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Episode 31. 決意の朝



ミュレットが帰ってからの夜は、ひどく静かだった。


静かなのに、アランの内側だけが少しも静まらなかった。


私室のソファに腰を下ろし、卓の上へ残された茶器を見る。

ブルーベリーの香りがまだかすかに残っている。

菓子は半分ほど減っていて、紅茶の水面は少しだけ下がっていた。


さっきまで、そこにミュレットがいた。


湯上がりで頬を少し赤くして、

濡れた髪を自分で拭き、

紅茶をひとくち飲んでは、驚いたように目を丸くしていた。


「初めて飲む味です。ブルーベリーが入っているんですね」


そう言った声まで、まだ耳の奥に残っている。


アランは目を閉じた。


ミュレットが、自分の淹れた茶を飲む。

自分が選んだ菓子を食べる。

その隣で、自分はただ彼女を見ている。


それだけのことだった。


それだけのことなのに、あれはまさに、アランがこの世界で願う平和そのものだった。


戦がなく、

血の匂いもなく、

誰も奪われず、

誰も泣かず、

ただ、好きな女が安心して茶を飲んでいる。


そんな時間を守りたいのだと、あの光景を前にした時、あまりにもはっきり分かってしまった。


グレンのもとへ行き、

帰ってきたミュレットは、

夜会のことも、口づけも、抱擁も、ちゃんと話した。


それだけでもアランの胸には十分重かった。


だがそのあとで、

ミュレットは必死になって否定した。


つまらないと思ったことなどないと。

素敵で、強くて、優しくて

そんなふうに、ひどく真面目な顔で言った。


そして最後には、


「とても、かわいいですし!」


と、墓穴まで掘った。


思い出すと、口元がわずかに動く。

あれほど真っ赤になって、

言ってから自分で固まっていたくせに、

それでもアランを安心させようと、必死だった。


そのためなら何でもする、という顔だった。


あの顔を見てしまった。


あそこまでさせておいて、

まだ待つのか、とアランは思う。


ただ想うだけでは、足りない。


愛していると告げるだけでも、足りない。


抱きしめるだけでも、

手を伸ばすだけでも、

いずれまた、ミュレットは自分から離れようとする。


それが彼女だ。


自分が傷つくことより、

自分が巻き込まれることより、

アランの立場や、国や、周囲の目を先に考える。


だから、思いだけでは駄目なのだ。


気持ちでは足りない。

慰めでも足りない。

甘い言葉を重ねるだけでは、

ミュレットは最後のところで頷かない。


妃として迎え入れる道を、王として開くしかない。


アランはゆっくりと息を吐いた。


戦場では、必要なことを見極めれば、あとは速かった。

政治も本来はそうあるべきだ。

問題を前にして、優先順位を見誤らなければよい。


いま、自分の前にある問題は明白だった。


ミュレットを、

この国で、

誰が見ても正当に、

自分の隣へ置けるようにすること。


そのために何が要るか。


まず、長年放置してきた縁談だ。


大国の姫。

有力貴族の令嬢。

同盟のために差し出された、いくつもの話。


断ってもいない。

受けてもいない。

ただ後回しにし、最下層へ積み上げていた案件の山。


あれがある限り、

アランがどれだけ本気だと示しても、

外から見れば“まだ王太子は誰も選んでいない”で終わる。


ミュレットが受け入れないのも当然だ。


戦後処理。

領地再編。

外交。

軍備。

税の調整。

山ほどある案件の中で、

女性関係――すなわち縁談処理は、

ずっと最下層に置いていた。


必要だが急ぎではない。

そう判断してきた。


だが、もう違う。


ミュレットを迎える道をひらくために必要なら、

それは最優先だ。


アランはそこでようやく立ち上がった。

卓の上の茶器を見下ろす。


ブルーベリーの香り。

半分になった菓子。

ミュレットが触れたソファの布地。


ミュレットが、この部屋であたりまえのように過ごせる日を、

“特別な夜”ではなく、

“日常”にするために。


そのためなら、なんでもする。


そう思った時にはもう、迷いはなかった。




翌朝、ディルクが執務室へ入ってきた時、

アランはすでに机の上へいくつかの書類を並べていた。


夜のあいだに抽出させたものだ。

未返答の縁談一覧。

各家ごとの利害。

返答保留の理由。

今後の対応案。


どれも今までなら、

確認だけして端へ寄せて終わる類のものだった。


ディルクは一歩入ったところで机上を見て、

わずかに目を細めた。


「……珍しいものをご覧になっていますね」

「そうか」

「ええ」

「なら、ちょうどいい」

「何がでしょう」

「返事をしていない縁談話に、すべて片をつける」


ディルクは沈黙した。


ほんの一拍。

長年仕えてきた側近らしい、最低限の驚きの間だった。


「……すべて、ですか」

「すべてだ」

「一件ずつ、精査ではなく」

「一件ずつ片づける」

「理由を伺っても」

「必要か」

「私には」

ディルクは淡々と返す。


アランは机上の書類へ視線を落とした。


「今まで、優先順位の最下層に置いていた」

「はい」

「だが、それでは遅い」

「……」

「戦後、後回しにしてよいものではなかった」

「それは、外交上の理由で?」

「違う」

アランは即答した。

「では」

「迎え入れるためだ」


ディルクの目が、ほんのわずかに動いた。


だが、驚きはすぐに消える。

たぶん彼は昨夜の時点で、どこか予感していたのだろう。


「ミュレット様を」

「ああ」

「妃として」

「その道を、ひらく」


執務室の朝の光は冷静だった。

なのに、その言葉だけが妙に熱を持って落ちた。


アランは続ける。


「恋だの愛だのと告げるだけでは、ミュレットは最後まで頷かない」

「……」

「自分が巻き込まれることより、俺の立場や国のことを先に考える」

「はい」

「なら、先に俺が潰す」

「何を」

「不安要素を」


ディルクは短く息をついた。

納得した時の、彼特有の静かな呼吸だった。


「どこまでやりますか」

「全部だ」

「縁談の正式辞退」

「ああ」

「一部、形式だけ受けて礼を通す必要のある家もあります」

「分かっている」

「食事会と詫びの品で収める形に?」

「必要ならそうしろ」

「反発も出ます」

「出させておけ」

「ミュレット様の名を、どの段階で」

「まだ出すな」

「承知しました」


そこまで言って、ディルクは机上の一覧を手に取る。

視線で順に確認し、すでに頭の中で処理の順序を組み立てているらしい。


「優先順位をすべて入れ替えます」

「そうしろ」

「軍務・外政・税制の次に置いていた項目を」

「一番上だ」

「……」

「縁談の対応を、最上位へ上げる」

「承知しました」


その言葉が口に出た瞬間、妙な可笑しさがあった。


つい昨日まで、

この欄は事実上“放置”と同義だった。

アラン自身、見たくもない書類として最下層へ沈めていた。


それがいま、

最上位に来る。


恋に落ちたからではない。

恋に浮かれたからでもない。


王として必要だからだ。


自分の隣へ、

たったひとりの女を迎えるために。


「殿下」

「何だ」

「かなり忙しくなります」

「分かっている」

「寝る時間も削れます」

「構わない」

「顔を出せない日も増えます」

「……」


そこだけ、アランは一瞬だけ沈黙した。


ディルクはその間を見逃さなかったが、何も言わない。


アランは低く言う。


「それでもやる」

「はい」

「会えないからといって、止める理由にはならない」

「……」

「早急に片をつける」

「承知しました」


ディルクは一礼した。

その顔には、かすかに苦労の予感が滲んでいたが、

止める気はないらしい。


「本気なのですね」

「今さら何だ」

「確認です」

「本気だ」

「では」

ディルクは書類を抱え直す。

「王太子殿下の“最優先事項”、承りました」


皮肉ではなかった。

ただ、長年仕えてきた者だけが言える、わずかな含みだった。


アランはそれを無視しなかった。

無視しなかったが、返したのは短い一言だけだった。


「ああ」


ディルクが退室する。

扉が閉まる。


執務室に静けさが戻ると、アランは窓の外を見た。


クレスティアの朝。

まだ少し冷たい風。

庭の緑。

遠くを行く侍女たちの白い影。


あの庭に、またミュレットが立つ日常を思う。

茶を飲み、

菓子を食べ、

少し困ったように笑う顔を思う。


あれを守りたい。


ただ守るだけではなく、

堂々と、

誰にも文句を言わせず、

自分の隣へ置きたい。


だったら、もう迷う理由はない。


アランは新しい書類を引き寄せた。


戦の終わらせ方なら知っている。

国の立て直し方も知っている。

なら、迎え入れるための道も、切りひらけばいい。


断界王と呼ばれようが、

冷たい王太子と恐れられようが、

そんなことはどうでもいい。


ミュレットを妃として迎える。


そのために必要なものを、

今日からひとつ残らず片づける。


朝の光の中で、

アランの決意はもう揺らがなかった。



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