Episode 34. 移動する
ミュレットが涙をこぼしたままアランの胸元へ額を押しつけていると、抱きしめる腕の力がほんの少しだけ強くなった。
「……アラン様」
「移動する」
低い声が、耳のすぐそばで落ちる。
意味を考えるより早く、足元に光が走った。
「え――」
床へ、複雑な魔法陣が浮かび上がる。
幾重にも重なった線が静かに巡り、淡い光がふたりの身体を包み込む。
ミュレットは息を呑んだ。
転移魔法。
知識としては知っている。
見たことも、遠くからならあった。
けれど、自分がその中へ立つのは初めてだった。
視界がふっと揺れる。
身体が落ちるのでも浮くのでもない、奇妙な感覚だった。
足元が消えるのに、恐怖より先に、アランの腕の中にいることだけが妙に鮮明に分かる。
次の瞬間には、空気が変わっていた。
静かな灯り。
香のかすかな匂い。
見慣れた、けれど今はまだ慣れない部屋。
アランの私室だった。
ミュレットはようやく顔を上げる。
けれど、目の前にあるのは見慣れた回廊でも小食堂でもなく、完全に閉じた、彼の私室だ。
「……っ」
驚きで息が浅くなる。
初めて転移した感覚もまだ身体に残っている。
そのうえ泣いていたところをそのまま連れてこられて、どうしていいのか分からない。
アランはミュレットを離さなかった。
しばらくそのまま抱き寄せていたあと、正面から顔を見るように、少しだけ距離を取った。
泣いたあとの顔を、真正面から見られる。
それだけでまた涙が込み上げてきそうになる。
「ミュレット」
低く、名を呼ばれる。
「……はい」
「聞かせてほしい」
「……」
「なぜ、俺を遠ざける」
「……」
「泣いているのはなぜだ」
「……」
問いは静かだった。
責めているのではない。
けれど、どこまでも逃がさない。
アランはさらに続ける。
「俺はもう待てない」
「……」
「もう、教えてくれ」
その言葉に、ミュレットの喉が詰まる。
ああ、本当に。
この人は、ただ待っていただけではなかったのだ。
何も言わず立ち尽くしていたのではなく、苦しみながらも前へ進み、自分へ向かってきた。
その熱が、いまも目の前にある。
だからもう、誤魔化せない。
「……アラン様、を」
ようやく声が出る。
けれどそこから先が続かない。
アランは急かさなかった。
ただ、目を逸らさずに待っている。
それがかえって苦しい。
ミュレットは唇を噛み、震える息を整えた。
目の奥が熱い。
頬も、喉も、胸の奥も、全部が苦しい。
「アラン様を」
もう一度、絞り出す。
「……愛してしまいました」
言った瞬間、また涙が落ちた。
止まらない。
ぽろぽろと零れる。
「だから、遠ざけたかったんです」
声が崩れる。
「……」
「近くにいると、どんどん、欲しくなるから」
「……」
「隣にいたいって、思ってしまうから」
「……」
「わたしなんかが、そんなこと思ってはいけないのに」
最後はもう、泣き崩れるようだった。
アランはしばらく何も言わなかった。
ただ、その告白をひとつ残らず受け止めるように見つめていた。
やがて、ごく静かに目を細める。
「ああ」
それだけだった。
けれど、そのたった一音に、どれほどの安堵が込められていたか、ミュレットにも分かった。
「俺も、愛している」
次の瞬間、頬へ手が添えられる。
涙で濡れた顔を、壊れ物みたいに持ち上げられる。
視線が合う。
もう逃げられない。
逃げる理由も、どこかへ消えていた。
「……っ」
唇が重なった。
やわらかい、短い口づけだった。
けれど次には、もう一度。
今度は少し長く。
ミュレットが息を呑む隙さえ惜しむように、繰り返される。
「アラン、さ」
名を呼ぼうとした声まで、また唇で塞がれる。
額へ。
まぶたへ。
頬へ。
そしてまた唇へ。
何度も、何度も。
それは衝動のようでもあり、確かめるようでもあった。
本当に言ったのか。
本当に自分を愛していると、あのミュレットが口にしたのか。
それをひとつずつ確かめるみたいに、アランは何度も口づけた。
ミュレットは後ろへと押されるように下がり、膝裏がソファの縁へ触れ、そのまま腰を落とした。
すぐにアランが追いつき、そのまま包み込まれる。
逃げたくない。
けれど心臓が苦しいほど速い。
「……ん」
かすかな吐息が漏れる。
アランの目が、すぐ近くで揺れる。
静かな人なのに、いまはその目だけがひどく熱を持っていた。
「もう一度」
低い声が落ちる。
「言ってくれ」
「……」
「……聞きたい」
そんなことを言われたら、また顔が熱くなる。
ミュレットは涙の名残で滲む視界のまま、アランを見る。
この人の前では、もう隠しきれない。
どれだけ遠ざけても、結局ここへ戻ってきてしまう。
「……愛して、います」
今度は、さっきより少しだけはっきりと。
「アラン様を」
アランは息を止めたように見えた。
それから、どうしようもなく満たされた顔で、ほんの少し笑う。
「そうか」
また口づけが降る。
今度はさっきよりも甘く、深く、逃がさない。
ミュレットの肩へ腕が回り、腰へ手が添う。
身体が震えるたび、その震えごと抱き込まれる。
「っ……」
「まだだ」
「……」
「足りない」
「……んっ」
さっきまで泣いていたのに、今は違う意味で息がうまくできない。
胸がいっぱいで、苦しくて、でもどうしようもなくうれしい。
アランの唇が離れたほんの隙間で、ミュレットは震える声を漏らした。
「……どうして」
「何だ」
「どうして、こんなに」
「待っていた」
答えは即座だった。
「ずっと、待っていた」
「……」
「遠ざけられても、断られても」
「……」
「だから、本当に嬉しい」
その言葉に、ミュレットの頬がさらに熱くなる。
アランはまた少しだけ身を屈め、ミュレットの額へ自分の額を寄せた。
鼻先が触れそうな距離。
呼吸が混ざる近さ。
「もう、恋人ではないと言わせない」
「そ、それは……ごめんなさい」
ミュレットがしどろもどろに謝ると、アランはふっと微笑んだ。
その微笑みがあまりにやわらかくて、ミュレットはまた息を呑む。
「俺だけの、ミュレットだ」
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、それで十分だったらしい。
アランは満足したように目を細めると、最後にもう一度だけ、やわらかく唇を重ねた。
私室の灯りは静かだった。
窓の外の夜は深い。
けれどその部屋だけは、長くすれ違っていた二人の気持ちがようやく重なった熱で、やわらかく満ちていた。




