表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/80

Episode 39. 微笑みに弱い



昼の鐘が鳴る少し前、ミュレットは呼ばれてアランの私室を訪れていた。


理由は簡単だった。

昼食を一緒に取るため。


それだけのことなのに、扉の前へ立つだけで胸が落ち着かない。

訓練所で会ってから、思い出すたびに胸の奥が騒いでしまう。

呼ばれればうれしい。

けれど、うれしいと思う自分が恥ずかしくてたまらない。


「失礼します」


中へ入ると、アランは机の上の書簡から顔を上げた。

いつもの仕事着のまま、けれど夜会の時ほど張りつめてはいない。

その目が自分を見た瞬間、ほんの少しやわらぐ。

それだけで、ミュレットの心臓はまた大きく鳴った。


「来たか」

「……はい」

「座れ」

「はい」


向かいへ腰を下ろす。

たったそれだけのことなのに、指先が落ち着かない。


ほどなくして運ばれてきた昼食は、公務の合間らしい簡素なものだった。

温かな料理とパン、それに軽い汁物。

豪奢ではないが、かえってほっとする。


食事が始まってしばらくは、静かな時間だった。


完全な沈黙ではない。

必要なことは話す。

けれど、無理に言葉を重ねたりもしない。

その静けさが、今のミュレットには不思議と心地よかった。


「今日は」

アランがふと口を開く。

「午後も忙しいのか」

「そこまでではないと思います」

「そうか」

「はい」


短いやり取り。

それだけで終わる。

けれど、その“それだけ”が妙にうれしい。


訓練所のことも頭をよぎる。

あの姿。

上げた前髪。

髪をかき上げる仕草。

けれど、思い出すだけでまた顔が熱くなるので、口にはしなかった。


食事はそのまま終わった。


食器が下げられ、部屋の中へ静けさが戻る。

昼のやわらかな光が窓辺から差し込み、机の端や床を明るく照らしていた。


ミュレットは膝の上で手を揃えたまま、そっと息をつく。

そろそろ戻らなくてはならない。

そう思う。

思うのに、まだここへいたかった。


このまま何も言わずにいれば、もう少しこの部屋にいられる。

けれど、それを自分から望むのはまだ恥ずかしい。


立ち上がろうと足をテーブルの外へ向けた、その時だった。


「少し残れ」


低い声が落ちる。


ミュレットの心臓が跳ねた。


「……え」

「まだ少し時間がある」

「で、でも」

「すぐ戻る必要があるのか」

「そ、それは」


ある。

あるのだ。

仕事がある。

午後の確認も、医務室でやることも。

ちゃんと理由はある。


なのに、すぐ言えない。

残りたいと思ってしまったせいで。


「仕事があります」

ようやくそれだけ絞り出す。

「午後の確認もありますし、戻らないと」

「そうか」

「はい」

「なら、仕方ないな」


そう言いながら、アランがふっと笑った。


ほんの少しだけ。

けれど確かに、やわらかく。


その瞬間、ミュレットの頭の中で、さっきまで並んでいた言い訳がきれいに崩れた。


だめだ、と思う。


この人が、こんなふうに笑うと、本当にだめだ。


強い言葉で押されるより、

真っ直ぐ見つめられるより、

こうしてやわらかく笑われるほうが、ずっと困る。


もう少しだけいてもいいのではないか。

仕事は少し遅れても大丈夫なのではないか。

また座り直してしまってもいいのではないか。


そういう都合のいい考えが、一気に胸の中を埋めていく。

それが自分でも分かってしまって、ミュレットはひどく慌てた。


このままだと、何でも頷いてしまいそうだった。


「や、やっぱり戻ります!」


勢いよく立ち上がってしまう。


自分でも驚くほどの勢いだった。


アランの眉が、わずかに動く。


「……急だな」

「きゅ、急ですが、急ぎますので……!」

「仕事か」

「そうです、仕事です!」

「さっきより慌ただしいな」

「き、気のせいです!」


絶対に気のせいではなかった。

自分でも分かる。

今の自分はかなり怪しい。


「そんなに仕事が大事か」

「……はい」

「俺よりも」

「そ、それは」

「……」

「比べるものではありません」

「そうか?」


また少しだけ、笑う。


だめだ。

本当にだめだ。


この人が笑うたびに、胸の奥がきゅっと縮む。

うれしくて、困って、でも嫌ではない。

むしろその逆で、うれしすぎて困る。


ミュレットは自分の手をきゅっと握りしめた。


なんでも言うことを聞いてしまいそうで怖い。

もっと一緒にいたいとか、

仕事が終わったらまた来てもいいですか、とか、

そんなことまで言ってしまいそうで、本当に困る。


だから逃げるしかない。


「やっぱり、戻ります」

「仕事なら、仕方ないな」

「……はい」

「だが」

「……」

「逃げるように行くな」


その一言に、ミュレットはぎくりとした。


見抜かれている。


「に、逃げてません!」

「そうか」

「そうです!」

「では、もう少し落ち着いて歩け」


そこまで言われてしまってから、ミュレットははっと口をつぐむ。


アランは、今度はわざとらしく少しだけ息を吐いた。

笑ったわけではない。

けれど、機嫌はよさそうだった。


「ミュレットは、俺より仕事が大事らしい」

「……」

「残念に思う」

「……はい」


思わず返事をしてしまってから、ミュレットは自分で自分に呆れた。

なぜそこに素直に頷いてしまうのだろう。


「終わったら顔を見せてほしい」

「……え?」


また胸が跳ねる。


来い、と命じるのではない。

けれど、見せてほしいと静かに言われると、それだけで十分すぎた。


この人は本当にずるい。

押しつけるのではなく、そうして心のほうから寄ってこさせる。


ミュレットはとうとう視線を逸らした。


「……い、行けたら、行きます」

「ああ」

「それでは、本当に仕事がありますので!」

「分かっている」

「本当にです!」

「分かっている」


同じことを二度言わせるくらいには、アランの声が少しだけ面白がっている。

それがまた悔しい。


ミュレットは一礼して、今度こそ扉へ向かった。


あと数歩で出られる。

そう思った瞬間だった。


後ろから、ふいに腕が回る。


「……っ」


息が止まる。


アランに後ろから抱きしめられていた。


背中へ触れる体温。

腰へ回された腕。

肩口へ落ちる静かな呼吸。


あまりにも不意で、ミュレットはその場で固まることしかできなかった。


「ア、アラン様……?」

「少しだけだ」

「……少し、と言われましても」

「嫌か?」


低い声が、すぐ後ろで落ちる。


嫌だなんて、言えるはずがなかった。


それがいちばん困る。

腕の中はあたたかくて、苦しくて、心地いい。

本当は離れたくない。

でもそう思ってしまう自分が恥ずかしくて、情けなくて、だから逃げようとしているのに。


その“嫌ではない”を、この人はきっともう知っている。


抱きしめる力は強すぎない。

けれど、逃がす気のない腕だった。


ミュレットの心臓はもう、どうしようもないくらい速い。


「もう少し」

アランが静かに言う。

「ここにいてほしい」


その声が、耳のすぐそばで、ほとんど直接胸へ落ちてくる。


ぞくりとするほど近い。

低く落ち着いた声なのに、やさしすぎて逆に危ない。


もう何も言えなかった。


顔が熱い。

耳まで熱い。

このまま振り向いたら、たぶん本当に何でも頷いてしまう。


「……だ、だめです」

「なぜだ」

「仕事が、あるって、いま」


ふいに、ミュレットは自分の腰に回されたアランの腕へ手を添えた。

ほどこうとするみたいに、指先へ力を込める。


「そうだな」

「はなして、アラン様……」


少しだけ力を強めても、やはり動かない。

まるで最初から、外されることなど想定していないみたいだった。


アランはそこで少しだけ腕に力を込める。

そのまま肩口へ額が触れそうなほど近くなって、ミュレットは息を詰めた。


「ミュレット」

「……っ」

「すまない」


低く落ちたその一言で、ますます何も言えなくなる。

謝る声ではない。

離す気もない声だった。


そのあと、アランはしばらく何も言わなかった。

ただ、ミュレットを抱く腕だけが、少しも緩まない。


沈黙が落ちる。


その沈黙に耐えきれず、ミュレットは小さく息を吸った。


「……アラン様」

「ん?」


返ってきた声がやわらかくて、胸の内側が一気にふにゃりと崩れる。

そんな優しい声で返されたら、もう駄目だ。

ただでさえ危うい理性が、どんどんほどけていく。


「本当に、もういかないと……!」

「そうだな」


その返事さえ、どこか余裕がある。

悔しいのに、その余裕にまた胸が鳴る。


やがてアランの腕が、ようやくゆっくりと離れていった。


「……」


解放された、と思う。


熱を持った身体のまま、ミュレットは小さく息をついた。

このままもう一度引き止められたら、本当に戻れなくなる。

だから今のうちに行かなくては、と、半ば逃げるように扉へ向かう。


あと一歩で手が届く。


その瞬間だった。


「……っ」


後ろから手首を取られる。

驚いて振り向く間もなく、そのまま身体が引かれた。


次の瞬間、背中が扉へ触れる。


逃げ道を塞ぐみたいに、アランがすぐ目の前にいた。


「アラン、様……」


かろうじて名前を呼ぶ。


けれど、その先は続かなかった。


アランの手が頬へ触れる。

やさしく包むように、けれど視線を逸らさせない手つきだった。


目が合う。


静かな目だった。

静かなのに、逃がすつもりのない熱がある。


「戻れなくなるか?」

「……」

「好都合だ」


低く落ちた声とほとんど同時に、唇が重なった。


やわらかい、けれど逃がさない口づけだった。


扉へ押しつけられた背中が、ひやりと冷たい。

それなのに、触れている唇も、頬を包む手も、ひどく熱い。


「……ん」


かすかな吐息が漏れる。


短い口づけだったはずなのに、離れた時にはもう息がうまくできなかった。

胸が苦しいほど鳴っている。

足元まで力が抜けそうになる。


唇が離れても、アランはすぐには下がらなかった。

近すぎる距離のまま、ミュレットを見つめる。


「だ、ダメ!!」


思わず、両手でアランの口元を押さえる。

もう一度顔を寄せてこようとしたのが分かったからだ。


「なぜ?」


アランは、押さえられたまま、ほんの少し笑った。


その笑みを見て、ミュレットはますます顔を熱くする。


「……そ、その顔です!」

「顔?」

分からないふりをしている。

絶対に分かっているくせに。


「……アラン様が、笑って」

「こんなこと、したら」

「なんでも、言うことを聞いてしまいそうだから」

「……だめ」


最後のひと言だけが、ひどく静かに落ちた。


今の口づけの熱も、頬に残る手のぬくもりも、全部が近すぎて、言葉にする余裕がない。


「……だから、もうダメです」


アランはそれを見て、満足したようにほんの少し目を細めた。

それから、ようやく身体を離す。


「俺が喜ぶことをしているのはミュレットだ」

「……」

「ミュレットが悪い」


また少しだけ笑っている気配がして、ミュレットはもう駄目だった。


これ以上話していても、らちがあかない。

自分に鞭を打つみたいに、もう一度扉へ向かう。


手をかける。

けれど指先が震える。


なんとか部屋を出ると、そのまま廊下の壁へ小さく背中を預けた。


胸が苦しいほど鳴っている。

手のひらまで熱い。

唇がまだ、じんとする。


「……もう〜〜〜!」


小さく呻くように呟く。


困る。

本当に困る。

この人がふっと笑うと、だめだ。


しかも今日は、抱きしめられて、そのまま逃がしてもらえず、振り向かされて、扉へ押しつけられて、口づけまでされた。

あんなふうにされたあとで、平気でいられるはずがない。


仕事があるから逃げられた。

本当に、それだけだった。


困るのに。

うれしい。


それがいちばん、困るのだった。


一方、私室に残されたアランは、閉まった扉をしばらく見ていた。


逃げられた。

そう言えばそうだ。


だが、拒まれたわけではないことは分かる。

むしろ逆だった。


笑うと弱い。

なんでも言うことを聞いてしまいそうになる。

そう自分から言ったのだ。


そこへ、ちょうど書簡を届けに来たディルクが入ってくる。

扉の前で主の顔を見て、少しだけ眉を上げた。


「何か」

「何でもない」

「そうは見えませんが」

「気のせいだ」

「逃げられましたか」


アランは一拍だけ黙った。

それから、低く答える。


「……そうだ」


即答ではなかった。

それがかえって、否定のしようのない事実らしかった。


ディルクはそれ以上は言わなかった。

だが、その沈黙の中に笑いを含んでいるのが分かる。


アランは椅子へ浅く腰掛けながら、ひとつだけはっきりと思う。


あんなふうに逃げるくせに、嫌がってはいない。


それどころか、自分が笑うたびに揺れるのだと知ってしまった。

そして、追い詰めれば本当に何でも頷きそうだということも。


次に会った時、平然としていられないのは、むしろ自分のほうかもしれないと。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ