら、喉元へ手をやり、第二ボタンまで外して首元を緩める。


それだけの何気ない仕草なのに、妙に目を奪われる。

長時間同じ姿勢でいたせいか、肩のあたりにわずかな強張りが残っている。

けれど歩みそのものは迷いなく、執務机を離れて、窓際のテーブルのほうへ向かってくる。


その距離が近づくにつれ、ミュレットの胸はまた落ち着かなくなった。


多忙の最中に見せる鋭さは残っている。

けれど、机越しではない場所へ彼が移ってくるだけで、空気は不思議と少しやわらぐ。


アランはテーブルのそばで足を止めると、向かいの椅子へ視線を向けた。


「そこで見張っているのか?」

「み、見張るつもりはありません」

「帰れないのだろう?」

「……はい」

「なら、そこへ座れ」


空いた椅子を示される。


ミュレットは目を丸くした。


「私も、ですか」


ためらうように立ち尽くすと、アランは低く言った。


「座らないなら食べない」

「……っ」

「座ったら、全部食べる」

「……本当に?」

「本当だ」


言い切られてしまえば、もう抗えない。


ミュレットはおそるおそる席につく。


アランも反対側の椅子を引き、ようやく食事用テーブルへ腰を下ろした。

執務机から離れ、窓辺の光の中で向かい合う形になると、それだけで場の空気がひどく私的になる。


執務室で、アランの向かいに座る。

しかも昼食のために。

それはどこか、あまりに近くて、なのに昼の明るさの中ではっきりしすぎていて、くすぐったいほどだった。


アランはナイフとフォークをとり、食事をはじめる。


ミュレットはそれを見て、胸の奥でひそかにほっとした。


「……召し上がりました」

「そうだな」

「よかったです!」


緊張はしていた。

執務室へ来るだけでも足がすくみそうだった。

けれど、こうして実際に食べてくれているのを見ると、それだけで心から安心した。


その少し弾んだ声に、アランの手がわずかに止まる。

昼の執務室という場に似つかわしくないほど穏やかな空気が、ふとそこへ落ちた。


窓の外では、遠くで鳥の声がした。

光の差す角度が少しだけ変わり、卓上の器の縁を淡く照らす。


アランは二、三口食べてから、ふと視線を上げた。


「ミュレットは食べないのか?」

「えっ」

「一緒に食べろと言われたのだろう」

「で、でも、これは殿下のお昼です」

「…………量はある」


“殿下”と呼ばれたところで、アランのまなざしがわずかに細くなる。

露骨ではない。

けれど、少しだけ不満そうだと分かる程度には。


「それとも、俺と向かい合っていると食べにくいか」

「そ、そんなことは……」

「なら食べよう」


言い方はいつも通りぶっきらぼうなのに、拒む余地がない。

ミュレットはそろそろと手を伸ばし、小さく分けられていたパンをひとつ取った。


その様子を見て、アランは何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目元の気配がやわらいだ。


それからは、言葉は多くなかった。

けれど沈黙は不思議と息苦しくなく、食器の触れ合う小さな音や、窓から入る風の気配が、静かな時間を満たしていく。


ときおりアランは手を止め、卓上の料理を見てはまた口をつける。

執務机に向かっていた時よりも、その動きは明らかに落ち着いていた。


ミュレットはそんな様子を見ながら、胸の奥でそっと安堵する。


忙しいから食べないのではなく、

忙しすぎて食べることを後へ押しやってしまうだけなのだ。

誰かがこうして持ち込み、座らせてしまえば、きちんと食べる。


それが少しだけ分かった気がして、うれしかった。


結局、料理はきれいに空になった。


ミュレットは胸をなで下ろしながら立ち上がり、食器をひとつずつワゴンへ戻していく。

ここまできれいに召し上がってもらえたなら、総料理長バスティアンも満足するだろう。


その時、向かい側からアランも手を伸ばした。


「あっ」


思わず、ぺちん、と手をはたき落としてしまう。


自分のしたことを理解した瞬間、ミュレットの背筋が凍った。


戦勝国クレスティアを治める王太子アラン様の手を、自分はいま、はたき落とした。


「ご、ご、ごめんなさい……!」


本気で肝が冷える。


「でもこれは私がします!」

「……」

「い、いえ、その、殿――」

「ミュレット」

「……っ」


遮るように名を呼ばれて、ミュレットは息を呑んだ。


アランの目が、静かにこちらを見ている。

咎めるでもなく、ただ、その呼び方は違うと告げるような目だった。


殿下と呼ぶより先に、わざと止められたのだと分かってしまって、余計に慌てる。


もう何も考えられなくなって、ミュレットは逃げるように食器を戻す作業へ意識を集中させた。

カップを重ね、小皿を並べ、ナプキンを整える。

その間、アランは何も言わず、はたき落とされた自分の手を見つめていた。


最後の皿を載せ終えると、アランも静かに立ち上がった。


さきほどまで座っていた窓際のテーブルから数歩離れ、執務机へ戻るのかと思ったが、そうはしなかった。

そのまま当然のように扉のほうへ歩いていき、先に手をかける。


ミュレットは一瞬だけ目を瞬く。


「では、戻ります」

「ああ」


ワゴンを押して近づくと、アランは扉を開いたまま、通りやすいよう身を引いた。


怒っている様子はない。


そのことに、ミュレットはようやく心の底からほっとした。


「……ありがとうございます」

「気をつけろ」

「はい」


その低い声に見送られ、ミュレットはワゴンを押して執務室を出た。


扉が閉まる。


その途端、張っていた気が少しだけ抜けて、ミュレットは小さく息を吐いた。

ちゃんと運べた。

食べてもらえた。

怒られもしなかった。

それなのに、やはり心臓にはよくない時間だった。


「大丈夫だったでしょう?」


すぐそばで声がして、ミュレットははっと顔を上げる。


「ディルク様」


壁際に控えていたディルクが、いつもの落ち着いた顔でこちらを見ていた。

最初からそこにいたのだろう。

気配を消しすぎていて気づかなかった。


ミュレットはワゴンの取っ手を握ったまま、小さく肩の力を抜く。


「……でも、心臓には悪いです」

「まあ、そう言うあなただからなのでしょうが」

「……?」

「殿下にとって、あなたは唯一の存在ですから」


あまりにも静かに、当然のことのように言われて、ミュレットは言葉を失った。


顔が熱くなる。

けれど、否定はできなかった。


本当なら、今しがた執務室の中で何があったのかを少しでも吐き出したかった。

殿下がちゃんと食事をしてくださったことも、

向かい合って座るだけで息が詰まりそうだったことも。


けれど――殿下が手を貸そうとしてくださったのを、自分がぺちんとはたき落としてしまった、などとは、さすがに口が裂けても言えない。


そんなことを言ったら、ディルクがどんな顔をするのか想像もつかなかった。


ディルクはそんなミュレットを見て、ほんのわずかに目元をやわらげる。


「ただ」

「……はい」

「もう少し、早く扉を叩いてくださると助かります」


その一言に、ミュレットは思わず目を瞬いた。


「えっ」

「本日は、私が出るのが少し遅れましたので」

「……」

「あと少し遅ければ、総料理長バスティアン殿の期待に、もう少し沿えたかもしれません」

「……っ」


その意味を理解するのに、ミュレットは一拍遅れた。


厨房の者たちは、ただ殿下に昼食を取ってほしかっただけではない。

ミュレットが行けば、殿下の機嫌はやわらぎ、ふたりのあいだに流れる空気も、今までよりずっと近しいものになるかもしれない――そんな期待まで、あの場には混じっていた。


つまりディルクは、もし扉が開くのがもう少し遅れていたなら、そうした期待に応えるような何かが、あの執務室の中で起きていたかもしれないと、遠回しに言っているのだ。


何を言われているのか理解した瞬間、ミュレットの顔が一気に赤くなる。


「ディルク様っ!」

「失礼しました」

「まったく、失礼しているように聞こえません……!」

「そうですか」

「そうです!」


必死に抗議しても、ディルクはまるで動じない。

むしろ、少しだけ機嫌がよさそうにさえ見える。


ミュレットはいたたまれなくなって、ワゴンの取っ手をぎゅっと握りしめた。


「……戻ります」

「はい」

「バスティアン様たちが待っていますので」

「ええ。きっと良い報告になるでしょう」


最後まで落ち着いた声のまま言われ、ミュレットはもう返す言葉もなく、小さく一礼してその場をあとにした。


背後でディルクの気配は静かなままだった。


けれど、その穏やかな沈黙の中にさえ、

もう何も隠れてはいないのだと、ミュレットにははっきり分かった。


王城の中では、誰かが声高に告げなくても、

大切なことほど、風のように静かに広がっていく。


いま、自分の胸を満たしているこのぬくもりも、

きっともう、隠しようのないものになっていた。



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