Episode 37. 隠せない変化
「もう少しだけ」
そう言って身を寄せたはずなのに、その“少し”は、ミュレットが思っていたよりずっと長かった。
朝の光が私室へやわらかく差し込む中、
ミュレットは気づけば、アランの部屋で思いのほか穏やかな時間を過ごしてしまっていた。
湯を使わせてもらい、
乱れた髪を整え、
落ち着こうとしてはまたアランの顔を見て胸を鳴らし、
そうしているうちに、アランの装いまで夜着から王太子の仕事着へと変わっていった。
昨夜の名残をわずかに残したやわらかな姿から、
いつもの隙のない黒い衣へ戻っていく様子を、
ミュレットはまともに見ていられなかった。
整えられていくたびに、
この人は本当に王太子なのだと改めて思い知らされるのに、
その同じ人が、つい先ほどまで自分のすぐそばで微笑んでいたこともまた本当で、
胸の奥がどうしようもなく騒いだ。
ようやく帰らなくてはと思った頃には、王城の朝はすっかり動き出していた。
「……どうしよう」
私室の扉の前で、ミュレットは青ざめた顔のまま立ち尽くしていた。
この時間はもう、使用人たちも騎士たちも普通に行き交っている。
今ここから出れば、誰かに見られる可能性は高い。
もし見られたら。
もし、王太子の私室から出てきたところを誰かに見咎められたら。
「もし、誰かに見られたら……なんといえば」
本気で途方に暮れた声だった。
背後でそれを聞いていたアランが、静かに言う。
「俺の部屋にいたと言えばいい」
「だっ、ダメです!」
勢いよく振り返ってしまう。
「こ、婚約もしていない男女が、しかも、王太子の部屋に一泊してしまうなんてっ!」
「そうか」
「そうです!」
「事実だが」
「事実でも、だめなものはだめです!」
言い切ってから、ミュレットはまた扉へ視線を戻した。
胸がどきどきして仕方がない。
セレスティアの顔まで浮かんでくる。
もし彼女に見つかったらどうなるか。
「セレスティアにもし見つかったら、根掘り葉掘り聞かれるし……!」
「……」
「どうしよう〜〜……」
半ば本気で泣きそうになりながら、ミュレットはそっと扉を少しだけ開けた。
細く開いた隙間から、外の回廊をうかがう。
まるで泥棒のようだった。
誰もいない、だろうか。
そう願ったのに、遠くには巡回の騎士の姿が見える。
反対側からは侍女たちの話し声も近づいてきそうだった。
「……だめです」
「何がだ」
「騎士の方がいます……」
「そうか」
「そうか、じゃありません……!」
慌てて扉を閉め、背中を預ける。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
いや、原因は分かっている。
朝、離れがたかったのだ。
アランの私室の空気も、寝具の匂いも、やわらかな微笑みも、何もかもが心地よすぎた。
それに――寝ぼけた自分が、あんなことをしてしまってからはなおさらだった。
あのあと、気まずくなるどころか、
アランは機嫌のよい顔を隠しもしなかったし、
ミュレットがもう少しだけと身を寄せれば、本当にその“もう少し”に付き合ってしまった。
湯を使わせ、
髪を整える時間まで与え、
その合間にも、ふいに頬へ触れたり、名前を呼んだりするものだから、
落ち着くどころではなかった。
そのせいで、すっかり時間を忘れてしまった。
「……っ」
思い返しただけで、また顔が熱くなる。
そんなミュレットを見て、アランの肩がわずかに揺れた。
すぐに何でもない顔をするように、わざとらしく少しだけ顔を逸らす。
「……なにがおもしろいんですか」
「いや」
「絶対、何か思っています!」
「別に」
「思ってます!」
じと、と睨むように見上げる。
けれどアランはそれ以上何も言わない。
ただ、口元だけがほんのわずかに緩んでいた。
寝ぼけて口づけてきたのはミュレットのほうだった、などとは、さすがに言えない。
そのあとも、互いに離れがたくて無駄に時間を使ったのだと口にすれば、
ミュレットはますます真っ赤になるに違いなかった。
アランは少しだけ息を吐いてから、ようやく口を開く。
「俺の転移魔法で部屋まで送る」
「……あ」
その手があったか、と顔に出たのだろう。
ミュレットははっとしたまま瞬きを繰り返した。
そうだ。
わざわざ廊下を歩かなくてもいい。
最初からそうすればよかったのだ。
「……なるほど」
「気づいていなかったのか」
「……あまりにも慌てていて」
「そうか」
少しだけ悔しい。
だが事実なので否定できなかった。
それでも道が見えたことで、ミュレットはようやくほっと息をつく。
「た、助かります……」
「ああ」
「本当に」
「わかっている」
アランは部屋の中央へ視線を向けた。
「そこへ立て」
「……はい」
言われた通り、ミュレットは部屋の中央へ歩く。
やがて床へ、複雑な魔法陣が淡く浮かび上がった。
幾重にも重なる線が静かに巡り、淡い光を帯びている。
転移魔法。
昨夜はアランに抱きしめられたまま、勢いのまま連れて来られた。
けれど今度は、自分の意志で魔法陣の上へ立つことになる。
自室へ戻るだけだ。
何も怖いことはない。
そう分かっているのに、胸の奥が少しだけそわついた。
ひとりで、転移する。
それがふいに心細く感じられて、ミュレットは無意識に指先をぎゅっと握る。
「どうした?」
低い声に顔を上げる。
アランがすぐそばでこちらを見ていた。
「その……」
「……」
「ひとりでは、初めてだから」
「……」
「少し、緊張します」
正直にそう言うと、アランはしばらく黙った。
呆れられるかもしれない、と思った。
王城にいる以上、転移魔法など珍しいものではない。
しかも自室へ戻るだけで、こんなにも緊張するなんて、子どもみたいだ。
けれどアランは責める代わりに、小さく息を吐いた。
「わかった」
そのひと言のあと、アランはまっすぐミュレットのほうへ歩いてくる。
「アラン様?」
「ひとりが嫌なら、そう言えばいい」
「……っ」
次の瞬間、やわらかく抱きしめられていた。
「……あ」
「これでいいか」
「……」
「ミュレット」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
胸がどくどくと騒ぎ出す。
緊張で強ばっていた身体が、その腕の中でゆっくりほどけていくのが分かった。
「……はい」
「では、行こう」
光が強くなる。
足元の魔法陣が静かに巡り、次の瞬間には視界がふっと揺れた。
昨夜ほどの驚きはない。
けれど、やはり不思議な感覚だった。
落ちるわけでも浮くわけでもない。
足元が消えるようなのに、怖くない。
アランの腕の中にいるからだと、今ははっきり分かる。
すぐに、空気が変わった。
見慣れた、自分の部屋。
小さな机。
整えられた寝台。
朝の光が差し込む、静かな自室。
転移が完了したのだと気づくのとほぼ同時に、アランの腕が離れた。
「悪い。そろそろ行かなければならない」
その言葉に、ミュレットははっとする。
そうだ。
アランにはこのあと仕事がある。
自分のせいでこれ以上時間を取らせるわけにはいかない。
「……あっ、ありがとうございます」
「ああ」
アランは短く答える。
けれど、すぐに戻るつもりなのだろう。
私室で見たやわらかな空気とは違い、すでに王太子としての顔へ戻りかけていた。
それでも、目の奥だけはまだやさしかった。
「ミュレット」
「はい……!」
「また会いにいく」
即答だった。
呼吸が止まりそうになる。
“そのうち”でも、“時間があれば”でもなく、
また会いにいくと、まっすぐ言われた。
それだけで、この人も離れがたかったのだと分かってしまう。
「……本当に?」
「午後は訓練所にいる」
「訓練所?」
「見たければ来るといい」
あまりにも真面目に言われて、ミュレットは返す言葉を失う。
誘われている。
会いに来てほしいのだと、分かるように。
本当にこの人は、こういう時だけ妙に容赦がない。
けれど、その容赦のなさの奥に、
自分と同じように会いたいと思っている気配が透けて見えて、
胸の奥がきゅうと甘く痛んだ。
アランはごく短くミュレットを見つめたあと、ふいに手を伸ばした。
指先が頬へ触れる。
ほんの一瞬、熱を確かめるように。
「……っ」
「都合がつかないならいい」
「……はい」
「だが、できれば来てほしい」
「わかりました」
会いたいと思っている。
そう、言葉にしなくても伝わった。
小さく頷くと、アランは満足したように手を離した。
そして次の瞬間には、足元へ再び淡い光が走る。
「アラン様」
「ん?」
「……お仕事、いってらっしゃいませ」
言うつもりはなかったのに、気づけば口からこぼれていた。
アランは一瞬だけ目を止める。
それから、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「行ってくる」
たったそれだけ。
それだけなのに、胸がまた大きく鳴った。
次の瞬間には、アランの姿は光とともに消えていた。
部屋に静けさが戻る。
ミュレットはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
さっきまで腕の中にあったぬくもりが、まだ身体へ残っている気がする。
遅れて、じわじわと頬が熱くなる。
アランの私室で朝を過ごして、
見つからないよう慌てて、
結局、抱きしめられたまま自室へ送ってもらった。
何もかもが現実味を失うほど甘くて、ひとつ思い返すたびに心臓がおかしくなる。
「……もう」
誰にともなく呟いて、ミュレットは両手で顔を覆った。
こんなふうでは、本当に隠せない。
今日一日、ちゃんと普段通りでいられる自信がなかった。
それでも、胸の奥にあるのは不安だけではない。
たしかにあった温度。
向けられたやさしさ。
そして最後に見た、あのわずかな微笑み。
それらを抱えたまま、ミュレットはゆっくりと息を吐く。
まずは落ち着こう。
少なくとも、顔の熱を引かせなくては。
このまま医務室へ行けば、間違いなく何かを察される。
そう思いながらも、
胸の奥に満ちたやわらかさまでは、どうしても消せそうになかった。
朝の光は、すでに自室の床を明るく照らしている。
昨夜から今朝にかけて起きたことを思えば、
もう何も変わっていないふりなど、できるはずもなかった。




