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Episode 38. 訓練所へ



昼食を口へ運びながらも、ミュレットの心は少しも落ち着かなかった。


朝の光の中で交わした言葉が、何度も胸の奥で繰り返される。


午後は訓練所にいる。

見たければ来るといい。

都合がつくなら、できれば来てほしい。


思い出すたびに、胸がどきどきする。


行っていいのだろうか。

行かないほうがいいのではないか。

そんなことを考えては、でも会いたい、と思ってしまう。


手元の食事はきちんと進めているはずなのに、何を食べたのかよく覚えていない。

ようやく最後のひと口を飲み込み、湯呑みへ手を伸ばしたところで、ミュレットは小さく息を吐いた。


「……」


だめだ。


今日一日、このまま気にし続けるくらいなら、行ったほうがましなのではないか。

そんなふうに、自分へ都合のいい言い訳をする。


けれど本当は、もう答えは決まっていた。


会いたい。


それだけだった。


ミュレットは静かに立ち上がる。

誰に何を言うでもなく、食器を整え、そっと食堂を出た。


訓練所は、王城の中でもいつも少し空気が違う場所だった。


近づくにつれて、木刀の打ち合う乾いた音が聞こえてくる。

掛け声。

足音。

土を踏みしめる音。

そこには夜会や私室の静けさとはまるで違う、熱のある空気が満ちていた。


ミュレットはすぐ下へ降りることはせず、二階のバルコニーから一階の訓練用広場を見下ろした。


広かった。


思っていたよりずっと広く、天井も高い。

陽の光が斜めに差し込み、訓練場の床へ明るい帯を落としている。

その中を騎士たちが動き、木刀を構え、打ち合い、声を張っていた。


そして、その中央にアランがいた。


「……っ」


息を呑む。


訓練用に適した服へ着替えたその姿は、いつもの王太子としての装いとはまるで違っていた。

余計な飾りのない、動きやすさだけを求めた黒の衣。

腕の動きが分かる程度に絞られた袖。

腰には帯。

そして、いつもは下ろしている前髪が上がっていて、額がはっきり見えている。


その、たったそれだけの違いで、まるで別の人みたいだった。


見慣れたはずの顔なのに、妙に近寄りがたく、そしてひどく目を引く。


どきり、と胸が鳴る。


「……」


見惚れてしまう。


アランは木刀を構えたまま、一人目の騎士と向かい合っていた。

次の瞬間には、打ち込まれた一撃を受け流し、半歩踏み込み、相手の体勢を崩す。

乾いた音。

相手の木刀が弾かれ、そのまま喉元へぴたりと先が止まった。


危なげがない。


相手が引き、二人目が前へ出る。

間髪入れず、また打ち合いが始まる。


速い。


ただ速いだけではない。

相手の癖を読むように視線を動かし、最小限の力でいなして、こちらの間合いへ引き込んでいく。

強引に押し切るのではなく、気づいた時には勝負が決まっている。

そんな戦い方だった。


強い、と思った。


分かっていたつもりだった。

戦場で国を守ってきた人なのだと。

王太子であると同時に、クレスティアの剣と呼ばれる人なのだと。


それでも、こうして実際に目の前で見ると、息を呑むほどだった。


三人目が出る。

打ち込む木刀を受け、流し、逆に崩す。

踏み込みの重さ。

振り抜く腕の迷いのなさ。

相手が体勢を立て直す前に、勝負を終わらせる容赦のなさ。


そのたびに、ミュレットの視線はますます吸い寄せられていく。


気づけば、少しだけ手すりへ身を乗り出していた。


汗を払うように、アランが片手で髪をかき上げる。


「……っ」


それだけで、また心臓が跳ねた。


だめだ、とミュレットは思う。

あんな仕草ひとつで、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。


見ているだけなのに、落ち着かない。

目を離せない。

離したくない。


その時、不意に下から視線が上がった。


アランと目が合う。


「……!」


ミュレットの胸が一気に鳴る。


次の瞬間、アランは手にしていた木刀を近くの騎士へ放った。

短く何かを告げる。

そして、ためらいなく駆けた。


「え……?」


階段ではなかった。


訓練場脇の低い手すりへ足をかけ、そのまま一気に跳ぶ。

二階の縁へ手をかけ、ほとんど音もなく身を引き上げる。


あまりに速くて、ミュレットはただ目を見開くことしかできない。


もう目の前にいた。


「そんなところから身を乗り出すな」


少しだけ眉を寄せて、アランが言う。


低い声だった。

叱っているというより、本気でそう思った響きだった。


ミュレットはようやく、自分が思っていたより前へ出ていたことに気づく。


「す、すみません……」

「落ちたらどうする」

「そ、そこまででは」

「見ていたのは分かっている」

「……」

「だが、危ない」


言いながら、アランの視線がミュレットの足元と手すりの位置を確かめるように落ちる。

本当に、それを気にしてここまで来たのだと分かった。


そのことが、また胸をあたためる。


アランはようやく小さく息を吐く。

それから、目を細めてミュレットを見る。


「……本当に来たんだな」


そのひと言には、叱る色も呆れる響きもなかった。

ただ、来たことそのものをうれしく思っている気配があった。


「……はい」


答えた声は小さい。

それだけで、また胸が鳴る。


アランはミュレットの顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「身を乗り出すほど、見ていたのか?」

「み、見てません……!」

「見ていた顔だった」

「……」

「三人目あたりから、ずっとだ」

「ど、どうして分かるんですか……」

「分かる」


当然のように言われて、ミュレットは返す言葉を失う。


顔が熱い。

絶対に、また赤くなっている。


「その、違うんです!」

「何が」

「違わなくは、ないんですけど……」

「……」

「見てはいました」

「そうか」

「……でも、そんなに分かりやすかったですか」

「視線を感じた」


即答だった。


「そう、ですか……」


真顔で言われてしまうと、もう反論もできない。


アランは少しだけ顔を寄せるようにして問う。


「どうだった」

「え」

「見に来たんだろう」

「そ、それは」

「違うのか」

「……違いません」


そこまで言ってしまって、ミュレットは観念したように視線を落とした。


どうだった、と聞かれる。

そんなの、正直に言えるはずがない。


すごく格好よかった、だなんて。

目が離せなかった、だなんて。

髪をかき上げるだけで胸が苦しくなった、だなんて。


どれも言えない。


「……その」

「……」

「強いなと、思って」

「それだけか」


アランの声が少し低くなる。


ミュレットはびくりと肩を揺らした。


「え」

「あれだけ見ていて、感想がそれだけか」

「そ、それ以外も、あります……!」

「言ってみろ」

「……」

「ミュレット」


逃げ道をなくす呼び方だった。


ミュレットは真っ赤になったまま、ぎゅっと指先を握る。


「……かっこ、よかったです」

「……」

「すごく」

「……」

「だから、その、見すぎました……」


言い切った瞬間、自分で言ったことに耐えられなくなる。

俯いてしまいたいのに、アランの気配が近くて逃げられない。


沈黙が落ちる。


ああ、やっぱり言わなければよかった。

そう思った次の瞬間、頭上で低い声がした。


「そうか」


短い。

けれど、そのたったひと言の中に、明らかな満足がにじんでいた。


ミュレットはおそるおそる顔を上げる。

アランは、とても機嫌がよさそうだった。


それが悔しい。

けれど、同時にうれしい。


「そんな顔をされると、もう来られません」

「無理だな」

「えっ」

「次も来い」

「……」

「見たいんだろう」

「……っ」


返せない。


本当にこの人は、こういう時だけ妙に容赦がない。


その時、下から騎士たちの声がした。

訓練はまだ続いている。

何人かがこちらを見上げている気配もある。


ミュレットはようやく、それに気づいてはっとした。


「……お、お邪魔してしまいました」

「していない」

「でも、訓練の途中でしたし」

「区切りはついた」

「そう、なのでしょうか」

「そうだ」


言い切ってから、アランはほんの少しだけ声を落とす。


「来たなら、顔を見たかった」


そのひと言が、まっすぐ胸へ落ちた。


言葉にできない。


ただ、うれしい。

うれしくて苦しい。


アランは下の広場へ一度だけ視線をやり、それからミュレットへ戻した。


「少し待て」

「え」

「すぐ終わらせる」

「えっ、いえ、そんな」

「そのあと送る」

「送るって……」

「ここからひとりで帰す気はない」


当然のように言われてしまって、また何も言えなくなる。


アランはそれ以上は説明しなかった。

ただ、ミュレットの反応に少し満足したように目を細めると、二階の縁へ手をかける。


「……アラン様」

「何だ」

「その」

「……」

「飛んでこられたの、びっくりしました」

「そうか」

「階段では、だめだったんですか」

「近いほうを選んだだけだ」

「……」

「それに、危なかった」


最後だけ、少し低かった。


ミュレットはまた胸が鳴るのを感じた。


来てくれたのは、会いたかったからだけではない。

危ないと思ったから。

それが先に来るのが、この人なのだ。


そのことが、どうしようもなくうれしい。


アランはもう一度だけミュレットを見る。


「待っていろ」

「……はい」


小さく頷くと、アランは今度は下へ飛び降りるように軽く身を落とし、音もなく訓練場へ戻っていった。


その背を、ミュレットはまた見つめてしまう。


戻っていく姿まで格好いいなんて、ずるいと思う。


下ではすぐに訓練が再開された。

木刀の音。

掛け声。

鋭い踏み込み。


けれど今は、さっきまでとは少し違って見えた。


あの人は自分が来たことをうれしいと思ってくれた。

顔を見たかったと言ってくれた。

次も来いと、あたりまえみたいに言った。


それらが胸の奥で何度も繰り返される。


ミュレットは手すりへ身を預けすぎないよう気をつけながら、今度は少しだけ距離を保って下を見た。


それでもやっぱり、目はアランを追ってしまう。


もう隠しているつもりでも、

心は先にあの人のほうへ向かってしまうのだと、

認めるしかなかった。



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