Episode 33. やっと終わった夜
その夜、王城の小食堂はいつもより静かだった。
形式だけの縁談。
その最後の席が、ようやく終わったのだ。
白い卓布の上には、食後の茶器と、まだ片づけきれていない皿が残っている。
給仕の侍女たちが静かに動き、灯りの下で銀器がかすかに音を立てた。
ミュレットは、その片づけを手伝っていた。
本当なら、わざわざ来る必要はない。
医務室の仕事を終えたあと、もう自室へ戻ってもよかった。
けれど、戻れなかった。
落ち着かないのだ。
あの食事会が、今夜で終わる。
そう思えば思うほど、心の中がざわついた。
長い黒髪。
まっすぐに伸びた背筋。
後ろ姿だけで分かる、揺るぎない気品。
あの人は、どう見たってアランの隣に立つにふさわしかった。
たとえ形式だけの席でも、
たとえ最後には断ると分かっていても、
目の前であの絵のような光景を見てしまったあとでは、胸の奥の痛みをごまかしきれなかった。
だからこうして、片づけに逃げている。
皿を重ねる。
布を畳む。
空いた器を盆へ載せる。
黙々と手を動かしていれば、少しは余計なことを考えずに済む気がした。
「ミュレット様、そのあたりは私どもが」
侍女が遠慮がちに言う。
「……いいの」
「ですが」
「少し、手を動かしていたいの」
それ以上は言わせないように、小さく笑ってみせる。
侍女は困ったように頭を下げた。
きっと気づいているのだろう。
今日のミュレットが、少しおかしいことくらい。
でも、気づかれてもどうにもならない。
ミュレットは空になった杯を布で拭きながら、胸の奥に重く沈んだ感情を押し込めようとした。
嫉妬なんて、みっともない。
自分がそういう感情を持つ資格など、どこにもないのに。
愛していると言われただけだ。
それだけで何かが決まったわけではない。
隣にいていいと許されたわけでもない。
そう何度自分に言い聞かせても、
それでも痛いものは痛かった。
ふいに、後ろで扉が開く音がした。
侍女たちの気配が、わずかに張る。
ミュレットは振り返らなかった。
振り返らなくても分かる。
この空気の変わり方を、もう知ってしまっているからだ。
「……まだいたのか」
低い声が落ちる。
ミュレットの指先が、ほんのわずかに止まる。
けれど顔は上げない。
「片づけを、少し」
「そうか」
その返事のあと、また短い沈黙が落ちた。
侍女たちは、明らかにどうしたものかという顔をしていた。
その空気を察したのか、アランは静かに言う。
「ここはいい。下がれ」
「は、はい」
数人の侍女が小さく礼をし、音を立てないように小食堂を出ていく。
最後に残った女官も、盆を抱えたままそっと下がった。
あっという間に、室内にはミュレットとアランだけが残された。
ミュレットは、なおも器を拭いていた。
拭かなくても十分きれいな杯だった。
ただ、手を止めたくなかった。
アランの気配が近づく。
「終わった」
ぽつり、とそう言った。
ミュレットは返事をしない。
「縁談の処理は、これで終わりだ」
「……」
「何年も引きずっていた話に、片をつけた」
「……そう、ですか」
自分でも驚くほど、平たい声だった。
アランはそこで少しだけ間を置いた。
それから、静かに続ける。
「ミュレット、会いたかった」
その声には、喜びが滲んでいた。
ミュレットの胸が、ほんの少しだけ揺れる。
けれど、すぐに押し戻す。
「……よろしかったですね」
「何が」
「とても、お綺麗な方でした」
「……」
「アラン様の隣に、よくお似合いでした」
言いながら、自分で自分の声が嫌になった。
ひどく意地の悪い言い方だ。
でも止められなかった。
アランは黙ったまま、ミュレットの横顔を見る。
ミュレットは器へ視線を落としたままだ。
「行ってください……」
そのまま、ぽつりと続ける。
「とてもきれいなお姫様が、アラン様を待っています」
器を持つ手が、少しだけ震えていた。
自分でも分かる。
もう平静ではいられていない。
けれど今さら引き返せない。
「……ミュレット」
「殿下は、天上の人です」
「……」
「わたしは」
そこから先の言葉が続かない。
アランはその横顔を見つめたまま、わずかに目を見開いた。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
まさか、と思う。
嫉妬しているのか。
ミュレットが。
一度は自分の想いを退けたミュレットが。
いつも静かに飲み込み、苦しささえ見せまいとする彼女が、今、自分のことでこんなにも傷ついている。
その事実が、胸に甘く痛んだ。
言い返したい気持ちは、その瞬間に消えた。
残ったのは、どうしようもない愛しさと、ようやくここまで来たのかという安堵だけだった。
アランは静かに息を吐く。
それから、ミュレットの手の中にある杯をそっと取り上げた。
卓へ置く。
次いで、震える指先を自分の手の中へ包み込んだ。
冷えていた。
「……ミュレット」
低く呼ぶ。
その声は、自分でも驚くほどやわらかかった。
「泣かなくていい」
そのひと言で、胸の奥が大きく崩れた。
否定したい。
そんな資格はないと言いたい。
でも、もう無理だった。
あの後ろ姿ひとつで、あれほど苦しくなったのだ。
分からないふりなど、もうできない。
ミュレットは唇を噛んだ。
そのまま、とうとう目元が熱くなる。
「……っ」
「……」
「アラン様が、あの方と並んでいて」
「……」
「とても、お似合いで」
そこで声が詰まる。
分かっていた。
自分などより、ずっとふさわしい相手だと。
そう思わなければならないことも。
けれど、頭で分かっていても、どうにもならなかった。
見なければよかったのに、目が離せなかった。
胸の奥がざわついて、息が詰まって、ひどく苦しかった。
ミュレットは震える唇をどうにか動かす。
「……いやだったんです」
「……」
「見ていたら、苦しくて」
「……」
「どうしたらいいのか、分からなくて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「こんなふうに思うなんて、いけないのに……」
最後のひと言は、ひどく小さかった。
アランは深く、静かに息を吐いた。
込み上げるものを抑えるような、長い呼吸だった。
それから、包んだ手を離さないまま、もう片方の手でミュレットの頬に触れる。
親指で、こぼれた涙をぬぐった。
「……そうか」
低い声が落ちる。
それだけなのに、ミュレットの肩が小さく揺れた。
アランの手が、頬からそのまま髪へ触れる。
乱さぬよう、壊れものに触れるような手つきだった。
「そんな顔で、見ていたのか」
「……」
「俺を」
「……っ」
困ったように、けれどどうしようもなく甘い声音だった。
次の瞬間、ぐいと引き寄せられる。
「……っ」
抱きしめられた。
今度は衝動ではない。
逃がさないためでも、慰めるためだけでもない。
ようやく手の届くところまで来たものを、確かめるような抱擁だった。
「アラン、様……」
「やっと見せたな」
耳元に落ちる声が、ほんのわずかに震えている。
ミュレットは涙でぐしゃぐしゃのまま、アランの胸元へ額を押しつけた。
恥ずかしい。
苦しい。
でも、離れたくなかった。
アランの手が背を撫でる。
あやすように、何度もゆっくり。
「俺は」
低い声が落ちる。
「他の誰かを待ってなどいない」
「……」
「待っていたのは、ミュレットだけだ」
ミュレットの呼吸が止まる。
「……綺麗だと思った」
「最初から」
「ミュレットは、きれいだ。やさしくて、賢い」
「……そんな女性を前にして、他を見ろというほうが無理だ」
その言葉に、ミュレットは息を呑んだ。
あまりにもまっすぐで、受け止めきれなかった。
目を見開く。
胸が、痛いくらいに鳴る。
アランは抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力をこめた。
「分かっただろう」
「……」
「もう、勝手に傷つくな」
「……」
「苦しいなら、黙って逃げるな」
「……」
「俺に言ってほしい」
その声音は低く静かだった。
言い聞かせるようでいて、ひどくやさしい。
ミュレットは返事の代わりに、震える指でアランの上着をそっとつかんだ。
ほんのわずかな力だった。
けれど、それだけで十分だったのか、アランの息がかすかに揺れる。
「……ミュレット」
「……」
「今日は、もう何もするな。……少し、二人で話したい」
ミュレットは答えられない。
答えようとすると、また涙がこぼれそうだった。
アランの手が背を撫でる。
ゆっくり、何度も。
泣きやむまでここにいていいと、言葉の代わりに伝えるように。
小食堂の灯りは静かだった。
白い卓布の上には、まだ片づけきれていない皿が残っている。
けれど、そんなものはもうどうでもよかった。
長くすれ違って、苦しんで、胸の奥へ押し込めてきた感情が、ようやく形を持って零れてしまった。
アランの縁談も。
ミュレットの誤解も。
言葉にならなかった嫉妬も。
全部が、ようやくここへ来てほどけはじめていた。




