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Episode 35. ほどけたあとで



最後の口づけが離れても、呼吸はすぐには戻らなかった。


ミュレットはソファへ腰を落としたまま、熱を持った頬をどうしていいか分からず、ただ浅く息を繰り返していた。

胸が苦しいほど鳴っている。

耳の奥まで、自分の鼓動が響いていた。


目の前には、アランがいる。


それだけでまた顔が熱くなる。


さっきまで、泣いていた。

苦しくて、恥ずかしくて、どうしようもなくて、隠し続けてきた気持ちがあふれてしまった。

なのに今は、その全部を知ってもらえたことが、どうしようもなくうれしい。


アランはすぐには離れなかった。

ミュレットのすぐそばに身を寄せたまま、その顔をじっと見ている。


泣き腫らした目元も、

乱れた呼吸も、

熱の残る頬も、

きっと何もかも見られている。


それがたまらなく恥ずかしくて、ミュレットは視線を落とした。


「……ミュレット」


低い声で名を呼ばれる。


それだけで肩がびくりと揺れた。


「は、い……」


掠れた返事に、アランはほんのわずかに目を細める。


その手が伸びてきて、頬へかかった髪を耳元へ払った。

指先が肌へかすかに触れる。

それだけのことなのに、身体がまた熱を持つ。


「顔を上げてくれ」

「……無理、です」

「なぜだ」

「……恥ずかしい、から」


正直に言うと、アランは少しだけ黙った。

それから、ごく小さく息を吐く。


困ったような、けれどどこか満たされたような気配だった。


「すまない」

「……」

「俺は見たい」

「……っ」


そんなことを言われたら、余計に顔を上げられない。


ミュレットが膝の上で指をきゅっと握ると、アランはその手へ自分の手を重ねた。

大きな手だった。

包み込まれるだけで、胸の奥のざわつきが少しずつほどけていく。


「もう、逃げなくていい」

「……」

「遠ざけられるのは、終わりにしたい」

「……はい」


小さく答えると、その手にこもる力がほんのわずかに強くなった。


「本当に、いいのか」

「……」

「さっきの言葉を、聞き間違いにはしたくない」

「……はい」

「今も、同じ気持ちか」

「……同じ、です」


そこまで言ってから、ミュレットはようやく少しだけ顔を上げた。


アランの目は、静かだった。

静かなのに、今はその奥に隠しきれない熱がある。

何度も遠ざけられて、それでも手を放さずにいてくれた人の目だった。


まっすぐに見つめられていると、胸の奥がじわじわと痛くなる。

うれしいのに、泣きたくなる。

やさしすぎて、苦しくなる。


アランの親指が、そっと手の甲を撫でた。


「では、これからは隠すな」

「……」

「苦しいなら苦しいと言え」

「……」

「嫌なら嫌だと言え」

「……」

「勝手に諦めるな」


最後のひと言だけ、少し低く、強かった。


ミュレットはその言葉に息を詰める。


勝手に諦めるな。


それは責める響きではなかった。

むしろ、ずっと手を伸ばしたかったのに届かなかった人が、ようやく真正面から掴んできたような響きだった。


「……ごめんなさい」

「謝ってほしいわけではない」

「……」

「ただ、もうひとりで泣かせたくない」

「……はい」


今度は少しだけ、ちゃんとした声で答えられた。


アランはそれを聞くと、ようやく満足したように目を細める。

そのまま手を引かれ、ミュレットは自然とアランのほうへ身を預ける形になった。


肩へ腕が回る。

ゆっくりと抱き寄せられる。


さっきまでの激しさはない。

確かめるように、壊さないように、静かに抱きしめられる。


ミュレットはおそるおそる、その胸元へ額を寄せた。


あたたかい。

規則正しい鼓動が、耳のそばで鳴っている。


その音を聞いていると、ようやく本当に終わったのだと思えた。

長く続いたすれ違いも。

思い込んでいた諦めも。

自分ひとりで抱えていた恋心も。


全部がほどけて、今はここにある。


「……アラン様」

「何だ」

「……夢みたいです」

「夢ではない」

「……」

「そう思うなら、何度でも言う」


アランの声は低く、落ち着いていた。

けれど、その一語一語は妙に甘く胸へ落ちてくる。


「俺は、ミュレットを愛している」

「……っ」


また目の奥が熱くなった。


言われたばかりのはずなのに、何度聞いても慣れない。

むしろ聞くたびに胸の奥へ深く沁みていく。


ミュレットが黙ったまま胸元の布をきゅっと握ると、アランの手が背をゆっくり撫でた。


「また泣くのか」

「……少し、だけです」

「少しなら許す」

「……そんな言い方」

「事実だ」


真面目な声音なのに、どこかやわらかい。

それがおかしくて、ミュレットは涙の気配を抱えたまま、ほんの少しだけ笑った。


すると、アランの腕がまた静かに力を増す。


笑ったことすら、逃したくないみたいだった。


しばらく、言葉はなかった。

ただ抱きしめられたまま、静かな時間だけが流れていく。


私室の灯りは落ち着いていて、外の夜も深い。

王城のどこかではまだ人の気配が残っているのだろう。

けれどこの部屋だけは、別の世界みたいに静かだった。


その静けさの中で、ミュレットの胸に、ふいに別の痛みが差す。


あたたかい。

うれしい。

幸せだ。


なのに、その全部の奥で、まだひとつだけ、言えていないことがある。


自分のこと。

隠しているもの。

この人にまだ渡していない、本当の部分。


ミュレットの指先が、無意識にかすかに強ばった。


「どうした?」


アランが問う。


驚くほどやさしい表情だった。


ミュレットは反射的に首を振る。


「い、いえ」

「……」


否定したのに、きっと隠せていない。

こういう時の自分は、ひどく分かりやすいのだともう知っている。


けれど、アランはそれ以上は問い詰めなかった。


ただ、「そうか」とだけ静かに言った。


それから、ミュレットの髪をかき分けるようにやさしく触れ、そのまま首元へそっと手を添える。

逃げ道を塞ぐためではない。

そこにいることを確かめるみたいな手つきだった。


そして、低く、まっすぐに言う。


「あいしている」


その言葉に、胸が大きく揺れた。


問いただす代わりに、その言葉で包まれる。

見抜かれていることにも、

待たれていることにも、

何も言わずに許されていることにも気づいてしまう。


今は言えなくてもいいのだと、少しだけ救われた。

同時に、もうこの人からは逃げられないのだとも知った。


「……はい」


それだけ答えるのが精一杯だった。


アランはその返事に満足したように、ミュレットの額へそっと口づける。

唇とは違う、静かでやわらかな口づけだった。


「今夜は、ここにいろ」

「……え」


ミュレットは思わず顔を上げた。


「で、でも」

「帰せると思うか」

「……」

「俺は思わない」


あまりにも真顔で言うものだから、ミュレットは目を瞬かせる。

次いで、じわじわと顔が熱くなる。


「そ、そういう言い方は……」

「このまま、ひとりにしたくない」

「……」

「泣いたあとだ」

「……」

「目が赤い」

「……」

「それに、俺がまだ離したくない」


最後のひと言だけ、少し低く、近かった。


ミュレットの心臓がまた大きく跳ねる。


帰るべきだ。

そう思う。

こんな時間に、こんな場所に、このままいていいはずがない。


けれど同時に、離れたくないと思ってしまう自分もいる。

胸元の鼓動も、腕の熱も、何もかもが心地よすぎた。


「……無理、です」

「何が」

「いろいろです」

「そうか」

「そうです」


アランは少しだけ息を吐く。

それから、まるで逃げ道をひとつずつ潰すみたいに、静かな声で言った。


「何もしないとは言わない」

「……っ」

「だが、無理はさせない」

「……」

「だから、ここにいろ」


そんなことをあまりにも真面目な顔で言われたら、余計にどうしたらいいか分からない。


ミュレットはしばらく俯いたまま迷っていた。

けれど、どれだけ迷っても、本当はもう答えが決まっているのだと気づいてしまう。


離れたくない。


その気持ちが、恥ずかしいほどはっきりしていた。


「……一回だけです」


ようやく、絞り出すように言う。


「本当に、今夜だけです」

「ああ」

「……絶対に」

「分かった」


あまりにも落ち着いた返事だった。

けれど、その目は少しだけやわらかく緩んでいる。

満たされているのが分かって、ミュレットはまた顔を熱くした。


「……そんな顔しないでください!」

「どんな顔だ」

「……わかっていて言ってます」

「そうかもしれない」


ほんの少しだけ、アランが笑う。


その笑みを見た瞬間、ミュレットの胸がまたきゅうと痛くなる。

こんなふうに笑う人だったのだと、今さら知る。

こんな表情を、自分に向けてくれるのだと知ってしまう。


それだけで、また好きになる。


私室の奥、寝台のほうへ視線が向く。


その意味を考えただけで、顔が熱い。

けれど、もう逃げるつもりもなかった。


ほどけたものを、もう一度結び直すように。

失いかけたものを、今度こそ離さないように。


その夜、ふたりは同じ静かな部屋で、

昨日までとは違う心のまま、同じ夜を越えることになった。



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