Episode 40. 敵情視察
夜会の広間は、今夜も色と光で満ちていた。
磨かれた床へ燭台の火が映り、
高い天井から落ちる音楽が、笑い声やグラスの触れ合う音にやわらかく溶けていく。
王侯貴族たちが集う場では、政治も駆け引きも水面下にある。
だが、それと同じくらい露骨に表へ出るものもあった。
男たちの、女への近づき方だ。
広間の端に立ちながら、アランはそれを見ていた。
ひとりは笑みを絶やさず、褒め言葉を軽やかに落としながら、自然な顔で距離を詰める。
ひとりは相手の話を引き出し、理解者の顔で入り込む。
また別の男は、護るような立ち位置を選び、気づけば相手の隣を奪っている。
なるほど、とアランは思う。
褒める。
笑わせる。
安心させる。
選ばれたと思わせる。
面倒だ。
だが、無駄ではない。
「敵情視察ですか」
少し後ろに控えていたディルクが、抑えた声でそう聞いた。
アランは視線を広間へ向けたまま答える。
「そうだ」
一拍置いてから、ディルクがわずかに息を呑んだ気配がした。
「……否定なさらないんですね」
その声音には、少なからず驚きが混じっていた。
アランは淡々と言う。
「必要だからな」
「必要、ですか」
「ああ」
「どのあたりが」
「女がどういう言葉に気を許すのか、どういう距離を許すのか、どういう男を警戒しないのか」
「……」
「見ておいて損はない」
ディルクはしばらく黙ったあと、口元だけで笑った。
「なるほど」
「何だ」
「いえ。思ったより、だいぶ真面目にご覧になっていたので」
「放っておけ」
短く切り捨てると、ディルクは「失礼しました」と引き下がる。
だが声の端に笑いが残っていた。
アランは内心で舌打ちした。
確かに見ていた。
だが、自分でそんな真似をしたいわけではない。
花よりお前のほうが美しい、だの。
今夜いちばん目を引く、だの。
そんな台詞を自分が口にしている姿は、想像するだけで腹立たしい。
似合わない。
何より、ミュレットに向けて言えば、彼女は困ったように固まるだろう。
そして、固まった顔を見た自分が平静でいられるとも思えなかった。
その時、不意に視界の奥に、よく知った姿が入った。
ミュレットだった。
華やかに装った令嬢たちの中にあっても、彼女は決して派手ではない。
けれど、アランにはすぐに分かる。
控えめな色の衣。
整えられた髪。
静かな立ち姿。
それだけで十分だった。
さっきまで他国の男たちを冷静に観察していた意識が、一瞬でそちらへ持っていかれる。
馬鹿らしいほど、簡単に。
ミュレットは広間の喧騒から少し外れた外廊下寄りの場所に立っていた。
人目はある。
けれど、中心からは一歩引いた、彼女らしい位置だった。
アランは自然な足取りでそちらへ向かった。
「ミュレット」
「……っ、アラン様」
振り向いた顔が、わずかにやわらぐ。
それだけで胸の奥の硬さが少しほどけるのだから、我ながらどうかしている。
「冷える。あまり端へ行くな」
「は、はい」
「何かあれば呼べ」
「……はい」
言えることは、それだけだった。
華やかな口説き文句など、ひとつも出てこない。
それでもミュレットは、小さく頷いただけで少し頬を染める。
その表情を見て、アランは内心でひとつ息を吐いた。
今回は、届いたらしい。
口下手な自覚はある。
だからこそ、こういう時はミュレットの顔を見るしかない。
困らせすぎていないか。
ちゃんと届いているか。
今の短い言葉で足りたのか。
そのたびに、彼女の表情で確かめる。
今夜は、ひとまずよしと思えた。
「お加減はいかがですか?」
ミュレットが控えめに尋ねる。
「公務続きと伺いました」
「問題ない」
「……無理はなさらないでください」
「誰に言っている」
「アラン様に、です」
「そうか」
それだけのやり取りでも、アランには十分だった。
このまま少しでも長くここへ立っていたいと思う自分に気づき、内心で呆れる。
だが、その時間を壊すように別の声が割って入った。
「お邪魔でしたでしょうか」
よく通る、余裕のある声だった。
振り向けば、グレン王子が立っていた。
今夜も整った笑みを浮かべ、いかにも自然な顔でこちらへ歩いてくる。
押しつけがましさはない。
くだけすぎてもいない。
ああいう男を、さっき見ていた。
ただし、他の男たちより厄介だった。
あれは場慣れしているだけではない。
人の空気を読み、その上で踏み込むことを選べる男の顔だ。
「グレン王子」
アランが淡々と名を呼ぶ。
「アラン殿下」
グレンは柔らかく一礼した。
「失礼。あまりに絵になるお二人でしたので、つい」
言いながら、その視線はミュレットへ向く。
「今夜のあなたは、先日お見かけした時よりもずっと目を引きますね」
「……」
「この場にいる誰より控えめな装いなのに、なぜか一番気になる」
「そ、そんなことは」
「ありますよ」
グレンは笑ったまま言う。
「そのドレス、とても似合っています」
アランは黙っていた。
似合っている。
その一言を、まだ自分はミュレットに言えていない。
思っていないわけではない。
今夜だって、姿を見た瞬間そう思った。
けれど、言葉にする前に、こうして他の男が先に言う。
しかも当のミュレットは、それをただの社交辞令と思っているのだろう。
少し照れたように、呑気に微笑んでいる。
それが、妙に腹立たしかった。
よりによって、俺の前で口説く度胸があるのか。
その事実だけで、苛立ちは十分だった。
しかもこの男は、ただ褒めているのではない。
こちらがどこまで黙っているか、ミュレットがどこまで困るか、全部見ながらやっている。
鬱陶しい。
非常に鬱陶しい。
ミュレットがわずかに困ったように視線を揺らす。
グレンはそこを逃さない。
「もしよろしければ、このあと少しだけお話でも」
「い、いえ」
「庭のほうは夜風が心地よい」
「でも」
「ほんの少しです」
「……」
「あなたと話してみたいと、先ほどから思っていたのです」
流暢だった。
やわらかい声。
無礼ではない言い回し。
だが一歩も退かない。
アランは静観した。
ここで割って入るのは簡単だ。
だが、自分が出れば余計に目立つ。
それはミュレットの本意ではないだろう。
王太子という立場が動けば、この男を退かせること自体はできても、その場の注目まで一緒に集めてしまう。
それは避けたかった。
何より、ミュレットがどうするかを見たかった。
それでも、胸の奥の苛立ちはじわじわと増していく。
今すぐ黙らせたい。
だが、それをしたところでこの男は怯まないだろう。
むしろ面白がる。
グレンはさらに一歩、空気をやわらげるように笑った。
「殿下の前で言うのも何ですが」
「……」
「私は、こういう場で出会う方の中では、あなたがいちばん気になっているのです」
そこで、ミュレットの顔が一気に赤くなった。
驚きと困惑で固まっている。
見ていられないほど分かりやすい。
次の瞬間、彼女の口からほとんど反射のように言葉が飛び出した。
「わ、私には、こ、恋人がいますので!!」
その声と同時に、ミュレットの手が、きゅっとアランの腕を掴んだ。
縋るように。
けれど、迷いなく。
袖越しでも分かるほど、細い指先に力がこもっている。
一瞬、空気が止まった。
アランの思考も、一拍だけ止まる。
恋人。
ミュレットが、今、この場で、他人へ向かってそう言った。
しかも、その相手として選ぶように、自分の腕を掴んだ。
その事実が、胸の奥へ鋭く落ちる。
グレンがふっと目を細める。
「こいびと、ですか」
やわらかい声音だった。
けれど完全に見定める目だった。
その目線がアランへ流れる。
「しかし、婚約も公表されていないと言うことは」
「……」
「私にもまだ、チャンスがあるのでは?」
そう言って、またミュレットに微笑む。
そこで初めて、アランの内心が本格的に煮え立った。
何を言っている。
この男は。
この場で。
俺の前で。
殺すぞこいつ、と、ひどく率直な言葉が頭をよぎる。
もちろん顔には出さない。
出さないまま、むしろいっそう静かになる。
ごく自然な動作で、アランはミュレットの半歩前へ立った。
庇いすぎず、だが確かにこちら側へ引き寄せる位置だった。
掴まれた腕は、そのままにしておく。
そして、低く穏やかに言う。
「彼女に負担のないよう控えているだけだ、察していただきたい」
声音は静かだった。
だが、その場の空気は一瞬で張りつめた。
恋人であることは否定しない。
婚約の有無にも動じない。
ただ、これ以上踏み込むなとだけ告げる。
お前のように相手へ負担をかけてまで距離を詰めるつもりはない――
その意味を、隠しもせずに。
グレンは一瞬だけ目を見開いた。
それから、おかしそうに笑う。
「なるほど。それは失礼を」
「……」
「控えているだけ、ですか」
「そうだ」
「それはまた、ずいぶんと辛抱強い」
軽い口調だった。
だが視線の奥には、まだ探る色が残っている。
それでも、ここでは一歩退くらしい。
グレンはひらりと一礼した。
「では、今夜はこのあたりで」
「……」
「また機会があれば――いえ、これはやめておきましょうか」
去り際、その視線がもう一度だけミュレットへ触れる。
それをアランは無言で見送った。
ようやく男の気配が遠ざかってからも、ミュレットの手はまだアランの腕を掴んだままだった。
細い指が、まだ少し震えている。
そのことに気づいた瞬間、さっきまでの苛立ちとは別の熱が、胸の奥へ静かに広がった。
「……ミュレット」
低く呼ぶと、彼女がはっとしたように顔を上げる。
それからようやく、自分がまだ腕を掴んでいることに気づいたらしい。
「……っ」
慌てて手を離しかける。
だがその前に、アランがわずかに腕へ力を入れた。
振りほどくのではない。
その手が離れていくのを惜しむみたいな、ほんの小さな動きだった。
ミュレットがまた真っ赤になる。
「……アラン様」
「何だ」
「その、いまの」
「……」
「すみません」
「なぜ謝る」
「と、とっさに……」
「……」
「恋人、なんて」
アランはそこで初めて、かろうじて自分の声を抑えていたことに気づく。
ひどく低くなっていた。
けれど、今さら取り繕う気にはなれなかった。
「違うのか?」
短く問うと、ミュレットは目を丸くする。
次いで、また頬を赤くした。
「ち、違いません……」
「そうか」
それだけで十分だった。
さっきまで他国の王子たちの口説き方を眺めていたことなど、もうどうでもよかった。
他の誰がどれほど流暢でも構わない。
この女がとっさに口にした相手は、自分だった。
そして、助けを求めるように掴んだのも、自分の腕だった。
「離れるな」
低く、それだけ言う。
ミュレットは小さく頷く。
「……はい」
その返事に、アランはようやくわずかに息を吐いた。
敵情視察は終わりだ。
あとは、近づけなければいい。
そう思いながら、アランはミュレットを自分のすぐ隣へ置いたまま、再び夜会の光の中へ視線を戻した。




