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Episode 32. 会えない日々



それから、アランに長いこと会えない日が続いた。


最初の二、三日は、公務が立て込んでいるのだろうと思った。


サンダレインから戻ったばかりだ。

同盟のこともある。

王太子として、片づけなければならないことが山ほどあるのだろう。

そう思えば、納得はできた。


けれど、四日、五日と過ぎても、アランは現れなかった。


回廊で見かけることもない。

医務室へ顔を出すこともない。

遠くで声だけ聞こえることもない。


あれほど、どこにいても気配が先に届く人だったのに、

会えないとなると、こんなにも王城は広かったのかと思い知らされる。


ミュレットは医務室で手を動かしながら、何度も余計なことを考えた。


サンダレインへ行ったからだろうか。

グレン王子に抱きしめられたと聞いて、呆れたのだろうか。

夜会でのことも、別れ際のことも、報告を受けて、さすがにもう愛想を尽かしたのかもしれない。


そんなふうに考えてしまう自分が嫌で、ミュレットは小さく息をつく。


「……何を期待しているの」


誰にも聞こえないように、小さくこぼす。


愛していると言われただけだ。

それだけで何かが決まったわけではない。

それだけで、隣にいていいと許されたわけでもない。


もともと、そうあるべきなのだ。


王太子が縁談を進めることも、

相応しい令嬢が王城へ呼ばれることも、

少しもおかしくはない。


むしろ、そうならない方がおかしかっただけだ。


それなのに、

会えなくなったことも、

令嬢たちが増えたことも、

全部、自分がサンダレインへ行ったせいにしたくなる。


自分で自分を慰めるみたいで、ひどく惨めだった。


それでも。


会えない日が続けば続くほど、

城の中のどこかであの人の声がしないかと耳を澄ませてしまう。

黒い外套の裾が視界の端をよぎらないかと、無意識に探してしまう。

回廊を曲がるたび、もしかして、と胸が鳴る。


そして、毎回いない。


それが少しずつ、じわじわと胸を削っていった。


そうしているうちに、王城には見慣れぬ令嬢たちの姿が増え始めた。


最初はひとりだった。


淡い藤色のドレスを着た、楚々とした娘。

次は深い青の衣装をまとった侯爵家の令嬢。

その次は、母親らしき婦人を伴った、いかにも育ちのよさそうな姫君。


一人、また一人と、順番に増える。


王城の応接間の前を通れば、香の匂いが残る。

大広間の一角には、見慣れぬ華やかな扇や手袋が置かれている。

侍女たちは声を潜めながらも、目だけは忙しなく動かしていた。


「また今日も」

「ええ、今度は西の方のご領主の……」

「いよいよ本格的に動かれるのかしら」

「殿下が?」

「縁談よ」


その言葉を聞いた瞬間、ミュレットは手にしていた薬草を落としかけた。


縁談。


言葉としては、前から知っている。

アランにはいくつもの話が来ていると、噂くらいは耳に入っていた。

むしろ、来ていて当然の立場だ。


それなのに、いざ王城へ令嬢たちが実際に出入りし始めると、その当たり前がひどく現実味を持って迫ってくる。


「あの方は王太子だもの」

「そろそろ決めてもおかしくないわよね」

「戦後ずっと先送りだっただけで」


侍女たちの声は、悪意があるわけではない。

ただ事実を言っているだけだ。


だからこそ、余計に痛かった。


ミュレットは黙って医務室へ戻る。

そしてまた、手を動かす。

薬草を分け、布を畳み、薬瓶を並べる。


手だけを動かしていれば、余計なことを考えずに済む気がした。


けれど、そんなことはなかった。


白い指先。

柔らかな香り。

華やかな裾。

整えられた髪。


遠くから見かけるたびに、

彼女たちはアランの隣に立つのにふさわしい人たちなのだと、いやでも分かってしまう。


そのたびに、胸の奥へ小さな棘が刺さる。

その痛みを嫉妬と呼んではいけない気がして、ミュレットはただ目を伏せるしかなかった。


さらに数日後には、噂はもう少し具体的になっていた。


「一件だけ、正式にお受けになるらしいわ」

「正式に?」

「形だけみたいだけど」

「どういうこと?」

「一度きちんと席を設けて、食事をして、それから詫びの品を添えてお断りするんですって」

「まあ……」

「さすがに長く放置しすぎたから、礼を尽くす必要があるって」


その話を聞いた時、ミュレットはなぜか少しだけほっとした。


正式に受ける、と言っても、本当に受けるわけではない。

礼のための食事だと聞けば、胸の痛みも少しは和らぐと思った。


けれど、その考えは甘かった。


その日の夕刻、医務室の仕事を終えた帰りだった。


大広間の脇を通りかかったとき、向こうの小食堂へ続く扉が少しだけ開いていた。

灯りが洩れている。

中で給仕が動いている気配もある。


通り過ぎればよかった。


そう思うのに、足が止まったのは、低く落ちる聞き慣れた声が聞こえたからだ。


アランだった。


ほんのわずかに開いた隙間から、中が見える。


白い卓布。

整えられた食器。

控える侍女。

その向こうに、アランが座っていた。


そして、その向かいには、令嬢がひとり。


長い黒髪をまっすぐに流し、

耳元には、見慣れない古風な耳飾りが揺れていた。


派手ではない。

けれど、ひと目で分かる。

育ちのよさと品のある女だった。


ただ、楚々としているだけでもない。

静かな後ろ姿の中に、どこか気の強さを隠しきれないような張りがあった。


派手ではないのに、整いすぎた席に不思議なくらいよく似合っている。

ひと目見ただけで分かってしまう。

ああ、この人は、アランの隣に座ることを許される側の人なのだと。


ミュレットの胸が、音もなく沈んだ。


アランは何かを話していた。

令嬢も穏やかに返している。

食事は静かに進んでいるらしかった。


楽しそうに見えた。


本当に楽しんでいるのかどうかなど、分からない。

形式だけの席なのだと、頭では理解している。

それでも、離れた場所から見れば十分だった。


華やかな席。

美しい令嬢。

王太子のアラン。

整いすぎた絵のような光景。


そこに自分の入り込む余地など、最初からなかったのだと思い知らされるには十分だった。


ミュレットは思わず一歩、後ろへ下がる。


見つかってはいけない。

見ていたことを知られてはいけない。


そう思うのに、視線だけが切れない。


あの人が、他の誰かと食事をしている。

きちんと向かい合って。

穏やかに言葉を交わして。

王太子として、相応しい女性と。


胸の奥が、ぎゅうと痛んだ。


嫉妬、という言葉が頭をよぎる。

すぐに打ち消したかった。

こんな立場で、そんな感情を持つ資格はない。


けれど、痛みはなくならなかった。


ミュレットはようやく踵を返す。

足早にその場を離れる。

静かな回廊へ出たところで、ようやく息を吐いた。


「……何をしてるの」


自分へ向けた声は、ひどくかすれていた。


形式だけの縁談だと聞いた。

礼のための食事だと聞いた。

それなのに、あんな後ろ姿ひとつで心をかき乱されるなんて。


笑ってしまう。

本当に、どうしようもない。


けれど笑えなかった。


胸の奥だけが、ひどく重い。


アランは会いに来ない。

令嬢たちは増える。

噂は現実になり、現実はこうして目の前にある。


ミュレットは回廊の窓辺へ手をつき、しばらく動けなかった。


窓の向こうでは、夏へ向かう庭の草木が静かに揺れている。

風はぬるく、夕焼けは淡い。


それなのに、ミュレットの中だけが、取り残されたみたいに冷えていた。


あの人の隣に立てるのは、

きっと最初から、

自分のような人間ではなかったのだと、

夕暮れの光の中で、いやというほど思い知らされてしまった。



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